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「戦前の迫害」はあったのか [キリスト教]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年6月10日日曜日)からの転載です

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「戦前の迫害」はあったのか
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 メルマガを読んでくださっているクリスチャンの読者から、戦前のキリスト者が受けた「迫害」について、何度かメールをいただきました。たいへんありがたいことです。正直にいえば、私も以前はこの読者と同様に、キリスト者たちがつらい体験をした、という歴史をほとんど疑いもなく信じていました。

 けれども、戦時中、著書が発禁処分になるなど、当時の代表的神道人が受難を経験していたということを知り、歴史の事実は常識論的に考えているのとだいぶ違う、と思うようになりました。取材でお世話になったイスラム教の代表者にいたっては

「戦前の迫害なんて聞いたこともない」

 と断言していましたが、いろいろ調べてみると、さらにとんでもないことが分かってきました。

 先日、都心のあるカトリック教会で、東京大司教の特別講演がありました。テーマは日本宣教についてでしたが、大司教はその半生を振り返り、もう20年近く前のことでしょうか、赴任した埼玉・浦和で戦前を知る古い信徒から

「(お祭りで)神輿を家にぶつけられた」

 というような「迫害」の体験をさんざん聞かされた、と語り、戦前・戦中を迫害の時代と見る従来通りの歴史観を繰り返しました。

「神輿をぶつけられた」というのは非常に興味深い事件です。しかし、本人にとってはつらいことだとしても、体験は歴史そのものではありません。これを「迫害」と見るべきなのかどうか、慎重を要します。

 問題点は二つです。具体的にいつの時代なのか、そして具体的に何があったのか。

 戦前といっても、明治以降、禁教は解かれ、明治憲法は信教の自由を認めています。皇室がキリスト教会の社会事業を支援してきたことは、いまさらいうまでもありません。キリスト教文化から生まれた赤十字運動の日本での中心は、昔も今も皇室です。

 第一次大戦後には世界的な軍縮の時代がやってきます。例の上智大学生靖国神社参拝拒否事件は、軍縮の時代に起きています。戦争拡大の時代に事件が起きた、というような教会指導者の説明は誤りです。日中戦争、日米開戦となれば、話はまた変わります。神輿事件はいつの時代なのでしょうか。

 迫害とは一般に、国家による政治的、政策的迫害という意味でしょう。一定の法的根拠をもとにした、公的機関による公権力発動としての行為だとすれば、間違いなく迫害であり、信教の自由を認めていた明治憲法に違反する行為として断罪されなければなりません。

 たとえば、日中戦争勃発後の昭和13年の大阪憲兵隊事件で、「わが天皇とキリスト教の関係」など13カ条の質問を突きつけられ、チャペルに神宮大麻をまつるよう求められたことが「受難」とされています。

 憲兵などによる質問や大麻奉斎要求は明らかな権限逸脱でしょうが、『神戸女学院百年史』(1976年)などをみると、

「教会堂では葬式も行うが、それでもいいか」

 と質問すると、大麻のことは沙汰やみとなり、そればかりか、特高課長と副院長との間に個人的関係が生まれた、と記述されています。神戸女学院側の知恵はさすがというべきです。終わりのない戦争はないわけで、「迫害」を喧伝するのは知恵の無さをみずから暴露するものです。

 それなら、神輿事件はどうでしょう。年に一度のハレの日の無礼講にかこつけて、器の小さな人間が日ごろの鬱憤を晴らす陰湿な嫌がらせを行ったというのであれば、国家による迫害という表現は不適当です。嫌がらせならいつの時代でも、どこの世界でも、あり得ます。

 いつの時代に、どんな具体的な事実があったのか、教会指導者の歴史検証はじつに不十分で、迫害された側の証言ばかりが独り歩きしています。

「国家と国家神道が一体となって戦争に邁進する中で……」
「国家による宗教統制が強まる中で……」(信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ)

 の迫害というような歴史叙述は、あまりに観念的、抽象的すぎます。迫害された側はともかく、迫害した側の検証が完全に抜け落ちています。これではまともな歴史検証とはいえません。

 実際、「迫害」では説明できない事実もあります。ほかならぬ浦和の教会のホームページには次のような歴史の事実が紹介されています。

 1934(昭和9)年 プラシード・メーラン神父らの宣教師が知事舎や信徒宅でミサを始める。
 1938年 埼玉師範付属小学校跡地の一部払い下げを県から許可されて、聖堂建設の土地が確保された。
 1939年、浦和地牧区創設に伴い、教区長座教会となる。
 1940年、「幼きイエズスのみ心・聖テレジア教会」が司祭館とも竣工し、献堂された。
 http://www.urawa-catholic.net/rekisi.html

