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資料編・昭和の宮中祭祀簡略化──側近の日記から [宮中祭祀簡略化]

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資料編・昭和の宮中祭祀簡略化
──側近の日記から
(2008年5月5日)
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 これまで「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンで書いてきたことの繰り返しになりますが、原武史明治学院大学教授の研究と重ね合わせ、昭和天皇の側近による入江日記、卜部日記などを参照し、宮内庁人事にも触れながら、昭和40年代、50年代に宮中祭祀にどのような変化が生まれたのか、以下、時系列的に整理してみます。資料としてお読みいただければと思います。


 昭和28(1953)年12月、宇佐美毅宮内庁次長(1903-91)が第2代宮内庁長官に就任。

 40年3月、三谷隆信侍従長(元外交官。1892-1985)が退任。後任に稲田周一・侍従次長(元内閣官房総務課長)。

 41年12月25日、大正天皇40年式年祭を最後に、主要全国紙が宮中祭祀の記事を掲載しなくなる(原教授の指摘)。

 同年同月31日、節折の儀。(入江日記同日「今日も休み。節折も出なくていいし、明日の四方拝も出なくていい。こんなうれしいことはない」。→還暦を過ぎた入江の祭祀観がよく出ています。)


▢1 急に始まった祭祀の「簡素化」工作


 43(1968)年4月、入江相政侍従(1905-85)が侍従次長に。

 同年7月(入江日記43年7月1日には「今日は旬祭。御親拝」とあります。原教授の『昭和天皇』には「毎月1日に行われてきた旬祭の親拝を、68年から5月と10月だけに」と書いてあります。けれども実際には親拝が行われたようです。)

 同年9月、永積寅彦(1902-94。昭和天皇(1902-89)の御学友。43年3月まで侍従次長)が掌典長に就任。

 同年10月(入江日記10月25日「(宇佐美)長官の所へ行き、新嘗のことなど報告。皇后様(香淳皇后。1903-2000)に拝謁。新嘗の簡素化について申し上げたが、お気に遊ばすからとのこと、もう少し練ることになる。永積(寅彦)さんと相談。夕方、掌典職の案というのを聞かせてもらう。これで行くことになろう」。10月28日「魔女(今城誼子[いまき・よしこ]女官)に会い、新嘗のこと頼む」。→入江日記に「簡素化」の記述が登場するのはこのときが初めてでした。)

 同年11月23日、新嘗祭。(入江日記同日「30余年、お服上げやお供ばかりだったが、今日初めての参列である。夕の儀はすこぶる暖かかった。暁の儀はさすがに寒くなり、外套を着ていても寒かった」。)

 44年5月(入江日記5月1日「旬祭御親拝」)

 同年7月(入江日記7月1日「旬祭だけど、御代拝なので呑気」)

 同年9月、稲田が侍従長を退任。後任に入江侍従次長。

 同年10月、卜部亮吾(1924-2002、人事院管理局人事課長補佐)が侍従に。

 同年12月(入江日記12月26日「お上に歳末年始のお行事のことにつき申し上げる。四方拝はテラス、御洋服。歳旦祭、元始祭は御代拝。他は室内につきすべて例年通りということでお許しを得、皇后様にも申し上げる」。→四方拝は元日の早朝に国家国民の安寧を祈られる重儀で、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を召して、神嘉殿の前庭で行われるのですが、なぜこの年、年末になって急に、入江は「四方拝は御洋服、テラスで」などといいだしたのでしょうか。原教授は「高齢」を一連の「簡略化」の要因と見ますが、入江のこのときの日記には「高齢」という理由をうかがわせる記述は見当たりません。)

 同年同月31日、竹の間で節折の儀。(卜部日記12月31日「お質問。四方拝の礼拝はどうするのか。両段再拝は省略するのか?([徳川義寛]侍従次長から後刻申し上げる予定)」。→入江に「お許し」を与えたはずなのに、陛下はなぜか卜部に確認されています。入江日記の「年末所感」には「侍従次長というのはいい役で、四方拝も歳旦祭も関係がないから、本当に久々でのんびりした正月を迎える」というこの年の回想が載っていますが、稲田侍従長が2月に倒れ、入江は多忙を極めるようになり、そして祭祀の破壊が始まるのでした。)

