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来日百年、ヴォーリズ平和礼拝堂が完成 [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年4月20日金曜日)からの転載です

画像は常陸宮殿下とヴォーリズ

(ヴォーリズライブラリから)

常陸宮とヴォーリズ.jpg

「イエス・キリストを模範とする人間教育」を建学の精神とする滋賀県八幡市の近江兄弟社学園に、このほど創始者ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)の来日百年を記念する「ヴォーリズ平和礼拝堂」が完成しました。来月には諸宗教の代表者を招き、世界平和を祈る式典が行われると伝えられます。

 ヴォーリズはアメリカ・カンザス州に生まれました。建築家を志していましたが、学生時代にキリスト教の講演に感動し、外国伝道を決意します。大学卒業後、明治38(1905)年に滋賀県立商業高校の英語科教師として来日しました。放課後、下宿で聖書研究会を開くことが条件で、たちまち学内にYMCAが結成されるほど、子供たちを感化したのですが、その熱心さを快く思わない人たちもいて、ヴォーリズは2年後、失職します。

 その後、ヴォーリズは建築事務所を開き、明治学院礼拝堂や大丸百貨店大阪店、山の上ホテルなどの建築に関わり、一方でメンソレータムの販売権を取得し、さらに近江基督教伝道団(近江ミッション、のちの近江兄弟社)を結成し、伝道活動を行いました。メンソレータム販売の利益は大部分が伝道資金になり、近江ミッションの財政を支えました。ハモンドオルガンを日本に初めて紹介したのもヴォーリズで、讃美歌の作詞作曲も手がけています。

 大正8年に子爵・一柳末徳の三女・満喜子と結婚、満喜子はその後、教育分野の発展に寄与し、これがのちの近江兄弟社学園に発展します。

 昭和16年の日米開戦前夜、ヴォーリズは日本に帰化し、一柳米来留(めれる)と改名します。

「アメリカから来たりて留まる」

 という意味の洒落だといわれます。ヴォーリズは近江八幡を「世界の中心」と考え、この地を終生、愛しました。戦争中は、収容された軽井沢から故国アメリカに戦争の終結を訴え、終戦後にはマッカーサーと近衛文麿の会談を仲介したといわれます。

 昭和29年、社会公共事業の功績が認められて藍綬褒章を授与し、33年には近江八幡市の名誉市民第1号に推挙されました。さらに36年には建築界における功績で黄綬褒章を受けました。

 信仰を伝え、1600を超える作品を残し、ヴォーリズは83歳でこの世を去りました。葬儀は近江市民葬と近江兄弟社葬との合同で行われたといわれます。
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