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北限の稲作遺構──青森・垂柳遺跡 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.19
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第19回 北限の稲作遺構──青森・垂柳遺跡


▼2000年前の水田遺構

 青森・田舎館(いなかだて)村の垂柳(たれやなぎ)遺跡は弥生中期、いまから2000年前の水田遺構です。北緯40度を越える寒冷地にこの当時すでに稲作が伝わっていたというのは驚きです。

 「北限の水田遺構」ともいわれる遺跡はいまバイパスの高架下にひっそりと隠れていますが、発見当時は「日本古代史研究史上の革命的な発見」(伊藤信雄・東北学院大学教授)とまでいわれました。

 遺跡の発見は昭和31年。津軽平野のほぼ中央に位置する田舎館村垂柳で耕地整理が行われたとき、大量の土器が出土したのです。発見者は地元・猿賀中学校の工藤正教諭。社会科の先生で若いころから考古学に興味を持っていました。土器が見つかったとき、出会ったのが東北大学の伊藤教授(当時)でした。「籾跡のある土器はないか」という助言を受けて間もなく、歴史的発見の幕が開けます。

 200粒以上の炭化米などの発見で伊藤教授は水田稲作の可能性を唱えましたが、多くの考古学者はまったく受け入れませんでした。それもそのはずで、当時の定説では群馬・高崎市の日高遺跡が弥生時代の水田跡の北限とされていたのです。朝廷の支配が及ばない「化外(けがい)の地」と呼ばれ、採集・狩猟生活をおくる蝦夷(えみし)の住む東北北部に、稲作が伝播するのは8世紀以降、と当時は考えられていたのでした。


▼「極早生品種でなければ……」

 ところがさらに昭和56〜58年の発掘で、今度は弥生中期の水田跡が姿を現し、畔(あぜ)や水口、水路までが出土したのですから驚きました。1枚10平米前後の水田が656枚、総面積3967平米。予想を超える高度な稲作が大規模かつ長期に展開されていたようです。稲の植物成分プラント・オパール、水田雑草なども検出され、水田農耕は否定しがたい事実となりました。

 津軽は8月初旬のねぶた囃子がやむと一気に秋風が吹き、11月には初雪が降ります。そんな北国で古代人は本来、熱帯の植物である稲をどうして栽培できたのでしょうか。私の取材に対して、宮崎大学の藤原宏志教授から返ってきた答えはこうでした。

 「気候が現在と大差ないとすれば、稲作期間も5月下旬から10月中旬だったと考えられる。播種から刈り取りまで150日しかないから、現在以上に極早生(ごくわせ)の品種でなければ栽培できない」


▼神武東征のように北上した日本稲

 古代人はどうやって「現在以上の極早生品種」を手に入れていたのでしょう。俄然、注目されのは植物遺伝学者の佐藤洋一郎氏が平成2年、雑誌「考古学と自然科学」に発表した「日本における稲の起源と伝播に関する一考察──遺伝学の立場から」です。論文のなかで、佐藤氏はこう述べています。

 ──北日本に分布する早生品種は従来、北進の過程で突然変異がくり返し起こって成立した、考えられてきたが、それでは急速な北進を説明できない。むしろ中国大陸と熱帯島嶼地域にそれぞれ由来する温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの2系統の稲が日本列島で自然交雑を起こし、早生が生まれたと考えた方が説明しやすい。

 佐藤氏によると、突然変異がおこる確率は10万分の1の低さですが、自然交雑なら1%といわれます。熱帯型も温帯型も日本列島で栽培すれば晩生になりますが、自然交雑すると早生が生まれることを佐藤氏は実験でも証明しています。

 前回は記紀神話に描かれた神武天皇生誕までの物語が多元的民族の成り立ちを暗示し、人類学の研究と符合することをご紹介しましたが、本土日本人が縄文人と渡来系弥生人との混血同化によって成立したという説と同様、日本稲は熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの自然交雑によって成立し、あたかも神武東征のように、早生化した日本稲は瞬く間に北日本へと北上したということになるでしょうか。


 参考文献=「垂柳遺跡発掘調査概報、昭和57年度」(青森県埋蔵文化財調査報告書第78集、同県教育委員会、昭和58年)、『垂柳遺跡発掘調査報告書』(同報告書第88集、同県教育委員会、昭和60年)、佐藤洋一郎「日本における稲の起源と伝播に関する一考察──遺伝学の立場から」(「考古学と自然科学」22、日本文化財科学会、1990年)など


(((((((( 昭和天皇こぼれ話 ))))))))

 vol.13で昭和天皇の地方巡幸について書きましたが、その当時のお話です。

 昭和21年6月、陛下はキリスト教女子教育においては関西でもっとも古い歴史を誇る学校にお立ち寄りになり、ご昼食をとられました。

 陛下が御座所に入られると、集まってきた生徒たちが立ち去りかねて窓の下にたたずんでいました。陛下はブラインドを上げて窓の下をご覧になります。それを知った生徒たちは窓を見上げて嬉しそうに笑っています。陛下もお笑いになったのか、生徒たちが続々と集まってきました。

 やがてご出発のときがやってきました。陛下が玄関にお立ちになると、生徒たちは「祖国」と題する讃美歌を歌いました。

 清らかな歌声は心を打たずにはおきませんでした。陛下はポーチにお立ちになったまま動かれません。校長が何度促しても動こうとされないのです。

 讃美歌は二度、三度と繰り返されました。そのうち歌声は曇り、生徒たちの頬に涙が伝わりはじめました。そして陛下の目にも光るものが浮かんできたのでした(大金益次郎『巡幸余芳』)。

 この学校を創設したアメリカ人女性が来日したのは明治の初年で、日本では禁教令の高札が撤去されたばかりでした。創設者は西洋かぶれを排して「キリスト教魂をもつ日本風の女性」を育てることを教育目標としたといわれ、それだけに皇室尊崇の念が強かったといわれます。

 学校の『五十年史』は、大正11年に貞明皇后が九州にお出かけの道すがら、職員一同に「菓子料」金200円を下賜され、学校ではこれを記念して懸賞論文「地久節論文」の基金を設立した、とも記録しています。


(((((((( 「天皇・皇室の一週間」 )))))))))))

2月8日(金曜日)

□両陛下は皇居でルクセンブルク首相、アルバニア首相夫妻、欧州議会議長とそれぞれお会いになりました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080208/imp0802081253000-n1.htm

2月6日(水曜日)

□葉山御用邸で静養されていた両陛下が帰京されました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080206/imp0802061746001-n1.htm

□秋篠宮妃紀子さまが都内で開かれた結核予防関係婦人団体の開講式にお出ましになりました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080206/imp0802061644000-n1.htm

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