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4段階で進んだ宮中祭祀の「空洞化」/天皇と・皇室の1週間 [天皇・皇室]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2008年5月7日)からの転載です


□□□□□□□□□□ 4段階で進んだ宮中祭祀の「空洞化」 □□□□□□□□□□

 原武史教授の宮中祭祀廃止論への批判を、さらに続けます。

 わが国では言論も学問も自由で、いろんな天皇論がありますが、これほど天皇・皇室について、あるいは皇室の祭祀について、基本的理解の欠落した研究を読んだのは久しぶりです。

 そもそも議論の前提が間違っています。原教授は、月刊「現代」5月号掲載の論考で昭和史を振り返り、1960年代末以降、天皇の「高齢を理由に宮中祭祀が削減または簡略化されて」いった、と書いていますけれども、そうではありません。

 これまで書いてきたように、正しくは、

1、「簡略化」はじつのところ祭祀の改変・破壊である

2、「簡略化」の理由とされる昭和天皇の「高齢」は口実に過ぎない

3、祭祀破壊の表舞台で立ち回った張本人は側近中の側近・入江侍従長である

4、入江の祭祀に対する無理解が祭祀を破壊したが、理由はそれだけではない

 ということです。

 つまり、原教授が主張するように、「高齢」を理由とする祭祀の削減・簡略化に対して昭和天皇が「いいがたい不安」を覚えていた、というのではありません。みずからの「高齢」を口実として、皇室の伝統である祭祀が破壊されることをご承知になることができなかったのでしょう。

 入江日記では、昭和57(1982)年6月には「お祭すべてお止めということですっかりお許しを得」たはずなのに、実際には昭和天皇は病床に伏されるまで、つまり61年の新嘗祭まで、親祭を貫かれました。

 議論の前提が間違っている以上、今上天皇は先帝以上に祭祀に「熱心」だが、皇太子はどうだろう、「新しい神話」を模索しなければならない、などと展開される原教授の祭祀廃止論もまったく成り立ち得ません。


▽側近の考え方が変わった

 今号では、宮中祭祀の破壊がなぜ起きたのか、引き続き、その要因について考えます。

 原教授は、昭和天皇、香淳皇后、入江侍従長など、個人のレベルに還元して、簡略化問題を考察していますが、前号に書きましたように、もっと大きな枠組みのなかで考える必要があります。

 教授によれば、毎月1日、11日、21日の月3回の旬祭のうち、天皇がみずから拝礼する、毎月1日の旬祭(しゅんさい)の親拝(しんぱい)は、昭和43(1968)年から5月と10月の年2回になりました。古希が近付きつつある天皇にとって、祭祀はあまりに過酷な負担だったというのです。

 けれども、昭和天皇はまだ60代の後半です。香淳皇后とともに、46年秋にはヨーロッパを、50年秋にはアメリカを訪問されました。海外への半月にもおよぶ長旅に耐えられるのに、「高齢」といえるでしょうか。

 祭祀改変の理由が「高齢」ではないとすると、何が理由なのでしょうか。

 そのころ何が起きたのか。原教授は、社会的な背景として、高度経済成長によって社会が変化し、農耕儀礼が形骸化した、と説明していますが、これも間違いです。社会が変化したのではありません。大きなうねりのようなものが、宮内庁を含む日本の行政全体を襲ったのです。しかも、その巨大な外力をはねのけるほどの実力者が、少なくとも宮内庁にはいなかったのでした。

 当時の事情を知るOBはこう説明します。「戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちがそろって定年で退職し、代わって他の省庁から幹部職員が入ってくるようになった。新しい職員は『国家公務員』という発想が先に立ち、皇室の伝統に対する理解は乏しかった。新興宗教と見まごうほどに厳格な政教分離の考え方が宮内庁中にはびこり、なぜ祭祀に関わらなければならないのか、などと、側近の侍従職までが声を上げるようになり、祭祀から手を引き始めた」