 45年1月1日、歳旦祭は御代拝。(卜部日記1月1日「歳旦祭御代拝(松平侍従長)復命」。→歳旦祭は小祭で、本来は掌典長が祭典を行い、天皇が拝礼します。このころはまだ御代拝を侍従が行い、伝統に従っていたことが分かります。)

 同年2月17日、祈年祭、御代拝(卜部日記)。

 同年5月(入江日記5月1日「旬祭。御親拝のお供」。同日記5月30日「皇后様お召し。旬祭はいつから年2回になったか、やはり毎月の御拝が願わしい」)

 同年9月(入江日記9月1日「称徳天皇1200年祭御親拝のお供」。)

 同年10月17日、神嘗祭、御親拝。(卜部日記10月17日「まず神嘉殿にて神宮御遥拝の儀、続いて賢所にて御拝、お告文・お鈴ともにあり」)

 同年11月、新嘗祭。(原教授の雑誌論文は「1970年には『暁の儀』を掌典長に代拝させ、『夕(よい)の儀』だけを行う」とあります。これは入江日記に依拠した解説と思われます。入江日記11月16日には「お祭のことにつき(昭和天皇に)申し上げる。結局、新嘗祭今年は夕だけ、来年からは両方なし。四方拝は吹上、歳旦祭は御代拝という原案通りお許しを得る。……みんな喜んでくれる」とあり、11月23日には「夕の儀。脚は大して痛くなかった。やはり夕の儀だけ。明年はなにもなしに願ってつくづくよかった」と書かれています。従来は、大祭の場合、御親祭がないときは皇族または掌典長が祭典を行います。原教授は「暁の儀は掌典長の代拝」と書いていますが、不正確です。「暁の儀」は「掌典長の御代拝」ではなくて、掌典長が祭典を行ったのでしょう。原教授の祭祀用語の使用には初歩的な誤りがあります。また、入江日記の記述通り、「お許し」があったとしても、実際には大祭の親祭、小祭の親拝が行われたのでした)

 同年12月15日、賢所御神楽の儀。(卜部日記12月15日「お鈴いつもより長し」)

 同年12月31日、節折の儀。(入江日記昭和45年大晦日の「補遺」に、なぜ祭祀の「簡素化」が始まったのか、について長い説明が載っています。入江が気にしていたのは、6月ごろに始まったという陛下の「お口のお癖」でした。新嘗を簡素化すると、「すっかりご安心」になり、「不思議なことにお癖はすっかり止んでしまった」と入江は書いています。祭祀のお務めが高齢の天皇には肉体的・精神的なストレスになり、「お癖」を招いた、と入江は考えたのでしょうか。しかし、いったん止んだものの、翌年秋、「お癖」は再発します。)

 46年1月(入江日記1月27日「後花園天皇500式年祭御親拝のお供」。1月30日「孝明天皇祭御親拝のお供」)

 同年2月(入江日記2月17日「祈年祭御親拝のお供。御機嫌である」)

 同年4月29日、天皇誕生日。昭和天皇70歳。

 同年5月19日、多摩御陵行幸啓。

 同年5月26日、欽明天皇1400年式年祭、御親拝。(卜部日記)

 同年9月20日、両陛下御訪欧(9月27日から10月14日まで)につき三殿御拝。(卜部日記)

 同年10月(卜部日記10月14日「田中侍従と伊勢神宮へ御代拝(御帰国奉告)のため」。入江日記10月16日「御帰朝御報告の三殿御拝の陪乗お供」)

 同年同月17日、神嘗祭。神嘉殿で御遥拝、続いて賢所に御拝。(卜部日記)

