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日本軍玉砕の島パラオ [戦争]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年9月10日月曜日)からの転載です

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日本軍玉砕の島パラオ
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 靖国神社の社報「やすくに」の今月号に職員の山本真吾権禰宜(ごんねぎ)による「パラオ慰霊の旅」の参加報告記が載っています。

 報告記によると、同社の遊就館では今春、日本パラオ協会との共催で特別展「戦跡パラオ展」が開催され、10万人が訪れたそうですが、夏には同協会によって「慰霊の旅」が企画され、特別展の拝観者など三十数名が参加したのだそうです。

 太平洋上のミクロネシアに浮かぶ200〜300の島々からなるパラオは、日本の屋久島と同程度の面積に約2万人が住む南海の楽園です。16世紀にスペイン人が「発見」し、19世紀末にドイツに「売却」されました。第一次大戦が始まったあと、日本がミクロネシア(南洋群島)を占領し、大戦後、国際連盟は日本のミクロネシア委任統治を認めました。

 パラオが人々の記憶に残るのは、いうまでもなく、日米激戦の地であり、玉砕の島だからです。昭和19年2月にトラック諸島の壊滅後、日本の連合艦隊司令部はパラオに移されました。これに対してアメリカ軍は3月末、激しい空襲を開始します。

 最大の悲劇が伝えられるのはパラオ本島から南西に60キロ離れたペリリュー島です。わずか南北9キロ、東西3キロ、しかし最大級の飛行場があるこの島に、同年9月、アメリカ軍の猛攻撃が始まります。リュパータス少将は「3日間で占領する」と豪語したようですが、中川州男陸軍大佐が率いる日本軍守備隊の防衛戦は、補給路が断たれた中で、飢えとも闘いながら、じつに3カ月に及びました。

 しかし11月24日、「サクラサクラ」の電報を最後に日本軍はついに玉砕しました。敵将ニミッツは日本軍の勇敢さを称えたといいます。

「この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを、伝えられよ」。

 アメリカ軍の死傷者も1万を超えていました。

 今年3月に発行された写真集『パラオ 海底の英霊たち』(田中正文、並木書房)は、日本軍が立てこもった洞窟陣地やジャングルに埋もれた海軍司令部跡など、戦いが終わって60年以上になるいまもなお生々しく残る激戦のあとを伝えています。

 日本軍将兵千人が玉砕した「千人塚」の写真は、次のように説明されています。

「米軍は投降を拒否する日本将兵を全滅に追い込むため、洞窟の入り口をふさぎ、流し込んだガソリンに火をつけました」。

 相互殺戮が戦争の本質とはいえ、その残酷さには言葉を失います。

 いまはぺんぺん草が生えるペリリュー飛行場のキャプションはこうです。

「のちに『航空戦史上最短の近距離爆撃行』と呼ばれた、わずか1キロ先の日本軍陣地を破壊するための爆撃機はここから飛び立ちました。パラオにおける日本側のすべての犠牲はこの小さな飛行場の強奪計画がもたらしたものといっても過言ではない」

 はるかなる南海に散った兵士たちの御霊(みたま)の安らかならんことを祈らずにはいられません。
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