SSブログ

李登輝「靖国参拝」の過剰な配慮 [靖国問題]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年6月12日火曜日)からの転載です

yasukuni4.gif
 今月7日、台湾の李登輝前総統が靖国神社を参拝しました。伝えられるところによると、神道式の二礼二拍手一拝ではなく、本殿で黙祷を捧げたといわれます。

 拝礼形式の宗教的意味については、4月にバチカン大使が伊勢神宮を表敬したことに関して、日本の教会指導者たちが

「拝礼がなかった」
「参拝ではない」

 と少なからずこだわっていることを取り上げ、先般、「神社人とキリスト者の溝」と題して書きましたが、もう一度、あらためて考えてみたいと思います。
http://web.mac.com/saito_sy/iWeb/SAITO%20Yoshihasa%20Website/08D5FC1D-C6C9-11DA-B337-000A95D44250/F76E4114-1253-11DC-A87C-000A95D44250.html

 李氏にとって、大戦末期、海軍に志願し、マニラで戦死した亡兄をまつる靖国神社に参拝することは長年の願いだったといわれ、一方、靖国神社の南部利昭宮司が昨年、訪台したとき、直接、参拝を要請したとも伝えられます。

 今回の奥の細道をたどる旅では、先月30日に成田に到着する前の機内で記者団に

「私人として実現したい」
「最後の訪日になるかも知れない。弟が行かないのは忍びない」

 と参拝を表明していましたが、訪日をアレンジした中嶋嶺雄・国際教養大学学長は

「警備の問題もあり、行かないだろう」

 との見方を示していたと伝えられます。

 李氏は靖国参拝の前に、東北各地の主要な社寺をたずね、芭蕉が近くに投宿したとされる塩竃神社では正式参拝しました。しかし、聞くところによると、神道式に玉串を捧げることはしなかったといわれます。中嶋氏の助言によるものと聞きます。

 靖国神社参拝の最終的意向をメディアが伝えたのは6日の夜でした。翌朝、李氏はホテルで亡兄への心情と参拝の希望を涙ながらに語りました。難色を示していた中嶋氏も最終的には了承したと伝えられますが、実際の参拝では二礼二拍手一礼の形式は採りませんでした。

 なぜ中嶋氏は靖国参拝に懸念を持ち、そして神道の作法を避けることを勧めたのでしょうか。

 数年前のちょうど今ごろ、中嶋氏にインタビューを試みたことがあります。テーマはほかならぬ靖国問題でした。最初の質問は、中国による靖国神社攻撃が止まない理由で、現代中国学が専門の中嶋氏は、おおむね次のように答えました。

「靖国問題が日中間のトゲのようになったのは中曽根内閣のときである。中曽根首相は胡耀邦総書記らと新しい日中関係を作ろうとし、大規模な青年交流などを進めていた。ところが、改革派の胡耀邦に対する保守派の抵抗が強く、中曽根首相が訪中したとき激しい反中曽根デモが起きた。中曽根参拝をたたくことで胡耀邦の追い落としをはかった。靖国問題は中国の内政の事情から起こった」

 さすが中国との太い人脈をもつ、中国研究の第一人者の分析ですが、だとすれば、今回の助言は、中国の反発を予期し、反発をかわすための配慮なのでしょうか。

 理由はもう一つあるのかも知れません。

 李氏は熱心なクリスチャンといわれます。中嶋氏もまたクリスチャンだといわれますが、唯一神を信仰するクリスチャンならば、熱心な信仰者であればあるほど、唯一神以外の神に拝礼することはあり得ません。神道式の作法を採用しないことで、信仰の表明ではないことを意思表示したのでしょうか。もしそうだとして、どこまで意味があるのでしょう。

 もともとキリスト教の神と靖国の神では神概念が異なります。招魂社に始まる靖国神社は、神社とはいうものの、その起源も性格も異なる、官国幣社以下、一般の神社のいずれにも該当しない神社です(小林健三ら『招魂社成立史の研究』)。戦前は、一般の神社が内務省の所管なのに対して、陸海軍の管理下に置かれていました。

 たとえばバチカンはそのことをよく理解し、戦前も戦後も信徒の参拝を、戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民の義務だとして認めています(1936年の指針)。

 李氏の参拝は、神社の作法であろうがなかろうが、信仰の表明ではなく、塩竃神社なら心からの表敬の表明でしょうし、靖国神社なら亡兄への心からの慰霊行為ということになります。

 中国の反発やキリスト者であることに配慮したとして、神道式の作法を採らないことに宗教的な意味はまったくありません。神社参拝は神道の信仰を直接的に表明する行為ではなく、キリスト教徒が教会で聖体拝領にあずかることとは意味が異なります。

 逆に恐れるのは、神道形式を採らないことで、参拝が信仰の表明ではないことを積極的に意思表示するという過剰な配慮が不敬な結果を及ぼしかねないことです。

 神道のみならず、それぞれの宗教には、聖なるものにより近付こうとして、それぞれ歴史的に形成されてきた作法があります。

 たとえば、10年前のやはり今ごろ、南インドのケララ州をたずねました。自然保護地区に近い山中に3000年前の創建と伝えられる、ヒンドゥーの最高神ビシュヌをまつるティルネリ寺院がありました。ヒンドゥー教徒以外、ふつうはお詣りできないのですが、案内してくれたオイスカの人たちのアレンジで、特別に拝観を許されました。

 上半身裸になり、白いドティを腰に巻き、裸足になるのが作法です。手を合わせながら、社殿に足を踏み入れると、暗がりの中で灯明が揺れ、内陣にビシュヌ神の神像がおぼろに見えました。

 同じころ、インドネシアの首都ジャカルタにある世界最大のイスラム寺院、国立のイスティクラル・モスクでは、全身をすっぽりと覆う白いローブに着替え、裸足になって、モスク内に入ることを許されましたが、それでもなお異教徒が立ち入れる区域は限られていました。

 キリスト教ならば、誰でも、いつでも、教会に足を踏み入れることができるかも知れません。しかしキリストの血と肉であるパンと葡萄酒を受ける聖体拝領は信徒以外には許されません。カトリックが聖なる典礼を厳格に重視してきたことはよく知られるところです。

 たとえば、先述したイスティクラル・モスクに、ムスリムでない者が、ローブに着替えずに立ち入ろうとすれば、どうなるのか、あるいは、キリスト教会のミサで、異教徒がむりやり聖体拝領を求めたとき、教会はどう対応するのか、を考えるなら、日本の神道の場合、今回の李氏の参拝がいみじくも示すように、じつに大らかですが、参拝者に対して自分のやりたいような自由な形式の参拝を奨励しているわけではありません。

 いかなる宗教であれ、人々が祈りを積み重ねてきた、それぞれの聖地を汚す行為は誰にも許されません。だとすれば、

「前半生は日本人だった」

 と語る李登輝前総統には、日本の神道の作法でお詣りをしていただきたかった、と思うのは筆者だけでしょうか。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。