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健康神社を広めたい [神社神道]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年8月12日日曜日)からの転載です


 久しぶりに(財)生涯学習開発財団理事長の松田妙子さんにお会いしました。いつもながら溌剌として、全身にオーラがみなぎっています。

 松田さんは昭和2年、東京に生まれました。

 大叔父の大森兵蔵氏は若くしてアメリカに渡り、バスケットボールとバレーボールを日本に紹介した人で、日本にとって最初のオリンピック参加となった1912年のストックホルム・オリンピックのときには監督を務めています。

 父君の松田竹千代氏は、14歳で渡米し、帰国後、政治家となり、戦後は郵政大臣、文部大臣、衆院議長を歴任しました。社会事業家としても知られています。

 そんな周囲の影響を受け、松田さんは女学生のとき

「アメリカに行きたい」

 と母君に話されたといいます。すると返ってきた答えは、

「英語だけ上手になっても意味がない。社会の役に立つことを学ぶのなら」。

 そこで考えたのが「テレビ」でした。街頭テレビがようやく出始めたころでしたが、その影響力がいずれ日本の家庭を大きく変えると確信した松田さんは、テレビの演出家になるという夢をいだき、ハリウッドに近い南カリフォルニア大学に留学しました。

 大学でテレビと映画の勉強をしたあと、NBCで5年間、演出の仕事をし、昭和34年、日本に帰国。渡米時とは比較にならないほど日本経済は発展していました。日本のことが誤解されていたアメリカに日本の姿を正確に知らせたい、と考えた松田さんは、PRという言葉さえ知られていなかった時代に、PR会社を設立し、「アメリカでナンバー・ワンの写真家」ユージン・スミスを呼びました。

「日本の経済成長を撮らないか」と。

 スミスは日本が大好きでした。日米が戦った南方戦線の戦後を撮り歩いていたとき、スミスは思わぬ発見をします。かつて写真誌「ライフ」に載ったスミスの写真が日本兵の塹壕(ざんごう)に貼られていたのです。

〈たとえ敵国同士でも、人間として理解し合える〉。

 それ以来、スミスは日本に関心を持つようになったのでした。3カ月の約束が1年半の滞在に延び、「東洋の巨人」と題する15頁の特集記事が「ライフ」誌を飾りました。

 会社が軌道に乗ったとき、またしても人生の転機が訪れました。結婚して、子供も二人。マイホームを建てようと思ったのでした。共稼ぎで何とか家は買えたのですが、良質な家が安く供給されているアメリカとは大違いでした。

 それで支援者の協力を得て、ずぶの素人ながら注文住宅会社を設立します。日本の一般住宅に2×4(ツー・バイ・フォー)工法を初めて導入し、安価な住宅づくりの普及に努めました。

 石油ショックが起きたのはその10年後でした。輸入材の価格がまたたく間に6~7倍に跳ね上がりました。しかしすでに契約した分を値上げすることはできません。会社は赤字に転落し、責任を取って経営から退きました。

 そのころ、松田さんは都心の閑静な住宅街で、塾帰りらしい小学校低学年の少年と行き会いました。半ズボンの「社会の窓」が開いていました。

「坊や、ジッパーが開いてるわよ」。

 少年は恥ずかしがるでもなく、お礼するでもなく、逆ににらみ返し、

「スケベ婆ア」

 と悪態をつきました。衝撃でした。裕福な育ちのようですが、年長者に対する態度や言葉遣いをしつけられていません。どんな日常生活を過ごしているのか。この少年の20年後はどんなだらう。松田さんは考えたといいます。

 子供の非行は住まいのあり方と関係があるのではないか。そんな仮説を立てて、凶悪犯罪で補導された少年少女700人の家庭環境を調べました。すると案の定、ほぼ全員が自室を持ち、50人に一人は何と冷蔵庫まで子供部屋に備えていました。

 いま国民の三分の二以上が持ち家に住んでいる。中流以上で両親は高学歴、母親は専業主婦。そんな家庭で引きこもりや家庭内暴力、果ては少女監禁事件などが起きている。かつては予想もしなかったような事件が、密室の子供部屋で起きている。家を建て、子供に個室と鍵を与えたが、親子は会話を失い、しつけができず、断絶している。

