ネパール国王と日本の天皇 [天皇・皇室]
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ネパール国王と日本の天皇
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先週、中日新聞のコラム「新世界事情」に、「責任問われて政治家は?」という記事が載りました。さきごろ自殺した日本の政治家の死をとらえて、世界の政治家がどのようにして政治責任を取っているのか、ネパール国王、中国の上海市党書記、イスラエル首相、ドイツのバーデン・ビュルテンブルク州首相の四つのケースについて、それぞれの地域に駐在する外信記者が検証していました。
http://www.chunichi.co.jp/article/world/newworld/CK2007062002025733.html
筆者が注目したのは、存亡の危機に立っているネパール王室に関する、バンコク駐在の平田記者の記事です。
平田記者は、王室の危機の原因はギャネンドラ国王の専横にあるが、根底には6年前、カトマンズの王宮で起きた銃乱射、ビレンドラ国王夫妻暗殺事件にからむ疑惑があると指摘します。ギャネンドラ国王はその場に居合わせず、パラス現皇太子はただ1人無傷でした。とすれば、この親子による謀略説がくすぶるのは当然です。
新国王は一昨年、非常事態を宣言し、みずから直接統治に乗り出しました。しかし民心は離れ、民主化運動が高まり、一年後、国王親政は崩壊します。今年秋には、王制廃止を掲げる共産党毛沢東主義派も参加する新憲法制定のための政権議会選挙が行われる予定で、「張り子の虎」の状態にある王室の命運はその結果にかかっている、と平田記者は結んでいます。
国王を「政治家」と見る見方には違和感が否めませんが、それはともかく、この記事に筆者が注目するのは、同じ君主制とはいえ、日本の天皇との歴史的な違いを感じずにはいられないからです。
まず、立憲君主国ネパールの歴史を簡単におさらいしてみます。
伝説によると、同国が位置するネパール谷(カトマンズ盆地)はかつては湖だったといわれます。それが中国から巡礼にやってきた文珠師利菩薩によって峡谷が開かれ、湖は大地となりました。菩薩は中国に帰りましたが、残った弟子のダルマルカルがネパール最初の王となったといわれています。その後、次々と王朝が起こったといわれますが、存在が確実なのはリッチャビ王朝(4、5世紀〜9世紀後半)からとされます。
1742年、西ネパールにいたプリトビナラヤン・シャーはその昔、イスラム教徒の侵入によって故国を追われ、ヒマラヤに移ってきたといわれるグルカ勢力の王となり、さらにネパール谷の諸王国に対して闘いを挑みました。やがてネパール谷を征服した王は1768年、新しい王朝を築きました。これが現在のグルカ王朝のルーツといいます。
1846年、ちょうど日本では孝明天皇が即位された年に当たりますが、ネパールでは王宮大虐殺事件が起きました。軍務大臣だったジャン・バハドゥールが政敵を一挙に殺害し、実権を握ったのです。バハドゥールはラナ姓を名乗り、国王に準じた大王を号しました。ラナ家は世襲の宰相となり、王権は有名無実化したといわれます。
このラナクラシーに終止符が打たれたのは、百年余りたった第二次大戦後の1951年でした。インドに亡命していたトリブバン国王が帰国し、ネパール会議派を中心とした勢力によって王政復古がなり、政党政治が始まりました。同時に19世紀以来の鎖国も解かれました。
しかし4年後、トリブバン国王が崩御、マヘンドラ皇太子が王位を継承します。ネパール最初の選挙が実施され、新憲法が公布されたのもつかの間、1960年、国王は突然、国会を解散し、政党政治を廃止し、国王親政を敷きました。その理由は政府の無能と腐敗に対する不満で、国民の間に不信が高まったからだとされています。1962年には新憲法が公布され、独特のパンチャーヤット体制が確立されました。
そのマヘンドラ国王が亡くなり、即位されたのがビレンドラ前国王でした。インド・ダージリンのセント・ジョセフ・カレッジやイギリスのイートン校で近代教育を受け、さらにアメリカのハーバード大学、日本の東大で学ばれました。今上天皇とも親しく、親日家として知られていました。
以上のようにネパールの歴史を概観すると、古くから君主制の歴史が続いているとはいえ、王朝の交代が何度も繰り返され、現在のグルカ王朝もたかだか300年に満たないこと、しかも国王がしばしば政治の実権を握ってきたことなど、日本の天皇制度とは際立った歴史の違いがあります。