 同年11月、新嘗祭。(原教授は「昭和天皇」では「翌年(1971)からは(夕の儀の)時間を短縮するようになりました」と書いています。たしかに、入江日記11月23日には「今年から新嘗はさわりだけに願ったので……お帰りのお車の中で『暁をやってもいい』との仰せ」。同年「年末所感」には「今年はじつにさまざまなことがあったが、大別すると、魔女の追放と御外遊の2つなり。さらにもう一つを加えるとなると新嘗の簡単化ということになる」。また卜部日記11月23日は、夕の儀については天皇の出御があったことが記され、暁の儀については「0:30掌典長より暁の儀(出御なし)、神饌供進の儀相済むの電話あり、言上す」と記述されており、暁の儀は掌典長が行ったのは事実と思われますが、夕の儀を「さわり」だけ行った、ということについては、秘儀に属することなので深く追及することは差し控えますが、ある掌典職OBは「あり得ない」と否定します。)

 同年12月31日、節折の儀。

 47年1月1日、四方拝。歳旦祭は田中侍従御代拝。(卜部日記)

 同年1月(入江日記1月30日「孝明天皇祭……御親拝のお供」)

 同年2月(入江日記2月17日「御風気とのこと。祈年祭は御代拝」。卜部日記同日「御拝の御予定なりしもお風気のためお取りやめ、田中侍従御代拝」)

 同年同月21日、仁孝天皇例祭、御代拝。皇后陛下も御代拝。(卜部日記)

 同年3月(入江日記3月25日「後嵯峨天皇700年祭御親拝のお供」)

 同年4月(入江日記4月3日「神武天皇祭なので……御親拝のお供」。卜部日記同日「御拝」)

 同年5月(入江日記5月1日「旬祭御親拝」。卜部日記同日「旬祭御親拝」)

 同年7月7日、両陛下、明治神宮に御参拝(60年式年)。(卜部日記)

 同年9月23日、秋季皇霊祭、御拝。(卜部日記「お告文あり」)

 同年10月(入江日記10月17日「神嘗祭御親拝のお供」)

 同年12月(入江日記12月25日「大正天皇祭御親拝のお供」。卜部日記同日「御神楽に御拝(参列者なし)」)

 同年12月31日、節折の儀。(卜部日記同日「お上お風気にてお床のため簡略に願うゆえ……お衣にハアハアのみにてお済ましの由」→長い時間、お立ちになっていてはおつらいだろう、という肉体的なご負担への配慮から改変されたということでしょうか)

 48年1月1日、四方拝。(卜部日記同日「お風気のため御書斎に変更」)

 同年1月4日、秩父宮20年式年祭。(卜部日記)

 同年1月16日、両陛下豊島岡墓所に行幸啓。(卜部日記)

 同年2月(入江日記2月9日「お召しということで……紀元節祭御代拝のことなど申し上げる」。2月16日「拝謁。またいろいろ仰せになり、いろいろ申し上げる。御退位のこと、御譲位のことを仰せられるので……」。2月17日「祈年祭御親拝」、卜部日記2月17日「祈年祭御親拝」)

 同年3月21日、春季皇霊祭同神殿祭、御拝。(卜部日記)

 同年4月29日、天長祭御代拝。(卜部日記同日「天長祭御代拝は田中侍従」。)

 同年9月(入江日記9月29日「拝謁『……10月1日の旬祭は御代拝に願いたい』と申し上げ、お許しを得る。一見、お進みにならないようだったが、御内心はお喜びだったと思う」)

 同年10月(入江日記10月2日「賢所へお供。すぐ衣冠単に着替え神嘉殿南庭御遥拝[注。伊勢神宮遷宮の御遥拝]のお供。10月5日「夜の神宮御遥拝は御予定通りということに願う。お喜びだった。……賢所で衣冠単。御遥拝のお供。前回同様おさわりなくてよかった」。10月30日「拝謁。11月3日の明治節祭を御代拝に、そして献穀は参集所でということを申し上げたら、そんなことをすると結局退位につながると仰せになるから、御退位などにならずに末永く御在位で国民の期待にお答えいただきたい、そのために軽いものはおやめいただくということ申し上げ、お許しを得る」。→大祭・小祭の区別は祭りの軽重ではありませんが、入江にはそう見えるのでしょうか?)

