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靖国合祀「日韓のすれ違い」──「朝鮮人BC級戦犯」生存者たちの苦難と死者たちへの務め [靖国問題]

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靖国合祀「日韓のすれ違い」
──「朝鮮人BC級戦犯」生存者たちの苦難と死者たちへの務め
(「別冊正論」9号、平成20年2月)
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「合祀取り下げを靖国神社が拒否。朝鮮半島出身者遺族に」──。

 あと数時間で年が改まるという(平成十九年の)大晦日の夜、新年を迎える慶びに水を差すような共同通信の記事がインターネットのニュースサイトに掲載されました。取り下げを要求したのは韓国人BC級戦犯遺族らでした。

 敗戦後、A級戦犯のほかに、二万五千人を超える軍人・軍属がBC級戦犯容疑者として逮捕され、五千六百四十四人が起訴されました。アジア各地四十九カ所に法廷が開かれ、「陰鬱かつ不条理な裁判」の結果、「マレーの虎」山下奉文大将を第一号として、九百三十四人が死刑判決を受け、三千四百十三人が終身・有期刑となりました(田中宏巳『BC級戦犯』二〇〇二年など)。

 うち朝鮮半島出身者は百四十八人。軍人はフィリピンの俘虜収容所長だった洪思翊(こうしよく)中将ほか二人の志願兵、残りは軍属で、通訳十六人以外は俘虜収容所監視要員でした。そして二十三人が死刑台に消えました(内海愛子『朝鮮BC級戦犯の記録』一九八二年)。

 靖国神社では国に命を捧げた英霊として、ひとしく慰霊の誠が捧げられています。しかし韓国人戦犯遺族らは合祀それ自体に大きな不満があるようです。

 共同の記事は、韓国人元BC級戦犯者遺族会(姜道元会長)らの情報に基づき、同遺族会らが神社を訪れ、二十三人の合祀の確認とその取り下げを求めたのに対して、神社側は十五人について確認したものの、「神社創建の趣旨と慣習に従っている」のであり、合祀取り下げは受け入れられない、と文書で「拒否」を回答した。そのことを遺族らの組織がこの日、明らかにした、と伝えています。

 記事は神社側の頑なさを印象づけますが、遺族らの要求は妥当でしょうか。


▢1、「霊璽簿から名前を削除せよ」

 日本国内には在日韓国・朝鮮人の元BC級戦犯者で組織される同進会(李鶴来会長)があり、昭和三十年の結成以来、国家補償などを政府に要望し続けてきましたが、共同の記事によると、韓国人遺族会はこの同進会と協力して、活動を展開しているようです。

「同進会を応援する会」(代表=内海愛子・元恵泉女学院大学教授)のHP(ホームページ)によると、来日した遺族は日米開戦日の十二月八日、同進会主催の日韓共同シンポジウムに参加しました。

 共同の配信記事によれば、姜・遺族会会長は、「父は日本国民として収容所に派遣され、命令に従っただけで処刑された。『韓国人だから補償しない』というのはあまりにひどい」と語り、補償を訴えました。姜会長の父親はタイの連合軍兵士捕虜収容所で監視員を務め、その後、捕虜虐待の罪で絞首刑となったのでした。

 姜会長ら遺族会の四人と李鶴来・同進会会長らが靖国神社を訪れ、合祀取り下げの要望書を提出したのは二日後の十日で、さらに外務省に真相調査要望書が提出されたと伝えられます。

 韓国の公共放送局KBSの報道によると、靖国神社に対してはより具体的に「祭神名簿(霊璽簿、れいじぼ)から名前を即刻削除するよう要求した」ようです。

 霊璽簿は合祀された祭神の階級、氏名、本籍などが記され、本殿後背の霊璽簿奉安殿に収められています。副霊璽と位置づけられ、神職でさえ見ることをはばかるほど、きわめて重く扱われています。

 しかし遺族会らは神聖さを尊重するどころか、KBSの同行取材に「遺族の意思でもないのに合祀するのは話にならない」と語り、遺族の同意なき合祀について謝罪を要求し、分祀闘争を強力に進めることを表明したのでした。