平田記者が指摘するネパール王室の危機も、今回にかぎらず、何度も繰り返されており、政情が安定しているとはけっしていえない状況が以前から続いています。
平田記者の記事は、フランス革命でブルボン王制が倒れ、第一次大戦後、ドイツ、ロシア、オーストリアの君主制が亡び、第二次大戦後、イタリア、ユーゴ、ルーマニアの王朝が亡びた歴史がネパールにも当然のこととして起こる可能性を示唆しているようにも読めます。
つまり君主制と民主制(共和制)とを対立的にとらえ、民主制が君主制に取って代わることが例外なき歴史の法則であり、進歩であるかのような発想が背後にうかがえますが、ネパール王制の不安定性はあくまでネパール的な個別の現象であって、君主制一般の凋落の歴史としてとらえるのは無理がありそうです。
君主制を古臭い時代遅れの政治体制と見る見方には根強いものがありますが、逆に、王室こそ国政の安定要因であるという指摘もあります。たとえば、当メルマガ(ブログ)の読者でもある市村真一・京都大学名誉教授は、「君主制の擁護」(『教育の正常化を願って』創文社、昭和60年所収)と題するエッセイで、君主制には少なくとも次のような6つの長所があることを指摘しています。
1、君主によって、国家が象徴的に具現される
2、君主によって、政治家の権力欲が制御される
3、君主によって、外交の連続性が保たれる
4、君主によって、司法と立法、行政の3権力間の調整が期待される
5、義務をよくわきまえた官僚と彼らによる効率的行政が君主制の基盤となる
6、君主制下の将校団を中核とする軍隊はもっとも自然に団結し、忠誠が維持される
この一方で、市村先生は、君主制がもっている次の2つの弱点を指摘します。
1、連続性の要請
2、王室に要求される資質の厳しさ
ネパール王室が危機のただ中にある最大の要因は、ここに指摘される歴史の浅さではないのでしょうか。本居宣長が『直毘霊(なおびのみたま)』の冒頭に、
「わが国は(皇祖神である)天照大神がお生まれになった国で……」
と書いているように、日本の天皇が神話の時代にルーツを求められ、皇統が建国以来、一貫して続いているのに対して、ネパールのグルカ王朝の歴史は二百数十年前までさかのぼれるとはいえ、ラナ時代から決別してわずか50年にしかなりません。いまだ正統性の確立の途上にあるというのが正確なところであり、国民的な支持が確立されるまで、まだまだ不安定な時代は続くのでしょう。
王制が廃され、共和制に移行すれば、ネパールの政情が安定するとも限りません。市村先生が指摘するように、王室の正統性は王統の連続を要求し、いったん王統が途絶えれば正統性の回復は至難です。
つまり、ネパールの王制が目下の危機を克服しなければ、ネパールの王室ではなくて、今度はネパールという国家そのものが政情不安の時代に足を踏み入れることになるかも知れません。
世界を見渡せば、専制政治を打倒した革命政権がかえって独裁色を強め、新たな専制政治を呼び込んだ歴史は少なくありません。フランスしかり、ロシアしかりです。
平田記者はギャネンドラ国王の専横やパラス皇太子の悪行がネパールの政情不安の要因となっていることを指摘しますが、権威の中心であり、精神的価値の担い手である王室が国民の尊敬の対象であり続けることは容易ではありません。正統性の確立が十分でないなら、なおのことでしょう。
日本の天皇は、
「天照大神によって統治を委任(事依さし=ことよさし)された」(『直毘霊』)
と考えられてきました。神話に描かれた天照大神はキリスト教の絶対神にはほど遠く、むしろ弱々しくさえ映ります。天皇は地上の絶対権力者ではありません。しかも、
「帝室は政治社外のものなり」
「帝室は万機を統(すぶ)るものなり。万機に当たるものにあらず」(福沢諭吉『帝室論』)
として、非常時はともかくとして、平時においては、政争に介入しない立場にあって、事実、明治以後は議会の決議をつねに裁可され、内閣は各大臣の責任において行政権を行使してきたのでした。
しかし、戦後唯一の神道思想家である葦津珍彦が指摘しているように、非政治的、非権力的であることが無力であることを意味するものではありません。たとえば終戦の聖断という国家の命運を決する非常時において、昭和天皇は国政に関わる権能を直接、行使されています。天皇の決断によって、ポツダム宣言が受諾されたことが国民を1つにまとめ、国家存亡の危機を乗り越えることができたのです。
歴史も浅く、求心力も低下したネパール王室がそのような国民統合の真価を発揮できるかどうか。他方、ネパール国民が王室を中心に1つになれるかどうか、王朝の命運はそこにかかっているのでしょう。
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