 天皇の側近が世代交代し、憲法の政教分離原則をことさら厳格に考え、皇室伝統の祭祀を軽視する空気が、何か大きな力を背景として、庁内中に蔓延するようになった、というのがこのOBの説明です。

 じつに興味深いことに、日常的な俗事については克明な入江日記ですが、それとは対照的に、昭和40年代前半まで、祭祀に関する記述は滅多にありません。

 昭和9年に学習院教授から侍従となり、長く昭和天皇に仕えた入江ですから、毎朝御代拝で天皇に代わって賢所で何度も拝礼したはずです。親拝のお供をする機会も数知れず、神さびた雰囲気を知り抜いていたはずですが、入江日記から賢所の神聖さは伝わってきません。入江が日記に祭祀に関する記述するようになるのは、祭祀の「簡素化」が始まる40年代後半になってからで、敬神どころか、冒涜的言辞さえ登場します。

 むろん人の心の内は分かりません。旧職員の中には逆に、「入江さんは御代拝の態度も立派だった。祭祀軽視の考えを持った人ではない」と証言する人もいます。私はそうは思いませんが、もし入江が「敬神家」だったのだとすればなおのこと、その入江ですら祭祀改変を進めざるを得ない状況に、当時の宮内庁はおかれていた、ということになります。

 そして、ついに祭祀破壊の衝撃的な実態が国民に広く知られるようになります。


▽衝撃!! 現役掌典補の問題提起

 きっかけは、昭和57年12月に国学院大学で開かれた「神道宗教学会」で、宮中祭祀に従事する、当時40歳の永田忠興・掌典補が、「祭祀と法律」をテーマに発表し、祭祀に重大な変更が起きていることの是非を問題提起したのです。

 永田掌典補が指摘した宮中祭祀の「変化」は、以下の6点でした。

1、旬祭御代拝、毎朝御代拝の変更

 以前は天皇に代わって、当直の侍従が浄衣を着し、宮中参殿の内陣で参拝していたが、50年9月1日以降、宮中参殿の前の庭からモーニングコートを着て拝礼するようになった。侍従は国家公務員だから、祭祀という宗教に関与すべきではない、というのが理由で、モーニング姿、庭上で、というのは神道色を薄める配慮だった。

(筆者注。卜部日記には「問題の毎朝御代拝は……」とありますから、侍従が行う毎朝御代拝が最大の懸案だったようです。国は宗教的活動をしてはならない、とする政教分離規定を厳格に考えた結果でした。)

2、伊勢神宮での皇太子御代拝の変更

 皇太子が外国を訪問する場合、皇太子に代わって東宮侍従が、伊勢神宮、神武山陵、多摩御陵に参拝することになっていたが、このうち伊勢神宮への代拝は内廷職員で、公務員ではない掌典に変わった。公務員は特定の宗教に関われないというのが理由だった。

(筆者注。同時に、このとき皇太子のみならず伊勢神宮への御代拝が、側近の侍従から、祭祀の専門職ではあっても側近ではない掌典に変更されたようです)

3、皇族の御代拝の変更

 以前は大祭の場合、天皇がみずから祭典を行えない場合は皇族または掌典長が行い、小祭なら、天皇が拝礼できない場合は、皇族または侍従のよる御代拝になっていたが、50年9月の秋季皇霊祭からは、大祭は掌典長、小祭は新設の掌典次長による御代拝に変わった。しかも皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝は廃止された。側近の侍従は公務員だからというのが理由だった。

(筆者注。いまもこの方式が続いているようです。だとすると、皇后様が祭祀に欠かさず「出席」していることを「熱心」さの表れと見る原教授の説明は誤りです。)

4、加冠の儀の場所の変更

 加冠の儀は成人を神前に奉告するのが本来の意味で、当然、宮中三殿で行われるべきだが、55年2月の浩宮親王、60年11月の礼宮親王の加冠の儀は宮殿で行われた。

(筆者注。大正時代以前は賢所で行われていなかった、という指摘もありますので、あながち伝統破壊と断定することもできません。)