「応援する会」のHPによると、神社から送られてきた十二月二十七日付の回答書には「合祀が確認されたのは十五人。取り下げはできない」とあったため、李会長は「照会したのは二十三人だったはず。遺族が望まないのになぜ勝手に合祀するのか」と電話で強く抗議しました。戦友たちの慰霊を行う神社に対して、感謝ならいざ知らず、なぜそこまで怒りを露わにしなければならないのでしょう。


▢2、「強制」といわざるを得ない状況

 李鶴来・同進会会長自身や姜道元・遺族会会長の父親たちは、なぜ戦犯者の汚名を着せられることになったのか。たとえば李さんに何が起きたのでしょう。

 朝鮮人BC級戦犯に関する研究にいち早く取り組んできたのは、いま同進会を応援する会代表の立場にある内海教授ですが、著書の『朝鮮人BC級戦犯の記録』によると、李さんは一九二五(大正十四)年の生まれ。書堂(寺子屋)通いをやめて、九歳で普通学校(小学校)に入学し、「皇国臣民」への道を歩み始めました。山村から就学する子供は少なく、喜び勇んで登校したといいます。

 朝鮮で俘虜収容所の監視要員三千人の募集が始まったのは昭和十七年五月。日本軍の緒戦の勝利で万単位の連合軍捕虜が出たのがことの始まりでした。

 事情があって失職していた李さんは募集に応じました。いずれ戦争に引っ張られる。銃を持たず、戦場に出ない、二年契約の監視要員は魅力的でした。

 朝鮮に徴兵制実施が決まったのがこのころだったと教授は説明しますが、一九一九(大正八)年の三・一独立運動の闘士たちが昭和十二年の日中戦争勃発後、対日協力に一変したことが知られ、朝鮮での徴兵はじつのところ朝鮮人の請願を受けて始まったといわれます。

 まず志願兵制度が十三年に始まり、十七年は四千人余りの採用に対して、じつに二十五万人以上が応募しました。適齢の若者がこぞって殺到したのです。民間人の動員も十四年九月〜十七年一月までは自由募集で、李さんの応募のころは官斡旋・隊組織による動員でした(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』平成十四年など)。

 しかし、形式は志願だが、青年たちには人生の選択はなかった。心理的には強制されていた、というのが内海教授の理解です。李さんの応募を許した父親は「あのころは若者が家にいることはできなかった」と教授に語っています。

 教授の著書によると、受験のため郡庁に集まった青年は何百人もいました。二十歳から三十五歳までという応募者のなかで十七歳の李さんは最年少でした。戸籍上はさらに二歳若かったといいます。

 ノンフィクション作家・上坂冬子氏の『巣鴨プリズン十三号鉄扉──BC級戦犯とその遺族』(一九八一年)には韓国人BC級戦犯についての一章があり、李さんについても言及していますが、異例として十七歳で採用されたのは成績優秀で、年齢以外に欠点がなかったからだろう、と上坂氏は推理しています。

「志願制を採りながら、その実、各道に採用を割り当てており、多分に強制的であった」と李さんは上坂氏に強調していますが、志願制のはずがなぜ強制的に実施されるのでしょう。「志願か強制か、抗日思想の強い同胞から一線を画されるか否かのポイントなのであろう」というのが上坂氏の指摘ですが、戦後になって「強制的」と述懐するのは、そのようにいわざるを得ない、韓国特有の状況があるのではないでしょうか。


▢3、親日=異端を排除する儒教倫理

 古い歴史をひもとけば、よくいわれるように、元(蒙古)の支配を受けた高麗時代、朝鮮は未婚の女性を多数、朝貢し、そのための特別の役所まで設けられていたほどですが、国家にとって最大の貢献者であるはずの貢女(コンニョ)が称えられることはなかったようです。

 また秀吉の朝鮮出兵のあと国土が荒廃したとき、飢餓に苦しむ民衆が、親が子を、夫が妻を奴隷として売るという悲劇が起きましたが、平和がもどって女性たちが祖国に帰ったときに、温かい歓迎はなかったと聞きます。