 49年1月(入江日記1月2日「そのあとお召しで……明日の元始祭御代拝の件申し上げる。あまり御機嫌がよくなかったがとにかくお許しを得る」。卜部日記1月2日「元始祭は御代拝に」。入江日記1月3日「徳川さん(義寛。1906-96。昭和11年から侍従、44年から侍従次長、60年から侍従長)と一緒に賢所に参列。元始祭。御代拝。……すぐ吹上……御代拝ということについてまた何とかいいはしまいかということ。よく申し上げたついでに……」。1月30日「孝明天皇例祭。この間申し上げてご快諾を得た御潔斎の方法で遊ばしていただく。……皇后様は……御代拝」。→1月3日の元始祭は大祭ですから、御親祭がない場合は掌典長が祭典を行います。「元始祭御代拝」という入江の表現は誤りです。)

 同年3月(入江日記3月19日「明日、明後日のお祭、御親拝の御潔斎は冬型(編者注には「高齢に配慮し、禊ぎを前日に」とあります)ということで申し上げる」)

 同年4月(入江日記4月30日「明日の旬祭御親拝の御潔斎も冬型でとお勧め申し上げる」)

 同年5月(入江日記5月16日「明日のお祭の御潔斎は夏型ということでお許しを得」)

 同年9月(入江日記9月24日「長官室で会議。剣璽さんは式年遷宮のあとの伊勢の御参拝のときだけ、外のことはまた考えるということにとりまとめる」。→昭和21年以来、中止されていた剣璽御動座が49年の伊勢神宮行幸に際して復活しました。占領期に皇位の神聖が否定され、採られた措置が、そのまま28年も放置されていたのでした。)

 同年11月(入江日記11月7日「宝剣田中、神璽卜部で御発」。同8日「剣璽も御無事でよかったがくだらないことだった」→入江の祭祀観が端的に表れています。「おれの眼の黒いうちは復活させない」と暴言を吐き、古儀復活を要望してきた神社関係者を激怒させたとも伝えられます。)

 同月、富田朝彦・内閣調査室長(1920-2003)が宮内庁次長に。ある職員OBによると、富田は、人格者ではありましたが、自分から「ボクは無神論者だ」と言い出すような人だったといいます。そして「無神論者」次長の時代に祭祀の破壊が激化します。


▢2 政教分離原則への配慮がピークを迎える


 50(1975)年1月(入江日記1月1日「卜部さん(侍従)は歳旦祭の御代拝。……テラスでモーニングでの四方拝」。卜部日記1月1日「歳旦祭御代拝に」→公務員は神道儀式には関われないから、神道色を薄めるために、装束の洋装化を図ったといわれます。)

 同年2月(入江日記2月17日「祈年祭御親拝のお供」。卜部日記同日「お倒れになったような大きな音二度……今後居拝の線で願う方向協議されたる由」)

 同年5月(入江日記5月1日「モーニングに替えて吹上、旬祭御親拝のお供」。5月17日「貞明皇后例祭御親拝のお供」)

 同年8月(入江日記8月15日には「長官室の会議。神宮御代拝は掌典、毎朝御代拝は侍従、但し庭上よりモーニングで」。卜部日記8月16日には「伊勢は掌典の御代拝、畝傍(うねび、神武山陵)は侍従、問題の毎朝御代拝はモーニングで庭上からの参拝に9月1日から改正の由。小祭の御代拝は掌典次長を設けこれに、など」とあります。戦前の皇室祭祀令では、小祭は掌典長が祭典を行い、天皇が拝礼し、御代拝は皇族または侍従とされていました。毎朝御代拝は侍従が烏帽子、浄衣で外陣で拝礼したのですが、政教分離の考えから、装束の伝統まで破壊されたのです。)

 同年9月1日、以後、宮中三殿での旬祭御代拝、毎朝御代拝が変更される。

 同年9月30日から10月14日、アメリカ公式御訪問。

 51年1月(入江日記1月30日「孝明天皇祭。御親拝ではないので参列しようと思う。……モーニングに替えて参列」)

