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宮中祭祀の破壊は繰り返されるのか [宮中祭祀簡略化]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2008年5月29日)からの転載です


□□□□□□□□ 宮中祭祀の破壊は繰り返されるのか □□□□□□□□


 今年4月半ばから書き始めた、原武史・明治学院大学教授の「宮中祭祀廃止論」に対する批判も、今日の臨時増刊号で一応、打ち止めとします。

▽1 おさらいと補足
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 まず前号の簡単なおさらいと補足をします。

 原教授は宮中祭祀廃止論の前提として、1960年代末以降、昭和天皇の高齢を理由に宮中祭祀が削減または簡略化されていったと説明しますが、間違いです。厳格な政教分離主義が行政全体に蔓延(まんえん)した結果、宮中祭祀が簡略化・改変されたのです。

 政教分離原則は国民の信教の自由を制度的に保障することが目的ですが、日本では仏教やキリスト教、イスラムに対しては緩やかな分離政策が採られながら、こと神道に対しては差別的に厳格主義が要求され、昭和天皇の大喪の礼では神道色の排除が行われました。

 法の下の平等に反する宗教差別が公然と行われるのはなぜか、というと、「国家神道」が「軍国主義・超国家主義」の源泉だとする神道指令的な誤解と、現行憲法の政教分離主義が戦前の反省から生まれたとする誤った歴史理解、という2つの理由が考えられます。

 布教の概念すらない神道を、攻撃的な世界宣教を展開したキリスト教と同一視し、「侵略的」と考えたところに間違いの出発点があると私は考えます。

 戦前・戦中に靖国神社をシンボル化したのは、靖国神社自身というより大新聞ですし、戦後より戦前の方が厳格な政教分離主義が追求されていますから、神道を差別し、宮中祭祀を圧迫し、仏教やキリスト教、さらに無神論者を優遇するというダブル・スタンダードの政教分離政策には根拠がありません。憲法の政教分離規定は、むしろ宗教伝統否定、天皇反対の道具として、確信的に悪用されていると私は考えます。

 半世紀以上も宮中祭祀の法的枠組みが未整備のまま放置されているのは、為政者の怠慢以外の何ものでもありませんが、それなら、天皇の祭祀を国の基本法の上に、どう位置づけるべきなのか。そのヒントは一神教の歴史のなかに見出されます。

 なぜなら一神教こそ、異教の存在を強く意識し、神の命令による布教という形で他宗教信者に棄教を迫り、他宗教に圧迫を加えるのであって、国民の信教の自由を制度的に保障するために国家の宗教的中立性が求められるのは、攻撃的な一神教の存在と、その発想・論理が前提にあります。政教分離問題とは一神教問題なのです。

▽2 上智大学生靖国神社参拝拒否事件

 歴史の実例を挙げましょう。

 昭和7(1932)年に上智大学生靖国神社参拝拒否事件が起きました。カトリック修道会のイエズス会が経営する同大学で、配属将校が学生を引率して靖国神社に行軍したとき、信徒の学生が参拝しなかったことから、やがてマスコミを巻き込み、大騒動に発展したとされる事件です。

 配属将校が引き揚げたばかりでなく、後任者が決まらない事態となり、卒業生は幹部候補生となる特典を失うなど、学生にとっては深刻で、志望者が減った大学も困難な状況に置かれました。

 今日の教会指導者は、この事件を教会への「軍部と世論による迫害」(「非暴力による平和への道」カトリック中央協議会、2005年)などと呼んでいます。しかし、渦中の人である丹羽孝三幹事(学長補佐)の回想(『上智大学創立60周年──未来に向かって』ソフィア会、1973年所収)によれば、当初は、まったくそのような気配はありませんでした。参拝を強制されたというわけでもないようです。

 文部省は大臣以下、幹部は上智大学の理解者で、逆に軍部に批判的であり、警察当局にも協力者がいたといいます。それどころか軍部内にも同情者が現れ、部外秘情報を丹羽に届けてきた、と丹羽幹事は書いています。

 当時の上智大学は、全国に十数校しかない大学令による大学で、宗教学校ではありませんから、教会への迫害とはいえません。当時の教会はむしろさまざまな優遇を受け、発展期にありました。けれども事件が信徒にとって深刻な信仰問題を提起したことは確かです。

 ついでにいうと、ベストセラーとなった高橋哲哉・東大大学院教授の『靖国問題』(ちくま新書、2005年)などは、クリスチャンの学生2人が、軍事教官の引率で靖国神社の遊就館を見学したとき、参拝を拒んだ、と事件の発端を説明していますが、誤りです。