 同時期、日本に連れてこられた朝鮮陶工は、和平急転のあと強力に帰還政策が推進されたものの、望郷の思いがないはずはないのに、儒教的身分制度に縛られる故国に帰ることを望まなかったといわれます(内藤雋輔『文禄慶長役における被擄人の研究』一九七六年など)。

 やむにやまれぬ事情があったとしても、異国の血に汚れ、あるいは国を売ったとなれば、けっして受け入れない。儒教社会は正統を重んじ、異端を極端に排除する。韓国人には骨身にしみていることではありませんか。であればこそ、戦後、独立を回復した韓国で、朝鮮王朝を復活させようという運動も起きなかった、と韓国文化の専門家は指摘します。

 巣鴨のBC級戦犯がひそかにまとめた証言集『戦犯裁判の実相』(巣鴨法務委員会編、昭和二十七年)は韓国人留守家族の状況について、韓国では戦犯者は対日協力者として反感の対象で、家族は周囲から冷遇され、親類縁者からの援助も望み得ず、それでなくとも朝鮮戦争の影響で大黒柱を失った家族は文字通り路頭に迷った、と記録しています。

 昨年末、姜会長ら韓国人BC級戦犯遺族が来日したのはじつに初めてでした。共同通信によれば、盧武鉉政権が一昨年、元BC級戦犯を「戦争被害者」と認定したことから、驚いたことに、やっと遺族が公の場に出られるようになり、昨年二月に遺族会が発足したのでした。

 親日派糾弾に血道を上げる左派政権の強制動員真相究明委員会が朝鮮人元BC級戦犯八十三人を「被害者」として認定し、名誉回復すると発表したのは同年十一月でした。韓国・聯合通信によれば、「捕虜監視員になったのは、強制徴用の対象にならないためやむを得ない選択だった。しかし日本の戦争捕虜に対する虐待責任まで負うことになり、二重の苦痛を受けた」と説明されています。

 日本国家に協力したのは偽りで、逆に被害者であったことを証明するのが、韓国人の「名誉」回復だとされています。親日を異端とし、心では赦してはいないはずの戦犯者を、ちょうど慰安婦がそうであるように、親日批判のために逆利用しているのでしょう。かつて民族がこぞって親日化、異端化した歴史に民族全体が身もだえしているかのようです。

 それにしても抗日独立派が日中戦争を境に最大の対日協力者となり、日本時代が終わると今度は親日派を激しく排斥する。時代の節目で掌を返すように豹変する国民性は、歴史の連続性を重視する日本人の理解を超えています。

 日本人の場合、韓国人にとって悪名高い朝鮮総督府でさえ、朝鮮歴代王朝の始祖を祀る八殿六陵での伝統祭祀を厳修したほか、仇敵であるはずの朝鮮の英雄・李舜臣の遺霊を祀り、感謝を捧げる忠烈祠なども公認しています。今日、植民地支配のシンボルとされる朝鮮神宮は、民族的融和のために朝鮮の祖神を祀れ、という神道人の建言が出発点であり、皇祖・天照大神を祭神とすることには初代宮司までが最後まで反対するなど、歴史重視と日韓融和に心が砕かれたのとは何という違いでしょうか。


▢4、ジュネーブ条約に違反したか

 内海教授の著書によれば、李さんは昭和十七年九月、タイ俘虜収容所第四分所に配属されました。仕事は、泰緬鉄道の建設に狩り出されていた連合軍俘虜の監視。第四分所には一万千人の俘虜がおり、日本人下士官十七人と朝鮮人軍属三十人で管理するのは大仕事でした。

 翌十八年二月、李さんは、鉄道建設工事最大の難所ともいわれた密林のなかのヒントクへ、イギリス人、オランダ人、オーストラリア人の俘虜五百人を連れて分駐するよう、同じ朝鮮人軍属六人とともに、命じられました。

 日本人の上官はおらず、最初は弱冠十七歳の李さんが事実上の責任者でした。俘虜のあいだではたびたび盗難などがあり、ときに鉄拳制裁が加えられました。難工事であるうえ期限が決まっている。伝染病はあるが、医薬品も食糧も限られている。それでも軍人精神をたたき込まれている李さんは「忠実に命令を守り、天皇のために頑張った」のでした。