 同年2月(入江日記2月17日「モーニングで祈年祭のお供」。2月21日「仁孝天皇例祭御親拝。皇后様は昨夜になってから御代拝とか」。2月26日「長官室に行き、お祭の御拝を簡素に願う案につき相談」)

 同年4月(入江日記4月30日「明日の旬祭御代拝ではと申し上げたら、あんまり急で昨日の誕生日のあとで疲れたのかと高松宮同妃が言ってもいかんからと仰る。参列もないし、分かりません、と申し上げたら、イヤいろいろ情報網をもっているらしいから、と仰るので、譲歩。では10月からお止めということで整える」。→昭和天皇のみならず、皇族方の間で祭祀「簡略化」に疑念があったことをうかがわせます。)

 同年8月(入江日記8月30日「六条天皇800年祭につき御親拝のお供」)

 同年9月(入江日記9月23日「(秋季皇霊祭の)御親拝のお供」)

 同年11月(入江日記11月19日「モーニングで宮殿。小出掌典に御前で伊勢の祭文を渡す」)

 同年11月23日、新嘗祭。(卜部日記同日「『どこからはじめるか』のお声……侍従長・侍従次長は暁の儀まで待機……あとは車にて密かに退庁」→やましい気持ちがあったのでしょうか。)

 同年12月(入江日記12月8日「明年の四方拝を6時40分に繰り下げていただくことについてお許しを得る」。→それまでは元旦の四方拝は朝5時半でした。)

 52年1月3日、元始祭。(卜部日記同日「三殿御拝、それぞれお告文ありお鈴もあり最長のお祭なり」)

 同年6月、永積掌典長が退職。後任に東園基文(のちの神社本庁統理)。

 同年9月(入江日記9月23日「秋季皇霊祭神殿祭、御親拝のお供」)

 同年10月17日、神嘗祭。(卜部日記同日「神宮御遥拝、次いで賢所に御拝。お告文とお鈴で久しぶりに長い感じ」)

 53年1月(入江日記1月1日「6時40分の四方拝に陪侍」)

 同年2月(入江日記2月17日「祈年祭御親拝のお供」)

 同年4月(入江日記4月3日「神武天皇祭御親拝のお供」。4月13日「昼前富田次長を訪ね、皇后様御引退のことについて協議」)

 同年5月、宇佐美・第2代宮内庁長官が退任。後任に富田次長が昇格。侍従次長は山本悟・自治省財政局長。

 同年12月(入江日記12月25日「大正天皇祭御代拝」。卜部日記12月28日「節折の儀は略式、四方拝7:40、晴の御膳9:20、元始祭御代拝のほかは新年行事は御予定通り」)

 同年12月31日、節折の儀。(卜部日記同日「お風邪のためお衣のみの略式」)

 54年1月(入江日記1月1日には「四方拝をずり下げてお願いすることになったので……(歳旦祭御親祭のため)吹上発御の直前に四方拝」、1月3日には「昨夜と今朝と二度も吹上からお電話があったこと、高松宮に対してのこと、賢所参集所で長官に話す。お参りの皇族方、就中、高松宮に今日のお祭の御親拝は御無理ということを言ってもらう」とあります。既成事実が積み上げられたあと、皇族方の反対を完全に封殺したということなのでしょう。皇家の家法に基づき、天皇が行う祭祀への不当、僭越なる干渉以外の何ものでもありません)

 同年2月(入江日記2月17日「祈年祭。今日から両段再拝を御座拝に替えていただく……御座拝が掌典長との呼吸がまだしっくり遊ばさないらしい」)

 同年7月30日、明治天皇例祭。(卜部日記同日「御拝のあと御退出時よろけられる」)

 同年12月(入江日記12月25日「大正天皇祭御親拝のお供。間違って背広に替え、気がついてまたモーニングで旧奉仕者の接待」)


