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女性天皇を認めなかった明治の皇室典範 [天皇・皇室]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年11月6日火曜日)からの転載です


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斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.4
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第4回「女性天皇を認めなかった明治の皇室典範」−女系継承は「万世一系」を侵す−


▼明治神宮創建60年を記念する典範制定史研究
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 11月3日の「文化の日」は明治天皇のお誕生日で、かつてはその意味で祝日とされました。

 明治天皇亡きあと、天皇をまつる明治神宮が都心に建てられたのは大正9(1920)年ですが、それから60年になるのを記念して『大日本帝国憲法制定史』という本が編纂されました。

 明治憲法は明治天皇が祖先の教えを体して制定された日本で最初の成文憲法であり、明治維新の成果を法的に総括した記念碑と位置づける、900ページにもおよぶ重厚な学術的論文です。


▼天皇は海外の法律を参考にするよう命じられたが…

 『制定史』は2部構成で、後半は明治の皇室典範制定の歴史についてつづっています。ご承知のように明治の典範は女性天皇を認めませんでした。なぜでしょう。『制定史』の説明を拾ってみます。

 明治8年4月、明治天皇は元老院の設置、憲法制定を命じました。同時に従来は「不文の大法」とされた「皇位継承」が憲法上に明文化されるべきだという議論が起こりました。

 天皇は、海外の法律をも参考にしなさい、と命じていたので、皇位継承についてはオランダ憲法などが参考にされ、その結果、当初の元老院の案は男系男子の継承を原則とし、嫡出(ちゃくしゅつ)優先主義に立ちつつ、「やむを得ないときは」として女系継承を認めました。

 しかし、正式な決議によるものではなく、多くの異論があり、とくに女系継承に対して、東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)らが反対しました。仁孝天皇の皇女・和宮が将軍徳川家茂(いえもち)に嫁いだように、皇女といえども姓が変わり、王氏、王族ではなくなる。したがって女系継承は「万世一系の皇統」に抵触する、というのがその理由でした。結局、この元老院案は憲法制定を時期尚早とする岩倉具視(いわくら・ともみ)らによって葬られます。

 明治14年の政変後、天皇が国会開設、憲法制定を命じたことから、民間でも憲法試案作成の機運が生じます。皇室典範起草者のなかには女系女帝容認説に固執するものがあったようですが、制定作業の中枢にいた井上毅(いのうえ・こわし)が強く反対しました。

 明治政府は憲法制定の準備を急ぎました。明治15年には岩倉具視の権限に基づいて大方針が立てられ、憲法と皇室典範が分離して立案されることになります。

 明治18年末に内閣制度が成立し、翌年正月から憲政準備が進みます。指導にあたったのは伊藤博文・首相兼宮内大臣で、相前後して井上毅が帝国憲法とともに皇室典範の試案を作成します。


▼伊藤博文、井上毅などの大反対で

 最初の試案と目される「皇室制規」は元老院の案と同様、男系男子の皇位継承者なきときは皇女に伝え、皇女なきときは皇族中の他の女系に伝える、と明記され、一方で「皇族庶出(非嫡出)の子」を排除しました。しかも「親王、諸王の二男以下」の臣籍降下を急ぐかのような考えも垣間見えました。これでは男系も断絶しかねません。

 伊藤博文、井上毅など多数の強力な反対があり、以後、女性天皇・女系継承容認論は消えます。明治19年後半から始まる柳原前光(やなぎわら・さきみつ)による本格的な起案では女帝論はまったく顧みられず、柳原案の最終稿「皇室典範再稿」は「皇位は男系の男子これを継承す」と定めています。

 さらに推敲された「皇室典範諮詢(しじゅん)案」では「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承す」となり、明治21年の枢密院会議では議論らしい議論もなく、翌年2月11日、純白の雪に清められた皇居で、明治天皇は皇室典範ならびに帝国憲法制定について神前に奉告した、と『制定史』は歴史論を締めくくっています。

 最近は「男系でも女系でもいい」などと簡単にものをいう政治指導者がいるようですが、明治人たちが深い思索のもとに典範を制定したことをふり返ってみる必要はないでしょうか。


 参考文献=『大日本帝国憲法制定史』(大日本帝国憲法制定史研究会、明治神宮編、サンケイ新聞社、1980年)、小嶋和司『憲法と政治機構』(小嶋和司憲法論集2、木鐸社、1988年)斎藤吉久「女系は『万世一系』を侵す、神道思想家・葦津珍彦の論理」(「論座」朝日新聞社、1998年)など



((((((((「天皇・皇室の一週間」)))))))))))

11月2日(金曜日)
秋篠宮様ご夫妻、岡山へ。岡山市内などで開かれる「第19回全国生涯学習フェスティバル(まなびピア岡山2007)」の開会式にご出席になりました(岡山日日新聞)。
http://www.okanichi.co.jp/20071102121438.html

三笠宮妃百合子さま、都内で開かれた民族衣装文化功労者表彰式に出席されました(朝日新聞)。
http://www.asahi.com/national/update/1102/TKY200711020113.html

三笠宮寛仁さま、静岡市で開催の「世界お茶まつり2007」に来場され、世界のお茶を楽しまれました(中日新聞)。
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20071102/
CK2007110202061287.html

11月1日(木曜日)
天皇陛下、旬祭(宮内庁HP)。
http://www.kunaicho.go.jp/dounittei/gonittei-1-2007-10.html

 宮中三殿では毎月1日、11日、21日に祭典が行われます。1日は原則として陛下の御拝礼があります。
http://www.kunaicho.go.jp/04/d04-11.html

皇太子さまが国連の「水と衛生に関 する諮問委員会」の名誉総裁に就任された、と宮内庁が発表しました(日経ネット)。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20071101AT1G0102A01112007.html

10月30日(火曜日)
天皇皇后両陛下、福岡県西方沖地震で大きな被害を受けた玄界島をご視察。玄界太鼓の演奏に出迎えられ、にこやかに応えられたそうです(TVQ九州放送)。
http://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=3035

秋篠宮さま、大野市で開かれた「湧水(ゆうすい)保全フォーラム全国大会in越前おおの」にご臨席(福井新聞)。
http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20071030/CK2007103002060262.html

桂宮さま、香川県高松市のデパートで開幕した50周年記念日本工芸会四国支部展を視察されました(四国新聞)。
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/social/article.aspx?
id=20071031000102

10月29日(月曜日)
秋篠宮さま、福井へ。宝慶寺(ほうきょうじ)などを訪れ、福井豪雨の被害などについて説明を受け、法堂で焼香されたそうです(中日新聞など)。
http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20071030/CK2007103002060262.html
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news3/article.php?storyid=280

10月27日(土曜日)
皇太子ご夫妻、徳島市で開かれた国民文化祭開会式に出席されました(日経ネット)。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20071027AT1G2701A27102007.html


タグ:女帝論
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