 泰緬鉄道は十八年十月に完成しましたが、「枕木一本、人一人」といわれ、ヒントクでは俘虜百人が死亡しました。

 敗戦後の二十年九月末、李さんはバンコクで元俘虜の首実検で拘束され、翌年四月、シンガポールのチャンギ刑務所に閉じ込められました。たった一回の簡単な取り調べのあと、独房に監禁され、起訴されました。

「十八年四月から五月まで、収容所で病俘虜を強制的に作業につかせ、多数の連合軍俘虜(豪軍俘虜が主)に死亡の原因を与えた。その数は百名以上にのぼる」というのが李さんの容疑だったようです(茶園義男編『BC級戦犯豪軍マヌス等裁判資料』不二出版、一九九一年)。

 内海教授の著書によると、軍属雇人のはずの李さんが収容所の管理将校だとされていました。「目には目を」。毎晩、監視兵の暴行が続いたといいます。

 俘虜の待遇については、一九二九年のジュネーブ条約が第二条で「俘虜は常に博愛の心をもって取り扱われるべし、かつ暴行、侮辱および公衆の好奇心に対してとくに保護せらるべし、俘虜に対する報復手段は禁止す」と定めています。

 内海教授が解説するように、日本はこの条約に昭和四年に署名しましたが、批准はしませんでした。日米開戦後、連合国側が条約の適用について照会してきたのに対して、東郷外相は「準用する」と回答しましたが、条約の精神を遵守する気などまったくなかったのは明らかだ、と教授は批判します。

 しかし上坂氏の説明では、日本は批准しなかった条約より、当然のことに国内法の「俘虜取扱規則」が優先されたのでした。規則は「場合によって殺傷することも可」とされていました。

 さらに教授も指摘するように、十七年六、七月、東条陸相は新任の俘虜収容所長に対し、「人道に反せざる限り、厳重に取り締まり、無為徒食せしむることなく、労力特技を生産拡充に活用する」と訓示しています。

 となれば、軍属たる李さんたちが陸相訓示に忠実なのは当たり前で、条約違反と責めることはできないでしょう。

 しかし二十年八月、アメリカ、中華民国、イギリスが「吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ」と明記するポツダム宣言を発し、日本が受諾、翌年二月、事後法的に定められたオーストラリア戦犯裁判規定は「人質の殺害」などを「戦争犯罪」と定めていました(前掲『BC級戦犯豪軍マヌス等裁判資料』)。

 二十年暮れ、李さんはいったん釈放されますが、翌年、香港でふたたび捕らえられます。弟のように可愛がってくれた、有利な証言をしてくれるはずの上官の大尉は絞首刑でこの世になく、日本人弁護士は非協力的でした。告訴したオーストラリア兵が一人として出廷せず、検事の弁論は英語のため理解不能。そして数分後、絞首刑が宣告されました。


▢5、置き去りにする国家

 ポツダム宣言の受諾で、日本の朝鮮統治は終わりを告げました。終戦の詔書は、帝国臣民として命を捧げた人々とその遺族に対して「五内(ごだい)ために裂く」と無念を表明しています。朝鮮や台湾出身者の軍人、軍属の犠牲を、詔書はしっかりと心にとどめています。

 しかし朝鮮がただちに独立を回復することはありませんでした。朝鮮総督府から日の丸が引き下ろされたあと、代わって掲揚されたのは星条旗でした。北緯三十八度以南はアメリカ軍の支配下に置かれ、李承晩初代大統領がマッカーサー司令官の臨席のもとで大韓民国の樹立を宣言したのは三年後です。

 再審で重労働二十年に減刑された李さんが内地に送還され、巣鴨プリズンに収容されたのは二十六年八月。日本の土を踏むのはこれが初めてだったようです。

 サンフランシスコで日本と旧連合国四十八カ国との平和条約が調印されたのはこの翌月。十一条には戦犯裁判の判決を日本が受諾し、日本で拘禁されている日本国民に刑を執行する旨が明記されていました。講和とともに釈放されるという戦犯者の期待は打ち砕かれました。

