SSブログ

北朝鮮の軍内部に宗教が広まる? [韓国・朝鮮問題]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年9月9日日曜日)からの転載です


 元朝鮮労働党書記(北朝鮮)で、10年前に韓国に亡命した黄ジャンヨプ氏を常任顧問とする北朝鮮民主化ネットワークのニュース・サイト「デイリーNK」が伝えるところによると、いま北朝鮮では社会主義を批判する宗教が、ひそかに軍隊内部にまで広がっているようです。
http://www.dailynk.com/japanese/read.php?cataId=nk00100&num=1135

 このニュースによると、北朝鮮民主化委員会(黄ジャンヨプ委員長)が最近、入手した北朝鮮人民軍の「学習綱領」(今年3月発行、A4サイズ18ページ)には、人民軍の内部に宗教に接する軍人が増えているので、外部の出版物の流通および資本主義思想の流入を防ぐため、人民軍の思想教育を促す内容が盛り込まれているのだそうです。

 この軍の資料では、海外向けのラジオやテレビ放送、CD、出版物への警戒だけでなく、軍人が外部から流入する宗教に目をくらませることなく、社会主義思想を徹底的に固守することが強調されていることから、軍内部にまで宗教が浸透していることが確認できる、と「デイリーNK」は指摘しています。聖書などの出版物や録音、録画が外国からの訪問団やスパイなどによって持ち込まれている、とも指摘されているようです。

 このニュースがどこまで事実を伝えているのか、筆者には確認の術がありませんが、北朝鮮の「民主化」に国外のキリスト教団体が関わっているということから、すぐに思い起こされるのは、かつての日本統治時代の歴史です。日韓併合下では、プロテスタントの教会が「抗日」運動の拠点だったといわれています。

 なぜ教会が抗日運動の中核となったのか。一般には、神社参拝強制反対がそのきっかけだったよういわれますが、何をもって「参拝強制」というのか、どのようにして「反対」運動が起きたのか、歴史の検証はまだまだ十分ではないように見えます。

 たとえば戦前、30年にわたって靖国神社の宮司をつとめた賀茂百樹が昭和6年に満州・朝鮮を旅行したときの紀行文が、当時、全国神職会の事実上の広報紙だった「皇国時報」に載っています。そのなかで賀茂は、朝鮮伝統の祭祀がほかならぬ朝鮮総督府の手で行われ、日本にとっては旧敵であるはずの「朝鮮の英雄」李舜臣をまつる忠烈祠(慶尚南道統営郡)が公認されていることを報告しています。

 また神社参拝に関しては、賀茂は

「満鮮の神社は内地人の神社で、目的は内地人に限られているようだ」

 と述べ、朝鮮人は同じ「日本国民」だから、神社参拝を進めることが「内鮮一体化」の実をあげることになる、と指摘しています。賀茂の満鮮旅行は満州事変勃発の数カ月前で、このころはまだ「強制参拝」どころではなかったことが分かります。

 参拝が「強制」され、それが朝鮮人の反発を呼ぶようになったのは、戦時体制が進展した結果なのでしょう。そして韓晢曦『日本の朝鮮支配と宗教政策』によれば、

「神社参拝強要は学校から始まった」といいます。

 韓氏によれば、昭和7年9月、秋季皇霊祭の日に、平壌で満州事変戦没将兵慰霊祭が行われました。各学校の生徒たちが参拝を求められたのですが、キリスト教系の学校がこれを拒否し、一気に問題化します。

 要するに、今日、靖国参拝をめぐるのと同じように、信仰問題が発生したものと思われます。当局者が求めたのは戦没者の慰霊でしょうが、キリスト者にとっては異教の神への拝礼と映ったのでしょう。熱心なキリスト者であればあるほど、唯一神以外の「神」に拝礼することはできません。

 その後、当局から全国の学校に「国民儀礼」としての神社参拝を厳守するよう通達が出されると、アメリカ系プロテスタント教会は反発を強めました。多神教的、多宗教的風土のなかで長年、共存してきた日本人には、この一神教的な宗教感覚をどこまで理解できたのかどうか。

 昭和10年11月、平安南道知事が道内の中学校長を招集し、平壌神社参拝を命令しましたが、崇実中学校長のマキューンと崇義女子中学校長スヌークの2人がこれを拒否したことから、当局と宣教師との関係はさらにこじれていきます。

 同じキリスト教でも、天主教(カトリック)などは参拝していましたが、プロテスタントの長老派教会は「参拝拒否」を機関決定し、知事に回答しました。やがてマキューンとスヌークは校長職の認可を取り消され、アメリカに帰国したといいます。

 雑誌「正論」などに何度も書きましたが、カトリックの場合、バチカンは靖国参拝と同様、戦没者への敬意表明や神社参拝を、宗教的なものではなく、愛国心を示す国民儀礼として許したのでしょう(1936年の指針)。
http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/H1905SRarchbishop.html

 しかしプロテスタントの宣教師にはそれができなかった。神社参拝はまるで棄教・改宗の強要のように思えたことでしょう。

 他方で、プロテスタントの中にも、教条的でない柔軟な考えの人もいました。長老派が反対色を強め、総督府が「弾圧」を強化していったとき、昭和13年6月、説得のため朝鮮半島に渡った日本基督教会議長の富田満議長は「いつ日本政府はキリスト教を捨て、神道に改宗せよ、と迫ったか。国家は国家としての祭祀を国民に要求したに過ぎない」と語りました。

 この富田氏の姿勢が戦後のプロテスタント信者には「卑屈な態度」と映り、「受難」の時代の象徴と考えられているのですが、注目すべきことに、朝鮮総督府の統計を見るかぎりでは、「受難」どころか、キリスト教の教勢は拡大し続けるのでした。たとえば、朝鮮におけるキリスト教の信徒数は、昭和元年には29万9564人、7年には37万3527人、12年には49万9323人に増え、教派神道はもちろん、仏教をしのいでいます(朝鮮総督府刊『朝鮮総覧』『施政三十年史』)。

 教会が「抗日」運動の担い手だったとすれば、その教会を育てたのは朝鮮総督府自身かも知れません。カトリック新聞によれば、昭和7年6月、バチカンは斎藤実首相に対して、朝鮮総督の地位にあった10年間、カトリックの布教に対する功績を評価し、未信者に送られる最高の勲章「ピオ九世大十字章第一級」を授与しています。

 宗教勢力が政治的運動の中核となった「抗日」の歴史からすれば、いま北朝鮮当局がキリスト教の伝道活動に神経をとがらせているとしても、何ら不思議ではありません。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。