 信徒の家に神輿をぶつけられたのが満州事変以前のことなのか、それとも日米開戦後なのか、分かりませんが、日米開戦後ならキリスト教国と戦火を交えているわけですから、相手国の宗教に対する偏見がわき上がるのは、日本もアメリカもお互い様であり、仕方がないことでしょう。

 しかし、日中戦争勃発後に公有地の払い下げを受け、日米開戦前夜に教会が竣工し、それ以前は知事公舎でミサがあげられていたという事実は、「国家による迫害」という見方とは完全に矛盾します。

 ホームページにはこの年表が教区の年五十年記念誌を出典としているという説明でしたので、1989(平成元)年に発行された記念誌(浦和教区史誌編集委員会編)を見てみました。B5サイズ、90ページ弱の記念誌は、教皇庁メッセージや福音宣教省長官のメッセージが冒頭に載り、そのあと司教の「二十一世紀を目指して」という挨拶文が載っています。

 司教は翌年、長崎大司教となるのですが、その文章は

「殉教者の血潮で清められた北関東の地に」

 で始まり、

「第二次大戦中、宣教師と外国人司祭たちは、政府による迫害の矢面に立ち」

 というような記述が続いています。案の定、迫害史観です。あってはならない戦争ですが、「第二次大戦中」なら、「外国人収容所に収容された」ということなら、「敵国人」に対する国際法で認められた合法的措置でしょう。宗教的な「迫害」ではありません。

 しかし、興味深いことに、短くまとめられた各教会の歴史を見ると、浦和の教会は、外国人宣教師の時代に、信徒だった旧制高校教授の斡旋で、師範附属小学校の跡地の払い下げが県から許可され、と書かれています。これは迫害どころか、行政的な優遇というべきです。

 要は、支援する人もいたし、嫌がらせをする輩もいた、というのが公平なものの見方ではないでしょうか。迫害史観は歴史の公平な見方とはいえません。

 さらに興味深いことに、同じ編集委員会が一年後、発行した『北関東のカトリック』と題する270ページほどの史誌があります。巻頭の「編集要旨」によれば、司教の提案で群馬、栃木、茨城、埼玉の400年間の教会史をまとめたもので、信仰者と信仰共同体の足跡を忠実に記録することが編集方針だとされます。

 ところが、その内容は、忠実な記録どころか、一方的な迫害の記録に終始しているといっても過言ではなく、驚くべきことに、五十年記念誌には描かれていた浦和の教会用地払い下げの歴史は見当たりません。支援者のカゲが消えてしまったのです。

 これでは迫害史観にあわせた、つまみ食いの歴史ではありませんか。

 つまみ食いをしたのは誰なのでしょうか。

『北関東のカトリック』の巻末には資料原稿執筆者・編集協力者の一覧が載っています。その筆頭に記されているのは、浦和の初代司教の名前です。

 戦前、ローマで司祭に叙階され、戦後になって帰国、20年以上、浦和教区長を務め、上智大学神学部の教壇にも立ちました。特筆すべきは、第二バチカン公会議で典礼の刷新を提唱したことです。ラテン語の典礼文を各国語に移行させることをラテン語で訴えたといわれます。

 しかし、それこそが今日の典礼の混乱の始まりという指摘もあります。

 キリスト教支援の歴史が消えているのはこの本だけではありません。

 昭和初年の古いカトリック新聞には、貞明皇后が御殿場のハンセン病療養所・神山復生病院をたびたび財政的、精神的に支援されたことが記事になっていますが、今日、病院のホームページにはほとんどその説明がありません。

 創立間もない女子フランシスコ会経営の聖母病院を援助するため、慈善音楽会に皇族方がお出ましになったという記事もありますが、同病院のホームページを見るかぎり、いまでは皇室の支援は影も形もありません。

 天皇・皇室批判を強める教会の指導者たちにとって、支援を受けていたという歴史はよほど具合が悪いのでしょうか。

 歴史の書き換えは教会の外部にも広がっています。

 長崎県は、県内の教会群を世界遺産として登録しようと名乗りを上げ、県をあげて運動を展開していますが、県などがまとめた提案のコンセプトには、秀吉のバテレン追放令に始まる迫害史観が羅列され、他方、荒っぽい宣教で領民が強制的に改宗させられ、神社仏閣が破壊され、領民が奴隷として売りさばかれるなど、迫害を受けるようになった教会内部の要因は無視されています。
http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/

 優れたキリシタン史研究で知られる慶応大学の高瀬弘一郎教授は

「大方のキリシタン史像は美化された殉教史であった」(『キリシタンの世紀』)

 と指摘していますが、これは行政によって改竄された歴史というほかはなく、偽史に基づく世界遺産登録運動がいずれ歴史に禍根をもたらすことは明らかでしょう。

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