▢3 傘寿を迎えられたあと、空洞化する祭祀

 55(1980)年1月(入江日記1月4日には「長官室に行き、明年は80におなりになることゆえ、お祭の簡素化を考えてあげたい。ついては春秋皇霊祭と略式新嘗祭だけにしては。そしてそのことを東宮様御発議で皇族の総意ということにしては如何とはかる」、1月30日には「孝明天皇祭、御親拝のお供」とあります。職員OBによると、御親祭がなく、掌典長が祭典を行う場合、侍従職は当直だけの勤務ですが、陛下のみならず、皇族方はテレビを見ることもなく、そろってお慎みになるといいます。表向きの祭祀の簡素化はご負担軽減になるわけではないのに、入江は簡素化という祭祀の空洞化に熱中したのです。)

 同年2月23日、浩宮加冠の儀。(入江日記2月23日「宮殿。10時より加冠の儀。落ち着いていらっしゃってお立派である。終わってすぐ賢所参列」。加冠の儀が宮中三殿ではなく宮殿で行われた(永田掌典補の指摘))

 同年3月、春季皇霊祭。→入江日記にも卜部日記にも記述なし。もはや眼中にないということでしょうか。

 同年6月(入江日記6月19日「東園君来、節折の贖物、浜離宮から大川へは無理につき、今年より平川門の付近で堀に沈めるとのこと」。→ゴミ投棄を禁じる河川法対策のようです)

 同年7月(入江日記7月17日「東園君、徳川君と一緒に来室。氷川神社奉納の雅楽の件」、会話の中身については言及がありません。7月30日「明治天皇祭御親拝のお供」)

 同年9月23日、秋季皇霊祭。(卜部日記同日「皇霊殿神殿に御拝(お告文あり)」→祭祀の空洞化が進んでも、あるいは、それであればなおのこと、昭和天皇は親祭にこだわったということでしょうか。)

 同年10月15-17日、神嘗祭。(卜部日記10月16日「神宮の神嘗祭の儀につきお尋ね」)

 同年11月(入江日記11月6日「明治神宮。お上の御参拝」。御鎮座60年大祭。)

 同年11月23日、新嘗祭。(卜部日記同日「緩やかな新嘗祭の夜、宝剣を捧持。スローに進んでも聖上との距離が空く。昨年よりも所要時間15分くらい伸びる。……9時半過ぎ車で帰宅」)

 56年2月(入江日記2月5日「いくらか暖かくなってきたし、明日の高倉天皇式年祭には御親拝をと申し上げる。お喜びだった」→「お喜び」は御親祭へのこだわりでしょうか?)

 同年3月、春季皇霊祭。→入江日記、卜部日記に記述なし。

 同年4月29日、天皇誕生日。昭和天皇80歳。

 同年9月23日、秋季皇霊祭。(卜部日記同日「今回からお蛙を省略(危険防止)」)

 同年11月(入江日記11月7日「長官の所へ行く。お上のお祭、来年は春秋の皇霊祭と新嘗祭。御式年祭もおやめに願い、再来年にはぜんぶお止め願うこと、植樹祭、国体はやっていただくこと。皇后様御引退の時期。山本侍従容態。この三点」→入江は御親祭の機会をすべて奪い、祭祀最優先の伝統を完全に砕こうとしたのです)

 同年12月(入江日記12月21日には「拝謁。明年のお祭、春秋の皇霊祭と新嘗祭とだけに願い、式年祭の御拝もお止めということでお許しを得る」。12月25日には「大正天皇祭御親拝のお供。この御拝も今日が最後。旧奉仕者も1人も参内せず、したがって接待も要らない」、卜部日記同日「大正天皇祭御拝に奉仕」とありますが、実際には「お許し」にもかかわらず、昭和天皇は新嘗祭の御親祭を入江死去後の61年まで行われました。争わずに受け入れるという天皇の帝王学がうかがえます。この至難の帝王学の実践者として後水尾天皇のことが思い起こされます。いみじくも側近の日記にはこのころ、徳川三代と激しいつばぜり合いを演じられた後水尾天皇のことがしばしば登場しますが、記録した側近に、その意味が理解できたのかどうか。ご参考までに、後水尾天皇の生涯について書いた拙文があります。以下のURLでどうぞ。)
http://homepage.mac.com/saito_sy/tennou/H140311JSgomizunoo.html