5、節折(よおり)の儀、大祓の儀の贖物(あがもの)、祓物を流棄する場所の変更

 節折の儀は天皇の大祓(おおばらい)。大祓の儀は皇族ほか国民全体を祓い清める神事で、6月末日と大晦日の年2回行われる。神事に使われた祓物は浜離宮で海に流されていたが、55年6月に皇居内で行われることに決まった。「時流に反する」というのが理由とされた。

(筆者注。何人も河川にみだりにゴミを捨ててはならない、という河川法関係法規への配慮のようです。)

6、大宮市(現さいたま市)の氷川神社例祭での東游(あずまあそび)奉納の変更

 同神社は東京遷都のあと、明治天皇が行幸し、親祭になった由緒ある神社で、8月の例祭には勅使が参向し、このとき特別に東游という神事舞が、勅使と宮内庁楽師によって奉納されてきたが、57年からは楽師の参加が禁止された。公務員だからというのが理由で、実際には楽師が休暇をとって参加し、奉納された。


▽「高齢」問題と憲法論が絡まり合い

 原教授の『昭和天皇』(岩波新書、2008年)などでは、祭祀の「簡略化」は「1960年代末以降、天皇の高齢に配慮」して始まった。毎月1日の旬祭の親拝は「68(昭和43)年から5月と10月だけ」になり、「70(昭和45)年の新嘗祭からは『暁の儀』を掌典長に代拝」させるようになったと指摘されています。

 これに対して、永田掌典補が指摘しているのは、昭和50年代の変化です。日々の祭祀から、宮中三殿での神事はもちろん、神社への勅使差遣にまでおよんでいます。教授が指摘する「簡略化」は天皇がみずから行う天皇の祭祀についてですが、永田掌典補の指摘するのは皇室祭祀全般の非伝統的改変です。

 原教授が注目する昭和40年代の「簡略化」が「高齢」を名目とされたのに対して、永田掌典補が指摘する50年代の改変は、公務員は宗教に関与できないという憲法論が背景にありました。

 だとすると、両者はまったく別の現象なのでしょうか、それとも連続した現象でしょうか。私は、両者が絡まり合って祭祀破壊が進展していったのだと考えます。


▽政教分離論を見落としている原論文

 原教授は、「高齢」を理由に宮中祭祀が削減・簡略化された。これに対して、昭和天皇はいいがたい不安を覚えていた。晩年まで「祈り」にこだわった、という単純な、あるいは単線的な理解ですが、そうではありません。

 表向きは、最初は昭和天皇の「高齢」を名目に「簡素化」という改変が始まりますが、その底流には政教分離論があり、やがて表面化し、大きなうねりとなり、いよいよ祭祀の破壊が進んだのでしょう。

 原教授は、農村社会が衰退し、農耕儀礼の宮中祭祀が社会から浮き上がった、というように社会の変化という要因の圧迫から論理を展開させ、憲法論という政治的外力を見落としています。

 第一、入江日記に憲法論が出てこないように、原教授の『昭和天皇』には永田掌典補は登場しません。農村社会の衰退や天皇の高齢は論じられても、政教分離論はすっぽりと抜け落ちています。

 また、教授は、今上天皇が御静養中のときにも皇后陛下が「一貫して祭祀に出席」している事例を挙げ、皇后陛下の祭祀に対する「熱心」ぶりを強調しますが、永田掌典補が指摘するように、皇后の御代拝が憲法論議の末に「廃止」されたのだとすれば、皇后様の祭祀「出席」を「熱心」「こだわり」と見ることはできません。ある職員OBは、両陛下の熱心ぶりは皇太子時代から一貫している、と証言しています。