 しかし当時の新聞報道によると、講和発効を前にして、翌二十七年の年明け早々から戦犯者の赦免・減刑が動き出します。最初はフィリピンのモンティンルパ収容所に囚われているBC級戦犯の減刑・赦免に関する同国国会議員の情報でした。朝日新聞は特派員の収容所訪問記を載せ、さらに特派員はフィリピン首相が「今後、死刑囚の処刑はあり得ない」と言明したとの情報を得ます。

 戦争の時代の終わりを告げる講和発効は四月末で、相前後して戦犯赦免が急展開します。民間団体が赦免運動を開始し、A級戦犯弁護人は全戦犯の釈放を要請、BC級戦犯弁護団がBC級戦犯釈放のための署名運動を始めます。愛の運動東京都協議会らによる戦犯助命の署名運動は八月には一千万人を超えました。

 日本政府は重い腰を上げ、六月に吉田首相は戦犯の赦免・減刑などについて関係各国に了解を求めるよう手続きを進めよ、と保利官房長官に指示します。

 戦犯赦免の直接的権限は日本政府にはありません。平和条約十一条はまた「赦免、減刑、仮出獄については刑を課した複数政府の決定および日本の勧告を必要とする」と定めています。これに基づいて、日本政府は八月十五日、BC級戦犯全員の赦免を関係国に勧告しました。

 こうして国際社会は戦犯赦免に動き出しました。十月十六日、昭和天皇が七年ぶりに靖国神社を参拝された二日後、奇しくも同社の例大祭初日、フィリピンでは死刑囚の二人が釈放されました。

 しかし講和の恩典を十分に受けられなかったのが、ほかならぬ講和で日本国籍を失った朝鮮人BC級戦犯でした。

 上坂氏の著書によると、二十七年六月、韓国人戦犯らは東京地裁に「人身保護法に基づく釈放請求」を提訴しました。祖国は独立したのに、日本に拘束されるのは不当と訴えたのですが、最高裁判所大法廷は却下します。

 講和条約十一条には「日本国は、日本国で拘禁されている日本国民に、刑を執行する」とあります。刑が科せられたとき、拘禁されていたときに「日本国民」であれば、その後の国籍の喪失、変更に影響されない、という判断でした。

 内海教授の著書によると、李さんが晴れて釈放されたのは三十一年秋でした。


▢6、立ちはだかる抗日独立史観

 二十九年には、「戦犯にも恩給を」という国民の強い要望を受けて恩給法が改正され、拘禁中の戦犯の遺族に普通恩給が支給され、刑死・獄死した戦犯の遺族には公務死扶助料相当額の扶助料が支給されるようになり、戦犯合祀の道も開かれました。しかし日本国籍を失い、帰化することもなかった韓国人元戦犯は援護の対象とはなりませんでした。

 日本は講和条約で朝鮮の独立を承認するとともに、すべての権利、権限および請求権を放棄しました。けれども日本と交戦したわけではない韓国、北朝鮮とも講和会議に招請されませんでした。朝鮮半島では前年六月に勃発した朝鮮戦争の真っ最中でした。

 日韓国交正常化交渉は講和条約締結直後の予備会談に始まり、第一次から第七次まで会談が重ねられました。そして四十年六月、日韓基本条約が締結され、国交が正常化しました。

 同時に「請求権ならびに経済協力協定」が結ばれ、日本は総額八億ドル規模の経済協力を実施することになりました。一方で、韓国は国および国民の請求権を放棄し、両国ならびに両国民の財産・請求権については「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」するとともに、以後は「いかなる主張もすることができない」とされました。

 朴正煕政権は日本が提供した経済協力金のほとんどを経済建設に投入し、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展の基礎を築きました。一方、日本に徴用され死亡した者八千五百人の遺族に対して、一人当たり三十万ウォン、総額九十二億ウォンの補償を支払いました。

 高崎宗司『検証・日韓会談』(岩波新書、一九九六年)などによると、この個人補償は、日本側が第五次会談で、韓国民個人に日本が直接補償する方法を繰り返し提案したのに対して、韓国政府が一括して受け取り、韓国民に仲介する方法を韓国側が主張した結果でした。しかし結局、終戦後の死亡者や被爆者、慰安婦などは補償対象とはなりませんでした。