 57年1月(入江日記1月6日「掌典長室に行き、今年のお祭の省略のこと、また節折の簡素化について研究しておいてくれ、と頼む」)

 同年4月3日、神武天皇祭。(卜部日記同日「御代拝、小林侍従を通じ賢所の御拝がないと御不満」)

 同年6月(入江日記6月29日「拝謁。今年神嘗祭を遊ばし、節折は6月だけ。12月は吹上でお絹にお息だけ。明年からお祭すべてお止めということですっかりお許しを得る。卜部君このお許し得られなければ明日から食堂へ入れないといったが、明日から食堂へ行けることになった」)

 同年8月1日、大宮・氷川神社例祭の東游奉納の変更。(→永田掌典補の指摘では、楽師が年次休暇を取り、私用として出席しました。楽師が公務員であるためです)

 同年同月15日、全国戦没者追悼式に昭和天皇、最初で最後の御欠席。お風邪。皇太子・同妃両殿下が御名代でご出席。

 同年10月17日、神嘗祭。(入江日記10月17日「神嘗祭御親拝。東宮様はパラリンピックで島根県にお出でになっているのだろう」。→祭祀より公務が優先されるという現象が東宮にまで拡大していたということでしょうか。)

 58年1月(入江日記1月17日「会議。お祭に御親拝にならなくなるについてのこと、皇后様80の件など」。)

 同年2月(入江日記2月17日「長官の所へ行き、春季皇霊祭、神殿祭だけ最後に御親拝を願えまいかという件(お祭軽視という批評を避けるため)につき相談したが、みんな反対、この間の皇后様のエスカレーターのようなことが起こっても知らないというみんなの意見を伝える」。→「週刊文春」1月20日号が「宮内庁を悩ますある内廷職員の学会発表」を掲載しました。永田掌典補の問題提起が衝撃を与えたのですが、庁内はかたくなでした。)

 同年3月(入江日記3月14日「長官室へ行き橋本徹馬氏が面会したいの件を伝える。永田事件で国会など色々あるし……」。)

 同年9月(入江日記9月13日「昨年いったん願い下げにした新嘗をさらにいちだんと簡素化して願いたく申し上げる。明年のことはまた明年、とりあえず今年と申し上げ、お許しを得る。あと卜部君が詳しく申し上げご了承を得る」)

 同年10月17日、神嘗祭。

 同年同月(入江日記10月27日には「御成婚60年の会議。……皇后様の御代拝はないことで終わる」、卜部日記同日には「掌典長から大祭のみ御代拝案、[前田利信]掌典次長と賢所へ、新嘗用踏台を下見」とあります。御親祭時の椅子の使用が検討されています。)

 同年11月23日、新嘗祭。(卜部日記同日には「7:30渡御。7:35御座着座お椅子入れ」とありますが、入江日記には椅子の使用について記載がありません。朝日新聞・岩井記者による卜部日記の解説には、「58年の新嘗祭では、天皇が神前で読み上げるお告文を省略することになった。座椅子も使ってもらうことになった。翌年には腰かけを発注して使ってもらっている」とあり、原教授の論考にも「83年から天皇が皇祖皇宗の神霊に奏する『御告文』の朗読を省略して座椅子を使うようになり、さらに84年からは侍従職発注の椅子を使用しています」と断定していますが、掌典職OBは「椅子の導入は検討はしたとしても、実際にはあり得ない」と否定しています。)

 59年1月1日、歳旦祭。(卜部日記同日「6:00前田掌典次長歳旦祭御代拝」)

 同年2月(入江日記2月6日「開会式のお供。手すりができて初めての行幸。まことに具合よくもう何の心配もない」。)

 同年3月20日、春季皇霊祭。(入江日記「雪中を参列。ひどく寒い」。→卜部日記に記述なし。天皇関連の記述がありません。)

 同年8月15日、終戦記念日。(入江日記「武道館。いつもの通り。……お言葉非常にご立派」)

 同年9月23日、秋季皇霊祭。(入江日記「モーニングで参集所。阿具根さんと楽しむ。中曽根首相、住法相、寺田長官、塩野、江幡氏など参列」→天皇の記述なし)