 さらに教授は、今年3月に宮中三殿の耐震改修が終わり、奉遷の儀が行われるのに先だって、宮内庁が両陛下の健康問題と祭祀のご負担軽減について発表したのは、ご高齢にもかかわらず陛下が公務や祭祀を「やり過ぎ」ていることを、側近が切実に心配している、と解説していますが、話はまったく逆でしょう。
御代拝を廃止し、高齢の両陛下に、いわば「やり過ぎ」を強要しているのは、側近であり、誤った憲法論です。


▽祭祀破壊の4段階

 祭祀の破壊はどのようにして発生し、進展したのか。原教授の単線的な理解が誤りなら、どう見るのが正しいのでしょうか。

 結論からいえば、次のような4段階で考えることができるでしょう。

1、「高齢」を口実に「簡素化」が進められた時期(昭和43(1968)年から)

 祭祀の破壊は宇佐美宮内庁長官、入江侍従長時代に始まりました。入江日記には宇佐美の存在がうかがえません。少なくとも表向きは、戦前から昭和天皇に仕えてきた入江の主導で破壊は進められたものと考えられます。祭祀の主体はあくまで天皇ですが、まるで祭祀大権をいちばんの側近に奪われたかのようです。

 最初に昭和43年に毎月1日の旬祭の御親拝が年2回に減らされ、45年には新嘗祭が「簡素化」されます。原教授は、高齢の天皇の過酷な負担を軽減するためと説明していますが、単純すぎないでしょうか。

 入江日記によると、入江の祭祀「簡略化」工作は43年に始まります。45年5月に香淳皇后から旬祭の御親拝削減について抗議を受けた入江は、「洗いざらい申し上げ」たというのですが、「高齢」についての記述はありません。

 入江は盛んに天皇の「お口のお癖」を気にし、それが45年の新嘗祭簡略化のきっかけとなっていますが、「お癖」が始まったのは、香淳皇后の抗議の直後、すなわち同年6月です。入江が「お口のお癖」を老化現象と理解したのだとしても、43年の祭祀簡略化の原因ではありません。

 45年の大晦日に書かれた「補遺」には、香淳皇后の抗議に対して「お祭のためにお身体におさわりになったら大変」と弁明したように記述されていますが、「高齢」はあとからとってつけた言い訳のようにも聞こえます。

 この時期、旬祭の親拝削減のほか、新嘗祭親祭の改変、節折の儀の改変、「軽いもの」の「代拝」化などが行われていますが、詳しくは補論をご覧ください。

 この時期の最大の謎は、入江はなぜ、御代拝という伝統的な手法を採らずに、祭祀の破壊につながるような「簡素化」を選択したのか、です。

2、政教分離原則への配慮がピークを迎える時期(昭和50(1975)年から)

 昭和21年以来、久しく行われていなかった剣璽御動座が、神社関係者などの要求があって、49年に復活します。皇位と不可分の関係にある剣璽が、天皇とともに動かれるという古儀が再開されたのです。

 しかし同時に、自称「無神論者」の富田朝彦宮内庁次長が登場したころからどうやら、公務員は祭祀に関われない、とする厳格主義が台頭し、政教分離問題への配慮がピークを迎え、祭祀の改変がいよいよ進みます。

 第1段階では、側近の入江が昭和天皇に進言し、「お許しを得る」という方法で親拝の削減などが行われましたが、第2段階では、長官を含む会議で祭祀の改変が行われます。つまり、祭祀破壊の舞台は「オク」から「オモテ」に移ります。

 具体的には、公務員である侍従による御代拝は、たとえば毎朝御代拝の場合、装束が変更され、烏帽子・浄衣から、洋装のモーニングに変わり、御代拝の場所も、宮中三殿の殿内から、神殿からなるべく遠く離れた庭上へと変更されました。

 また、歳旦祭や祈年祭など、小祭の場合は、掌典長が祭典を行い、天皇が皇族らを率いて拝礼する、とされてきたのですが、御代拝に関する重大な変更がなされました。つまり、天皇の御代拝は公務員である侍従から内廷職員、つまり天皇の私的使用人という立場にある新設の掌典次長に代わり、皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝は廃止されたのです。

