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神社人とキリスト者の溝──伊勢神宮を表敬したバチカン大使 [天皇・皇室]

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神社人とキリスト者の溝
──伊勢神宮を表敬したバチカン大使
(斎藤吉久のブログ、2007年6月4日)
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「どうやって拝めばいいんじゃいのォ?」

 バングラデシュの孤児院に対する援助活動をしていたころ、イスラム系孤児院のモスクで、いっしょに訪問したある神社の宮司さんが私に問いかけたことがあります。自分は神道の神職だが、イスラムにはイスラムの祈りの作法があるだろうから、イスラムに敬意を表して、イスラムの作法で拝礼したい、というのでした。

 多神教的、多宗教的文明のなかで共存してきた日本人としてはごく自然な、素直な発想ですが、一神教の世界ではそうはいきません。このモスクにはイスラムの聖人の「仏足石」があり、特別に拝観させていただきましたが、異教徒がみだりにモスクに立ち入ることを許さないのがふつうです。


▢ 「参拝」か「訪問」か

 最近、この一神教と多神教に関するちょっとした議論が起きました。

 20年に一度の遷宮が近付く伊勢神宮ではいま各国大使の表敬が続いています。ユダヤ教やキリスト教、イスラムの国の大使が、それぞれの信仰はあるのでしょうが、たいていは御垣内で神道式の作法で拝礼すると聞きます。なかには一般の日本人以上に神道をよく理解する大使もいるようです。

 4月にはバチカン大使が伊勢神宮を表敬しました。神社関係者はたびたびバチカンを表敬してきましたから、返礼の意味もあるのでしょう。伊勢神宮側は大宮司以下が応対したといいますので、最大級のもてなしをし、大使はサンマリノ大使らとともに御正殿をはじめ神域を案内されたようです。

 このニュースについて、神社界の新聞が「参拝」と伝えました。境内に足を踏み入れたことをもって広義の「参拝」ととらえた表現でしたが、思わぬ波紋を呼びました。カトリック信徒の中から、日本の教会指導者に対する要求の声が上がったのです。

「日本の司教団は信徒の靖国参拝を疑問視しているのに、ローマ法王庁の大司教は伊勢参宮をしている。司教団はきちんと説明すべきだ」

 というのです。これに対して、先日、教会の新聞に

「拝礼はなかった」

 という記事が載りました。神道形式の拝礼はしていない、と神社専門紙の編集部が取材に答えた、というのです。あくまで「訪問」であって、異教の神を拝礼したのではない、と強調したいのでしょうか。

 しかし、「参拝」したのかしなかったのか、「拝礼」したのかしなかったのか、という形式的なこだわりは、あまり意味がありません。

 神道の場合、祓いを受けて、神前で二礼二拍手一礼の形式で拝礼することが正式な参拝形式のようにいわれますが、歴史的に見ればいろいろな形式が各地方、各神社であったようですし、神社の祭式はともかく、個人の祈りの形を拘束するものではないでしょう。ましてその形式が内心の信仰を告白し、表明するものではありません。


▢ なぜ形式にこだわるのか

 たとえば大アジア主義者として知られる頭山満は毎朝、明治神宮にお詣りしていたといわれますが、思うことがあって1人で祈るときは本殿近くに寄って正座し、1時間以上も瞑想していたと聞きます。また、靖国神社に数珠をもってお詣りする遺族がいても、誰もとがめ立てはしません。社殿で主の祈りを捧げるキリスト者も受け入れられています。一般の氏子崇敬者にはいろいろな祈りの形があり得ます。

 イスラムならばムスリムでないものが1日5回のサラート(礼拝)をしても意味がないでしょうし、キリスト教ならば異教徒が聖体拝領にあずかることは本来はあり得ないでしょう。それに比べれば、日本の宗教伝統はじつに大らかです。

 神社関係者が

「どうぞお詣りください」

「参拝してください」

 と呼びかけるのは、むろん改宗や棄教を誘っているわけではありません。神道形式の参拝や拝礼をしたからといって、改宗や棄教とは誰も思いません。もとより神の概念が異なります。各国大使の参宮は表敬と文化理解に目的があります。

 そうした諸宗教の対話や宗教宗派を超えた宗教協力を、第二次大戦後、積極的に推進してきたのはほかならぬカトリックです。諸宗教の代表者がいっしょに祈ることはいまでは珍しくなくなりました。立正佼成会の庭野開祖をして世界宗教者平和会議(WCRP)の創設を決意させたのも第二バチカン公会議への出席がきっかけです。WCRPの会合が各宗教施設で開かれるとき、出席者は宗教儀式に参列し、いっしょに祈りを捧げています。

 だとすれば、カトリックの教会指導者らは、なぜ神社への「参拝」「拝礼」を気にするのでしょうか。


▢ 塩竈神社に正式参拝した李登輝前総統はクリスチャン

 以前、日本のカトリック指導者たちは、ブッシュ大統領の明治神宮表敬参拝に強硬に反対しました。

「憲法が定める信教の自由・政教分離原則に違反する」

「宗教を外交の、外交を宗教の手段として利用することは許されない」

 というのがその理由でしたが、一昨年の金閣寺参詣には沈黙しました。金閣寺ではブッシュ大統領は小泉首相の手ほどきを受けて、金閣寺の本尊に拝礼しています。神社参拝は認めず、寺院参詣を認める根拠は何か。憲法の政教分離原則を盾にした批判では論理が一貫せず、あくまで見せかけの理由に過ぎないことが分かります。

 昨年、ローマ教皇は宗教対話を求めてトルコのブルー・モスクを表敬し、崇高な黙祷を捧げました。このとき日本の教会専門紙は

「教皇は拝礼しなかった」

 と説明するような記事を掲げたわけではないでしょうが、なぜ今回の伊勢参宮にはこだわりを表明しなければならないのでしょうか。
 
 折りしも李登輝・前総統が来日中ですが、クリスチャンとして知られる李前総統は奥の細道をたずねる旅の途中、宮城県の塩竃神社に正式参拝されたといわれます。

「前半生は日本人だった」

 と語る前総統ですが、正式参拝は心からの表敬の表明でしょう。日本のカトリック指導者にはなぜそれができないのでしょうか。

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