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天皇の即位式を見物していた近世庶民 [天皇・皇室]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年6月21日木曜日)からの転載です

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天皇の即位式を見物していた近世庶民
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 大学生だったころ、恩師の1人であるS教授は、

「最近の学生は、日本とアメリカが戦争をした、という歴史を知らないのがいる」

 といってよく笑っていました。恩師が

「どうしてそんなことを知らないのか?」

 と聞くと、学生は

「だって、授業で習っていない」

 という答えが返ってきたといいます。

「どっちが勝ったと思うか?」

 とさらに聞くと、

「もしかして、日本ですか?」

 とまじめに聞き返す学生さえいるのでした。

 受験科目で歴史を取らない学生はせいぜい明治時代までしか授業で学ばず、現代史については常識レベルの知識さえないというのはお粗末な話です。けれども、歴史をまじめに学んだために、かえって歪んだ知識を身につけているとなると、これはもう笑い話ではすみません。

 産経新聞の黒田勝弘記者によると、お隣の韓国では小学生の5人に1人が、朝鮮戦争は「日本が韓国を侵略した戦争」だと考えているというのです。
http://www.sankei.co.jp/kokusai/korea/070619/kra070619000.htm

 韓国の有力雑誌「月刊中央」が実施したアンケート調査の結果で、その原因は近年の親北朝鮮的な学校教育と日本に対する敵愾心が挙げられているようです。実証史学とは無縁の洗脳教育といえます。

「日本が侵略」という理解は論外として、「日本が原因」という見方なら、日本の研究者のなかにもそういう考えの人がたまにいます。もう1人の恩師、政治学者のI教授がそうでした。

 30代前半で大学教授となり、海外の先端的政治学の研究成果を日本に紹介し、政治学の教科書を書き、世界的なクリスチャン人脈の中枢にいるI教授は、晩年はキリスト者の1人として諸宗教協力による平和活動に尽くしました。したがって、その影響力は侮れないものがあり、それだけ罪も重いといわざるを得ません。

 あるとき、金大中大統領と金正日総書記の南北首脳会談を絶賛するので、

「会談は5億ドルの秘密支援の結果ではないのですか? 大統領はノーベル賞をカネで買ったことになる」

 と指摘しても、教授は「疑惑」を認めようとしませんでした。最晩年は北朝鮮支援のNGOの代表者でしたから、本当は私などよりはるかに真相に精通し、それだからこそ秘密支援の事実を認めることができなかったのではないかとも想像されます。

 I教授はまた、靖国神社国家護持反対闘争を指導したイデオローグで、戦前の政治と宗教の歴史について、次のように主張していました。

「ここで問題となすべきことは、宗教が政治の手段として利用されてきた事実であり、しかも政府が自己の政策的な便宜から、ある宗教を『宗教にあらず』といってこれを特別扱いし、さらに他の宗教はこれを弾圧してはばからなかったということである。天皇を神話的に正当化する『国体』をも、一個の世俗的宗教にまで仕立て上げていったという背景が存在している。
 こうした背景のもとに、日本の軍国主義と国家主義が、そのイデオロギーにおいて猖獗(しょうけつ)を極めたことが敗戦までの歴史であった」

 また、靖国神社については、こう記しています。

「その成立の歴史から見ても、戦争や軍国主義に関係してきたことは否めず、また敗戦まではそれが陸海軍省の管理下にあったことも、象徴的である。……靖国神社の国家護持が持ち出されるのは、過去の悲惨な戦争を美化し、過去の誤った支配者の過ちと責任を糊塗隠蔽し、政府を自由に批判する国民の雰囲気を破壊するのではないかと危ぶまれる」
 
 つまり、戦前の「国家神道」が自分たちキリスト者の信仰を脅かしたと認識し、その苦い経験から「国家神道の亡霊」が目を覚まし、シンボルとしての靖国神社がふたたび国家と結びつくことに、I教授は強い不安と警戒感を抱いていたのでした。

 しかし、戦前の神道が「国教」にはほど遠く、神社に特別の保護を与えるどころか、圧迫を加えたというのが歴史の真実であり、戦時体制下においては神道人が軍国主義的戦時思想の推進者どころか、戦時内閣の思想統制の受難者であったことが知られています。

 I教授の歴史認識はじつに断定的ですが、事実とは明らかにかけ離れています。この世界の一万分の一ほどのことも知り得ないであろう人間が、しかも一般人より客観事実を重んじるべき立場にある研究者が、なぜこんなに断定的にものごとを言い切ってしまうのでしょうか。

 I教授の発言で、いちばん驚いたのは、明治以前は日本人は天皇なんて知らなかった、といういい方です。近代の天皇制は、明治になってでっち上げられたものだ、という意味なのでしょうか。

 しかし、桃の節句に親王雛を飾る雛祭りが全国的に盛んになるのは江戸時代といわれます。皇祖神を祀り、私幣禁断の社のはずの伊勢神宮に民衆が押し寄せるおかげ参りが全国化したのも江戸時代です。正月のカルタ遊びに用いられる百人一首は天皇や親王・内親王のお歌が一割を占めます。お寺の過去帳や墓碑には年号が記されています。

 明治以前の日本人は天皇など知らなかった、などとどうしていえるのでしょうか。少し考えれば簡単に分かることです。

 結局のところ、I教授の発言は、自身が政治学者であっても、歴史学者ではなかった、ということの証明に過ぎなかったのかも知れません。

 去年の秋、当ブログは、天皇の即位行事に「観覧券」が配られ、庶民が争って詰めかけていた、という読売新聞の記事を取り上げました。
http://web.mac.com/saito_sy/iWeb/SAITO%20Yoshihasa%20Website/08D5FC1D-C6C9-11DA-B337-000A95D44250/CD5C4DE2-776B-11DB-BED3-000A95D44250.html
 
 読売の記事は、国際日本文化研究センターの共同研究報告書『公家と武家3』に掲載された近世民衆史研究者・森田登代子氏の研究論文を紹介したのでしたが、森田氏はすでに昨年春、同センターの紀要「日本研究」に「近世民衆、天皇即位式拝見」を発表しています。

 森田氏の論文によると、近世の日本人は天皇など知らなかった、どころか、庶民が即位式を間近で拝観していたのでした。元禄年間からの町触れが収められた『京都町触集成』によると、天皇の祭りである大嘗祭、新嘗祭、そして即位儀礼が庶民に告知されていました。

 明正天皇の御即位行幸の屏風図は即位式に大勢の庶民が観覧していたことが確認できます。即位式観覧券とも呼ぶべき切手が発行されていたことを示す町触れも残されています。桃園天皇の即位式を拝観した庶民は男百人、女二百人でした。後水尾天皇の即位式を描いた屏風図には僧形の者や授乳中の女性までが描かれています。

 森田氏がいうように、近世の即位式は、庶民を排除し、庶民から隔離されたところで行われていたのではありません。国家最高の儀式は庶民が参加し、君民一体で祝われていたのでした。

 それにしても、このような基本的な歴史の事柄がなぜいままで知られてこなかったのか、不思議でなりません。

 近代の天皇制度は非伝統的な、明治の創作だとする理解は、女性・女系天皇容認論の根拠の1つともなっていますから、基本的な歴史理解の間違いの影響はけっして小さくありません。何のことはない、歴史を創作したのは明治人ではなくて、イデオロギー臭の強い現代の研究者だったのではありませんか。
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