 昭和22年5月、日本国憲法の施行に伴い、戦前の皇室令が「廃止」されたとき、宮内府長官官房文書課長名の依命通牒が発せられ、「従前の例に準じて事務を処理すること」とされ、祭祀の伝統は守られてきたのですが、それから約30年後、天皇の意思に依らない、官僚たちのいわば越権行為によって、祭祀の伝統は破られたのです。

 そうした大転換が起きるほど、公務員は特定の宗教である神道儀式に関われないという絶対分離主義的な考え方が社会に蔓延していました。

 折りしも司法の世界では、津地鎮祭訴訟の上告審が争われているときでした。最高裁の最終的判断(52年7月)は合憲の逆転判決でしたが、第2審(46年5月)は「津市が神社神道式の地鎮祭を行ったのは政教分離違反」と断定する判決で、行政機関は露骨な神道離れを引き起こしていったのでした。

 「さらにもう一つ」と職員OBは指摘します。

 54年4月、衆議院内閣委員会で、元号法に関する質疑が行われたとき、上田卓三・社会党議員が「元号の法制化は践祚(せんそ)・大嘗祭(だいじょうさい)その他の皇位継承儀礼の法制化へと道を開く危険性を十二分に持っているのではないか」と迫ったのに対して、真田秀夫・内閣法制局長官は「従来の大嘗祭は神式のようなので、憲法20条3項の規定があるので、神式で国が儀式を行うことは許されないと考えている。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか……」と答弁したのでした。

 つまり、国が神道儀式を行うことは、憲法が禁止する国の宗教活動に当たる、という見解を長官は示したのです。

 だとすれば、国家公務員たる宮内庁職員が皇室伝統の神道的祭祀にどう関わるか、問われることになります。

3、昭和天皇80歳を迎え、祭祀が空洞化していく時期(昭和55(1980)年から)

 昭和天皇が傘寿を迎えられるのを前にして、祭祀の「簡素化」がいちだんと進みます。入江は富田宮内庁長官を巻き込み、皇太子の発議、皇族の総意というかたちで、祭祀の空洞化を根回しします。

 春季・秋季皇霊祭と「略式」新嘗祭だけにして、というのが入江の発案でしたが、入江の日記にはその後、皇霊祭の記述は消えていきます。祭祀はすべてやめ、一方、植樹祭と国体はお出ましに、という提案もされました。

 永田掌典補の「重大な変化」の指摘はこのとき行われます。入江日記によれば、「永田事件」のあと、入江は祭祀軽視の批判を回避するため、最後に春季皇霊祭の親拝を、と逆に提案するのですが、賛成するものはいなかったようで、かえって新嘗祭のさらなる「簡素化」が進み、椅子の導入さえ検討されたのでした。

4、入江死去から、最後の新嘗祭、御不例、崩御まで(昭和60(1985)年から)

 昭和60年秋、入江が急死します。62年には高松宮殿下が亡くなります。

 昭和天皇も最晩年の時を迎えていました。側近らは公務の削減に取り組みますが、陛下は抵抗されます。

 61年の新嘗祭への出御は、皇祖の神勅に基づき、代々、「国平らかに、民安かれ」という祈りを、人の見ないところで捧げ続けてきた祭祀王としての執念さえ感じられます。

 そして64年1月、祈りの生涯を終えられたのでした。


▽祭祀の回復に努められた今上天皇

 このようにしてみると、原教授のいう論理がいかに薄っぺらなものであるかが分かります。

 さらに教授は、今上天皇が先帝以上に祭祀に「熱心」だと指摘しますが、朝日新聞の岩井克己記者が書いた卜部日記の解説によれば、皇位を継承した今上天皇は、公務や祭祀の伝統に関する研究を意欲的に開始されたのでした。つまり、皇室の伝統である祭祀の破壊の回復に取り組まれたということでしょう。