 同年10月17日、神嘗祭。(入江日記「神嘗祭に参列」。→天皇の記述なし)

 同年同月(卜部日記10月31日には「東園掌典長に新嘗祭の腰掛けの件。侍従職発注とし、中村補佐に指示」とありますが、掌典OBは実際の使用はないと否定します。)

 同年11月(入江日記11月16日「新嘗祭に環境庁長官は女だからいけないという宮下、永田らのウルトラシントイズム、うまく押し切って伺いものも出た」。→祭祀の伝統を重視する永田掌典補らに対する入江の見方が分かります。)

 同年同月23日、新嘗祭。(入江日記に記述なし。卜部日記同日「お服上げやや難航。途中で神嘉殿簀子へ……9時散会」)


▢4 入江死去、最後の新嘗祭、御不例、崩御

 60(1985)年5月2日、安徳天皇800年式年祭。(卜部日記)

 同年8月15日、終戦記念日。戦没者追悼式。行幸。(卜部日記)

 同年9月26日、入江侍従長、退任の記者会見。(入江日記)

 同年同月29日、入江死去。

 同年10月、新侍従長に徳川義寛、侍従次長に安楽定信。(卜部日記)

 同年11月23日、新嘗祭。(卜部日記同日「7時過ぎに綾綺殿に渡御、小林侍従・鈴木侍従とお服上げ……8時ごろ入御」)

 同年11月30日、礼宮加冠の儀。

 同年12月31日、節折の儀。(卜部日記同日「出御。節折の儀、開始10分で終了」)

 61年4月29日、天皇誕生日。昭和天皇85歳。御在位60年式典。

 同年11月23日、新嘗祭。昭和天皇最後の親祭。(卜部日記同日「7:40綾綺殿へ渡御。御祭服お召し替え。お待ちの間おあくび4回。掛緒お締めのとき痛いと仰せ。7:40ごろ神嘉殿へ渡御……9:30ごろ解散」。「61年、あのときは本当に大変でした」(『昭和を語る』卜部対談))

 62年8月14日、昭和天皇、那須から還幸。(卜部日記)

 同年8月15日、終戦記念日。戦没者追悼式行幸。(卜部日記)

 同年9月22日、皇太子が国事行為の臨時代行に。

 同年9月23日、秋季皇霊祭。(卜部日記同日「秋季皇霊祭のあと東宮殿下お見舞いのため病院にお立ち寄りとのこと」。秋季皇霊祭は大祭)

 同年11月23日、新嘗祭。(卜部日記同日には「侍従次長・侍医長と賢所へ。7:45ごろ順次神嘉殿に進み拝礼。次いで直会、8時半庁舎へ」とあり、編者による脚注には、「療養中の天皇に代わって、皇太子が拝礼した。天皇が新嘗祭を欠席するのは、昭和39年の風邪による欠席以来のこと。昭和45年からは、午後6時からの『夕の儀』だけで、午後11からの『暁の儀』は出席していない」と記されていますが、新嘗祭の天皇御親祭に「代わり」はありません。皇太子の拝礼は恒例で、天皇に代わって行うのではありません。)

 同年12月15日、国事行為臨時代行の一部解除。

 63年4月13日、徳川義寛侍従長が退任、後任に山本悟次長。宮内庁次長に藤森昭一。

 同年同月28日(卜部日記同日「お召しがあったので吹上へ。長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」)

 同年8月15日、終戦記念日。戦没者追悼式。(卜部日記同日「日本武道館へ行幸。……途中で時報鳴る。10秒遅れくらいで黙祷……外は激しい雨」)

 同年9月19日、吐血。(卜部日記)

 同年同月22日、皇太子に再び臨時代行の全面委任。

 同年同月23日、秋季皇霊祭。(卜部日記同日「秋季皇霊祭御拝後の東宮御参」)

 同年10月17日、神嘗祭。(皇太子ほか皇族が参列し神宮遥拝。勅使に掌典次長(神社新報))

 同年11月23日、新嘗祭。(卜部日記)

 64年1月7日、昭和天皇崩御。

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