「家をつくって子を失う」。

 戦後の子供本位の住まひ方は誤りだ。家庭教育や家族のきづなを取り戻すためには、子供部屋の見直しが必要だ。

「子供部屋は文明の凶器」

 と松田さんは警鐘を鳴らし始めました。

 昭和52年、松田さんは財団法人住宅産業研修財団を設立し、理事長に就任します。住宅産業が興隆した反面、工務店の地位が低下していました。「よい住まい」作りのため、優秀な工務店を元気づけようと、組織化に着手したのです。
http://www.hic.or.jp/jho/

 戦後の住宅政策は間違っている、と松田さんはいいます。住まいの主役は本来、作り手ではなく、住人であり、住まいは家族の幸せの容れ物のはず。伝統的な木の文化を活かした、自然に順応し、地域に密着した住まいづくりをしたい、というのが松田さんの考えで、

「日本の伝統美を生かした住まい」と

「家族の幸せの容器としての住居」

 を追求する過程で生まれたのが、平成15年秋に開塾した大工育成塾です。
http://www.hic.or.jp/daiku/

 日本建築を学ぼうにも、明治34年(1901)以来、日本には教えてくれる大学がありません。明治の宮大工・木子清敬(きこ・きよよし)が12年間、帝国大学(東大)で講義を担当していましたが、西欧建築のうねりで教壇を去らざるを得なかったのです。

 それから百年、日本の伝統木造建築をになう匠の育成が、日本政府の支援の下で始まりました。松田さんは85歳までに1000人の若い大工職人を育成したいと意気込んでいます。

 松田さんは昭和61年には(財)生涯学習開発財団を設立し、理事長に就任しました。
http://www.gllc.or.jp/index.html

「人間は感動する心を失わず、何ごとかを学び続けるかぎり、年齢にとらわれない生き方をすることができる」

 というのが松田さんの考えで、財団は「エイジレス・ソサエティ」への貢献を目指しています。松田さん自身、71歳で東大の学位(工学博士)を取得したのでした。

 財団は昨年春、河口湖畔に研修施設「有隣園」(3000坪)をオープンしました。もともと父君の別荘があった場所で、霊峰富士がリビングはもちろん、風呂場からも見えます。

 庭には、富士山をのぞんで、木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)をまつる健康神社が鎮まっています。

「ワシの夢はなあ、神社を造りたいんぢゃ」

 という父君の遺志を継ぎ、父君や夫君、そして戦争で亡くなったたった一人の亡兄など、亡き家族の慰霊の意味をこめて建てられたのでした。

 松田さんが書いた健康神社の縁起には、こう記されています。

「この富士の麓の美しきところに、霊峰富士の大神と称える木花之開耶姫をまつる。大神の高き恩頼(みたまのふゆ)により、その名を健康神社と名づく。
 古来、多くの宗教が、哲学が、その真理を説き、神々が、預言者がその道徳を示し、人間の幸福を求めてきた。
 人間の本質は魂にあり。魂は現世のみならず、永遠に生くるものである。しかし、弱き人々にとって、この現世における健康を謳歌することの歓び、健康を失うことの悲しみ、これこそ誰に教わることなく、みずから知ることのできる明らかなものである。
 人生を大らかなうちに過ごし、その糧たる健康の何にもかえがたく尊きことを覚知したる松田竹千代は、つねに心身の健やかなることを祈願して止まなかった。
 その志を継ぎ、松田妙子は、世の人々の健康たらんことを祈願し、この神社を創祀した」

 虎ノ門のオフィスには分霊をいただいた神棚があり、すべての訪問者に拝礼を求めています。

「神社って、いいわよね。父は、神社ほど大らかなものはない、寛大なんやなあ、ともいってました。どこのお宮でも空気がきれいで、神々しさをものすごく感じますね。娘の主人はアメリカ人だけど、ちゃんと二礼二拍手一礼しますよ。神道を世界に知らせるべきですね。いちばん大切なのは健康。ね、健康神社って、いいでしょ。健康神社を広めたい」

 健康神社のお祭りは今月、行われます。

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