 今上天皇がご高齢で、療養中にもかかわらず、祭祀のお務めを粛々と果たされているのは、その結果でしょう。原教授によれば、陛下の姿勢を「やり過ぎ」と見て、軽減を切実に願う側近がいるとのことですが、もしそうだとして、「軽減」を図ることがあれば、昭和天皇晩年に入江たちが犯した愚策を繰り返すことになるでしょう。

 さて、話をもとに戻します。

 昭和57年暮れ、永田掌典補の学会発表を聞いたのは約30人といいます。多くは宮中祭祀に詳しい神道学者や皇室を大切に思う気持ちが人一倍つよい神社関係者でしたから、どれほど大きな衝撃を与えたか、想像するにあまりあります。

 そしてさらに、「週刊文春」が大きく報道したことから、大騒動に発展します。いったい何が起き、何が議論されていったのか、そしていま何を議論しなければならないのか、そのことについては次号でお話しします。

 本論は最後の山場を迎えます。


☆ 補論 ☆

 昭和40、50年代に宮中祭祀がどのように変化したのか、時系列的に整理したものを、斎藤吉久のブログ2008にアップロードしてあります。次のURLをクリックしていただき、Web上でお読みいただければ幸いです。
http://web.mac.com/saito_sy/iWeb/SAITO%20Yoshihasa%20Website/7E4F1627-B85B-11DC-9C5F-000A95D44250/6E253270-1A5F-11DD-8A07-000A95D44250.html

☆ 訂正 ☆

 前号(4月29日発行、vol.29)の「宮中祭祀『破壊』の背景に憲法問題あり」の最後に、「祭祀簡略化問題は、入江侍従長の工作によって旬祭のお出ましが年2回になった昭和43(1968)年からじつに20年も過ぎて、表面化します」とありますが、今号の記事ですでにお分かりのように誤りです。正しくは「20年も過ぎて」ではなく「15年後」です。訂正します。


□□□□□□□□□□ 天皇・皇室の一週間 □□□□□□□□□□

5月1日(木曜日)

□常陸宮・同妃両殿下が東京多摩動物公園の開園50周年記念式典にお出ましになりました(TOKYO Web)。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008050102008078.html

4月30日(水曜日)

□天皇・皇后両陛下が東京大学総合研究博物館の鳥の特別展にお出ましになりました。特任研究員の秋篠宮殿下が案内されました(MNS産経ニュース)。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080430/imp0804301123000-n1.htm

4月28日(月曜日)

□皇太子殿下が神戸で開かれたブラジル移民100年記念式典に出席されました(asahi.com)。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804280113.html

4月24日(木曜日)

□天皇・皇后両陛下が都内で開かれた日本人のブラジル移住百周年記念式典に出席され、お言葉を述べられました(時事ドットコム)。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008042400776

4月23日(水曜日)

□天皇・皇后両陛下が都内で開かれた日本国際賞授賞式にお出ましになりました(時事ドットコム)。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008042300751


□□□□□□□□□□ お断りとお知らせ □□□□□□□□□□

1、当メルマガは毎週火曜日の発行ですが、今週は火曜日が振り替え休日のため、翌日水曜日の発行となりました。1日遅れになったお詫びに、「特大号」とさせていただきました。

2、ピアニストの中村由利子さんが6月に東京文化会館でコンサートを開きます。是非おいでください。ファンクラブのメンバーも募集しています。
http://www.yurikopia.com/

3、「明日への選択」4月号(日本政策研究センター)の「一刀両断」欄に掲載された拙文をアーカイヴズにアップロードしました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/tennou/H2004ASkugen.html

4、発売中の「別冊正論」第9号に拙文「靖国合祀『日韓のすれ違い』」が載っています。
http://www.sankei.co.jp/seiron/etra/no09/ex09.html

5、「人形町サロン」に拙文「日本人が大切にしてきた多神教文明の価値」が載っています。
http://www.japancm.com/sekitei/sikisha/index.html

6、斎藤吉久メールマガジンの読者登録もお願いします。
http://www.melma.com/backnumber_158883/
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