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神への畏れがない──三社祭だけではない。知識人ほど宗教性が希薄 [神社]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年5月22日火曜日)からの転載です

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神への畏れがない
──三社祭だけではない。知識人ほど宗教性が希薄
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 東京・浅草神社の三社祭は先日の日曜日が最終日で、三基の本社神輿が五月晴れの町に繰り出し、浅草は人々の熱気と興奮に包まれましたが、神社と奉賛会が呼びかけていた「神輿乗り禁止」が徹底されず、担ぎ手の1人が迷惑条例違反で現行犯逮捕されるという異常事態となりました。

 神輿は神様の乗り物であって、人が乗るべきものではないのですが、以前から再三の注意にもかかわらず「神霊を汚す行為」が繰り返されてきました。そして昨年、十数人の大勢の担ぎ手が神輿(二之宮)に乗り、担ぎ棒が折れるという「前代未聞の不祥事」が起きたことから、神社側は同好会などに対して

「神聖な神輿には絶対に乗らない」

 などの遵守事項を示し、神輿乗りが行われれば次年度の宮出しはしないという重大な決意で望むことになったのでした。
http://www.sanjasama.jp/tsutatsu0705.html

 しかし注意は守られませんでした。なぜこのようなことになったのか。原因として指摘されるのは、1つは神社側と担ぎ手の感覚のズレ、もう1つは神社や祭りの社会的変質、3つ目は現代人の神観念の稀薄さでしょうか。

 祭りを主催する神社側は祭りや神輿を神聖なものと考えています。神様に失礼があってはならないというのが宗教的な基本的姿勢ですが、同好会などの担ぎ手は、神輿が壊れない程度なら乗ってもかまわないだろう、という解釈です。神社や祭り、神輿に対する神聖な感覚がともすると失われています。

 その背景には社会の変化があります。神社も祭りも本来は地域のものですが、現代社会は国民の半数が給与所得者というサラリーマン社会であり、10年前の古い数字でいえば、1人平均2.75回の転勤を経験します。一生を同じ土地で過ごす日本人は4人に1人もいません(伊達達也『生活の中の人口学』など)。その結果、氏神信仰の前提となる地域共同体意識が風前の灯火となり、神社は宗教法人法の所有であり、祭りは主催であるという感覚が一般化しています。

 祭りの神輿の担ぎ手は地域内ではなく、地域外から集まります。氏子ではない外部の担ぎ手の存在なくして祭りが成り立たない状況が生まれて、すでに久しく、こうしてかつては神聖だった氏子地域の祭りが、やややもするとお祭り騒ぎのイベントと化します。

 これに拍車をかけているのは、啓蒙主義的な教育の普及です。家庭でも学校でも宗教的情操教育はおろか、知識教育も行われず、その結果、基本的な知識が欠け、神への感覚は稀薄になり、知識人ほど神への畏れを失っています。たとえば、祭りの様子を伝えるマスメディアの画像はしばしば神輿を見下ろしています。神輿の神聖を侵しているのはけっして神輿乗りの担ぎ手ばかりではありません。

 ある神社の神職が

「神様っていうのは怖いものなんですよ」

 と、1つの神体験を語ってくれたことがありますが、宗教的な体験や感覚は現代人にとってはおよそ縁遠いものとなっています。日本人が日本人である限り、神社の祭りに血が騒ぐけれども、神への立ち居振る舞いを教えてくれる人がないとなれば、ときに暴走や逸脱が起きるのは当然でしょう。

 三社祭のケースでは神社側は盛んに祭りの神聖さを語っていますが、これはむしろ希有な例で、宗教家自身が日本人の精神史に関して多くを知らないということもあり得ます。ときには不十分な理解のままに、俗受けする歴史批判などに血道を上げる宗教家さえいます。

 聞くところによると、最近、ある国の大使が伊勢神宮をお詣りされたそうです。大使はイスラム教徒のようですが、日本の神社に敬意を表し、神道の作法にのっとってお詣りされました。大使は記紀神話の英語訳を熟読し、神々の名前をそらんじ、イスラム化される前のアラブ世界の神話と日本神話との共通性を語り、懇談の場に居合わせた神社関係者を驚かせたといいます。

 日本人が何を信じてきたのか、もはや外国人から教えてもらう時代になったのかも知れません。

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