 上坂氏の著書によると、四十六年十一月、韓国人戦犯者の遺族らは韓国政府に補償を請求しましたが四年後、政府は「申請受理を拒否」します。対日民間請求権は二十年八月十五日までの問題で、それ以後に発生した戦犯問題は該当しない、というのが韓国政府の主張でした。

 韓国では玉音放送が流れた日が「日帝」支配から解放された光復節とされています。しかし国際法上、この日に戦争が終結したわけでも、大韓民国が独立したわけでもないでしょう。韓国特有の抗日独立戦争史観が韓国人戦犯遺族の前に立ちはだかっているようです。

 むろん日韓間の個人補償問題は正常化によって「解決済み」です。戦犯補償は正常化交渉の経緯からすれば韓国の国内問題でしょう。

 その点、盧大統領が二〇〇五年の「三・一独立運動」記念式典で「日本は過去の過ちに対して、心からの謝罪と賠償をしなければならない」と主張し、「正常化は不可欠だったが、被害者個人の賠償請求権を処理すべきではなかった」と述べて、朴政権下での正常化を批判したのはともかく、「韓国国内で解決する」と表明したのは適切です。


▢6、尊いと信じるがゆえに

 個人補償も含めて日韓の賠償問題は国際ルールに基づき、すでに解決しています。

 世界のいずれの旧宗主国であれ、植民地支配を謝罪し、「被害」を補償した例は聞きませんが、お人好しの日本政府は平成十年の日韓共同宣言で「小渕首相は痛切な反省と心からのお詫びを述べた」と謝罪しました。そして八年前には、正常化時の「経済協力」に加えて、国会は「人道的精神」を掲げて、在日韓国人で旧軍人軍属の戦没者遺族などに弔慰金を支給することを決めました。

 しかし韓国人戦犯者遺族らは、自分たちが対象外だとして、日本政府に謝罪と賠償を請求し、あまつさえ靖国神社に合祀取り下げを要求しているのです。

 指摘すべき第一の問題は、戦犯遺族らの苦痛には同情を禁じ得ませんが、既述したように、一方的な「謝罪」要求などには正当性が見いだせないことです。

 上坂氏の著書には、韓国人戦犯の窮状に心を痛め、五十年前、同進会に私財を投げ出した開業医のことが描かれています。多くの日本人は韓国・朝鮮人がもっとも協力的な戦友だったことを知っています。だからこそ、苦難のなかにある朝鮮人戦犯に救いの手をさしのべたのでしょう。そして合祀もされたのです。

 日本人の善意には目を向けず、「被害」を強調し、批判に終始していては、民族の和解は遠のくばかりです。不当を追及すべき相手は韓国政府であり、「被害」救済は旧連合国に求めるべきです。

 第二に、韓国人遺族らは靖国神社の合祀を「勝手に祀った」と批判しますが、たとえ同意が得られなかったとしても、心ある日本人は、朝鮮人の献身を人として当然、尊いと信じるがゆえに、哀悼の意を捧げ続けるでしょう。

 韓国・ソウルの国立墓地顕忠院には十六万三千余の墓石が整然と並んでいます。昨年暮れ、大統領選に勝利した李明博・次期大統領は翌日、真っ先に顕忠院に参拝しました。いずれの国であれ、殉国者に追悼の誠を捧げるのは国家・国民の当然の責務です。

 韓国人遺族らは、首相直属の機関が主催し、政府関係者や遺族、各界代表、大使館関係者が出席して追悼式が行われる顕忠院とは異なり、靖国神社の慰霊が民間任せにされている日本の現状をこそ、逆に批判すべきではないでしょうか。

 第三に、仮に遺族らの取り下げ要求、つまり祭神名簿抹消を神社が受け入れたとして、何の意味があるでしょう。

 顕忠院のシンボル、顕忠塔の内部には朝鮮戦争時の戦死者十万四千人の位牌が並んでいますが、靖国神社は二百四十六万を超える英霊を一座の神として合わせ祀っています。かつてこの世を生きた英霊をそれぞれ独立した神として祀っているのではありません。

