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中国新体制、強制連行、赤福。 [天皇・皇室]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年10月23日火曜日)からの転載です


◇先週から、週刊の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンがスタートしました。
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本日発行の第2号のテーマは「天皇に私なし」です。
http://www.melma.com/backnumber_170937/



〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「朝日新聞」10月22日、「環境省公用車、バイオ燃料『E3』採用」
http://www.asahi.com/politics/update/1022/TKY200710220342.html

 ガソリン車12台すべてをE3に切り替えるのだそうです。


2、「読売新聞」10月23日、「社説。中国新体制、胡主席の権力は確立されたか」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20071022ig91.htm

 社説は、「『胡錦濤時代』の完全到来には、なお時間がかかりそうだ。人事の随所に影を落とす江沢民前総書記の影響力、それが最大の理由である」と指摘していますが、むしろ「胡錦涛時代の完全到来はなくなった」と見るべきではないのでしょうか。

 昨年秋、江沢民の権力基盤である上海市のトップ、陳良宇が失脚したのは、江沢民の右腕・曾慶紅の寝返りとされ、牙城を切り崩された江沢民は公の場に姿を見せなくなりました。

 ところが、今回、江沢民はまるでお目付役のように党大会のひな壇に登場し、逆に曾慶紅は新指導体制にとどまることはできませんでした。ポスト胡錦涛も、読売の記事が指摘するように、胡錦涛と同じ共青団出身の李克強よりも、江沢民が強く推薦した上海市トップの習近平の方が序列が上でした。

 となれば、胡錦涛の権威が「揺らぎかねない」のではなく、すでに揺れている、と見るべきなのではないでしょうか。


3、「読売新聞」10月22日、「広島で被爆の強制連行韓国人、国の賠償責任確定へ」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071022i114.htm?from=navr

 被爆時は日本人だったのに、救いの手もなかったのはまったく気の毒としかいいようがありませんが、この記事が断定的に書いている「戦時中に強制連行」は正しいのでしょうか。「徴用」ではないのでしょうか。あるいは「自由渡航」なのか。

 外務省が1959年7月に発表した記事資料「在日朝鮮人の渡来および引き揚げに関する経緯、とくに戦時中の徴用労働者について」によると、1939年当時、内地にいる朝鮮人は100万人でしたが、これが終戦時には200万人に増えています。増加したうちの7割は個別渡航と自然増であり、残りの大部分は企業の人員募集に対する応募者としての渡来です。徴用労務者はごく少数であり、しかも所定の賃金が支払はれている、と記されています。

 なぜこのような資料を外務省は出すことになったのか、といえば、当時、在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって、「戦時中に渡来した在日朝鮮人の大半は日本政府が強制労働させるために連れてきた。いまでは不要になったので送還される」という誤解や中傷があり、反論を迫られていたのでした。

 たった4ページのこの発表を、同年7月13日付の朝日新聞は「在日朝鮮人の大半は自由意思で居住」と伝えています。当時の在日朝鮮人61万人中、戦時徴用はわずか245人でした。

 このように外務省は「強制連行」を否定しています。

 さらに、日本政府がとりまとめた『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(法務研修所、1955年)をよむと、「強制連行」がいかに事実からかけ離れているかが分かります。

 1910年の日韓併合から45年の終戦にかけて朝鮮在住朝鮮人の人口は1300万人から2500万人へと爆発的に増加しました。大部分は朝鮮南部の貧農で、土地の生産性が低いため、春になると半数近くが食料に窮しました。総督府の農村振興策は十分な成果を上げず、過剰な人口は資本主義の生育期にあって労働力を必要としていた日本内地の鉱山、工場、都市へと流れました。

 内地にいる朝鮮人の数は、1911年末にはたったの2527人でしたが、38年には10万を超え、40年には100万の大台に乗り、終戦の前年には190万人に急増しました。

 日韓併合後、朝鮮人は日本国籍を持ち、内地への渡航は基本的に自由でしたが、「内地に行けば何とかなる」と無一文で船に乗るものが後を絶ちませんでした。日本語も分からない朝鮮人が生存競争の激しい内地にいきなり来れば、トラブルは必至です。内地の失業問題も深刻化します。このため日本政府は「強制連行」どころか、移住阻止の対策を立てざるを得ませんでした。

 政府は1934年に、在内地朝鮮人に対する総合対策を打ち出しました。朝鮮人を朝鮮内で安住させるため農村振興策を徹底させるなど、根本的な対策を明示するとともに、在内地朝鮮人の内地融和を図るという画期的なものでした。

 時代が移り、日中戦争勃発後の戦時体制下で、日本政府は朝鮮人の集団動員を図ります。とくに炭坑は戦時増産が至上命令で、多くの労働者・用令による動員でしたが、「徴用」はむりやり連れてくる「強制連行」ではありません。

 国民徴用令が施行され、朝鮮からの移入労務者に徴用が実施されたのは、日本の敗色が濃くなった44年8月の閣議以降ですが、労務管理が劣悪な事業所には徴用が避けられ、家族援護の万全も図られました。朝鮮人はけっして奴隷状態におかれていたわけではありません。

 さらに、45年3月以後は下関─釜山間の船も止まり、朝鮮の徴用者を内地に送り出すことが困難になりました。『在日朝鮮人処遇の推移と現状』の詳細なリポートからは「強制連行」とは似ても似つかない、むしろ内鮮一体化の実をあげるために苦悩する日本政府の姿が浮かび上がってきます。

 それかあらぬか、最近は在日韓国人組織のパンフレットも日本のマスコミも「強制連行」を使わなくなっています。

 2004年に「日本の指導者たちの悪意に満ちた歴史認識を正す」ために在日の大学教授らが編集を担当し、民団中央本部が発行した小冊子「韓国と日本─あらためて近代史を考える」には、「強制連行」についての言及がありません。代わりに「土地と生活基盤を奪われた流浪民が満州や日本などに移住した」と表現されています。

 だとすれば、読売の記者はどのような根拠で「強制連行」と書いているのでしょう。何か新しい事実でも見つかったのでしょうか。

 ご参考までにこちらをどうぞ。
http://homepage.mac.com/saito_sy/korea/H1805nicchou.html
http://homepage.mac.com/saito_sy/korea/H1805korean.html


4、「読売新聞」10月22日、「『時代祭』足利将軍、初の参加。京都」
http://osaka.yomiuri.co.jp/season/20071022kn07.htm

 昨日の時事ドットコムもそうでしたが、「時代祭」の説明が不自然です。「京都三大祭りを締めくくる」「京都三大祭りのひとつ」とあるだけで、どこの祭りかが書かれていません。

 街のイベントなら「商工会議所主催」などと書くのに、神社の祭りだと無視している、というのは、なぜなのでしょうか。

 これもそうです。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200710220286.html


5、「萬晩報」10月23日、「もはや再起は論外の『赤福』」
http://www.yorozubp.com/0710/071023.htm

 栄枯盛衰は世のならいです。

 伊勢神宮が五十鈴川の川上に鎮まってから2000年、こうした歴史が何度も繰り返されてきたのでしょう。
http://www.isejingu.or.jp/


 以上、本日の気になるニュースでした。

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