 顕忠院なら個々の位牌の撤去も可能でしょうが、靖国神社は霊璽簿から名前を消したとしてもまったく無意味です。あえて行うことは神々の世界を人間が侵すことであり、殉国者を神として敬う日本の精神的伝統を俗世界に引きずり下ろすことになります。

 第四に、遺族らの運動は日本の植民地政策批判を含んでいますが、歴史批判と慰霊行為はまったく次元が異なります。

 顕忠塔は左右に大きな壁を翼のように広げ、朝鮮戦争、抗日独立運動をモチーフにしたレリーフを刻んでいます。顕忠院は韓国の国是たる「反共」「抗日」がテーマですが、注目すべきことに、墓園内には李承晩、朴正煕両大統領の墓所もあります。革命で国を追われ、あるいは「軍事独裁」と批判される故人を歴史的評価は別として国家指導者として慰霊する良識を韓国人は知っています。

 その良識が、特定の歴史観があるわけでもない、あくまで国に一命を捧げた兵士を祀り、国の平和を祈る追悼施設である日本の靖国神社に対して、なぜ貫けないのでしょう。


▢7、過去ではなく未来のために

 最後に、靖国神社に要求を突きつけた韓国人戦犯遺族らは神前で頭の一つでも下げたのでしょうか。日韓が必ずしも同じ宗教文化や歴史観を共有する必要はありませんが、他国の聖域に土足で踏み込むような行為は国際マナーに反することを指摘しなければなりません。

 日本の歴代首相は何度も抗日施設の顕忠院を表敬しています。皇族も自衛隊も献花、焼香しています。殉国者の追悼が国際儀礼だからです。しかし韓国左派政権は、一世紀以上も日本の中心的戦没者追悼施設とされてきた靖国神社の祭祀に不当に介入し、要人の答礼もありません。これは国際的マナーに反します。

 各国には各様の宗教文化があります。他者には他者の論理がある。それを理解しようとせず、正義は一つとばかりに蹂躙する行為は許されません。

 報道によると、昨年、韓国の反靖国派はアメリカにまで出かけて「強制合祀」反対キャンペーンを展開し、なかには靖国反対のミサを挙げた韓国系教会もあるようですが、やはり昨年、韓国人がアフガニスタンで布教活動をしてタリバンに拉致され、「布教禁止」を韓国政府が約束したのを忘れたのでしょうか。靖国神社は原理主義でも、武装勢力でもありませんが、他国の公的慰霊への干渉は明らかに節度を失っています。

 今年一月、当選後の初会見で李次期大統領は「(日本に)謝罪と反省は求めない」「日韓関係は未来志向的に進めなければならない」と語りました。前政権が創設した親日反民族行為真相糾明委員会などの廃止も表明していますが、正しい判断です。

 植民地支配に甘んじた内的要因を究明せずに、外国の非道ばかりを攻め立て、挙げ句に物取りのような要求を突きつける。喧嘩腰では未来が拓かれるはずもありません。自由と民主主義の価値を共有する両国は結束すべきです。それは平和を願いつつ、一命を捧げざるを得なかった死者たちの願いのはずです。

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「靖国神社に要求を突きつけた韓国人戦犯遺族らは神前で頭の一つでも下げたのでしょうか」

君はアフォか。君はヒトラーやポルポトの遺影に向かって首を垂れることができるか?

「植民地支配に甘んじた内的要因を究明せずに、外国の非道ばかりを攻め立て、挙げ句に物取りのような要求を突きつける」

君はいつまで他人の足を踏んだことを、そんなに居丈高で自慢できるのだ?
by お名前(必須) (2018-11-07 11:15) 

ojirowashi

「靖国神社に要求を突きつけた韓国人戦犯遺族らは神前で頭の一つでも下げたのでしょうか」

君はアフォか。君はヒトラーやポルポトの遺影に向かって首を垂れることができるか?

「植民地支配に甘んじた内的要因を究明せずに、外国の非道ばかりを攻め立て、挙げ句に物取りのような要求を突きつける」

君はいつまで他人の足を踏んだことを、そんなに居丈高で自慢できるのだ?
by ojirowashi (2018-11-07 11:17) 

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