▽3 靖国参拝を認めたカトリック教会

 丹羽幹事の回想によると、陸軍省がホフマン学長の出頭を求めてきたことから、代わって丹羽が小磯国昭大将(陸軍次官)に面会します。

「陛下が参拝する靖国神社にカトリック信徒が参拝しないのは不都合ではないか?」と小磯が詰め寄ると、丹羽は「閣下の宗旨は?」と聞き返します。「日蓮宗です」「それなら本願寺(浄土真宗)や永平寺(曹洞宗)に参拝しますか?」「他宗の本山には参りません」「しかし陛下は参拝されます」という問答が続き、小磯は「僕の書生論は取り消します」と小磯は抗議を取り下げた、と丹羽は振り返っています。

 こうして収まったはずの騒動が火を噴くのは、10月になって「報知新聞」などが書き立ててからのことでした。「軍部による政党打倒運動に事件が利用されたのであって、大学はいい迷惑だった」と丹羽幹事は説明しています。

 このエピソードが示しているように、神道が他の宗教と両立しがたい一宗教であり、靖国神社参拝がみずからの一神教信仰に反して異教の神を拝することになる、というのであれば、熱心な信徒であればあるほど、参拝を容認することはできません。しかもそのことは、日蓮宗信徒の小磯次官の例で分かるように、キリスト教に限りません。

 ところが、カトリックの総本山であるバチカンは、唯一神信仰を侵す異教崇拝というような見方をせずに、1936(昭和11)年の指針で信徒が靖国神社の儀礼に参加することを明確に認めます。そしてさらに戦後も1951年の指針で追認しています。

▽4 孔子崇拝の儀礼参加を認める

 カトリック信徒が靖国神社の儀式に参加することは、外形的に見れば、異教の施設での異教儀式に参加することにほかなりませんが、一神教の教えに反しないものとして容認してきたカトリックの理論は、日本の政教分離問題を考え、宮中祭祀の法的位置づけを確立させるうえで、たいへん参考になります。

 カトリックが異教の儀礼を公的に認めたのは、じつに350年も前のことでした。布教聖省が1659年に中国で布教する宣教団に与えた指針が最初のようで、そこには、「各国民の儀礼や慣習などが信仰心や道徳に明らかに反しないかぎり、それらを変えるよう国民に働きかけたり、勧めたりしてはならない」(『歴史から何を学ぶか』カトリック中央協議会福音宣教研究室編、1999年)と明記されています。

「全世界に行って、福音を述べ伝えなさい」(マルコによる福音書16章15節)というイエスの言葉を胸に、一神教のキリスト教が世界布教の過程で、ヨーロッパやアメリカ大陸の異教世界を侵略し、異教の神々を冒涜し、異教徒を殺戮し、異教文明を破壊したことは誰でも知っています。しかし「東洋の使徒」フランシスコ・ザビエルに始まる、アジアの多神教文明圏での福音宣教は様相が異なります。

 16世紀末に中国宣教を開始したイエズス会は、中華思想に固まる中国人に布教するため、画期的な「適応」政策を編み出します。現地語を学び、現地の習俗、習慣を積極的に採り入れ、絶対神デウスを中国流に「天」「上帝」と表現し、中国皇帝による国家儀礼や孔子崇拝、祖先崇拝の儀礼に参加することをも認めました。

 この新しい布教戦略は功を奏し、イエズス会士は宮廷の高級官僚となり、信者は増え、1692年にはキリスト教は公許されました。

 しかし「適応」政策は、その成功ゆえに、遅れてやってきた他の修道会の反感を買い、修道会同士の対立抗争を招き、孔子崇拝の儀礼参加の是非をめぐってバチカンで典礼論争が巻き起こります。結局、論争に破れたイエズス会は解散させられますが、20世紀になって適応主義は蘇り、日本では1936年に靖国参拝が認められ、中国では39年に孔子廟での儀式参加が許されました(矢沢利彦『中国とキリスト教』近藤出版社、1972年など)。

 異教儀礼に参加することは許されるのか。これは、唯一神を信じるキリスト者にとって大きな信仰問題ですが、数百年の歴史を経て、そして上智大学生事件をめぐる騒動を機に、教会は異教施設での信徒の儀礼参加について理論的な発展を見せます。つまり従来通りの、神社は宗教なのか否か、という古典的な議論から一歩も二歩も進めて、異教に由来する儀礼に参加することがキリスト者にあるまじき異教崇拝には直ちに該当しない、という画期的な公式判断が示されるのです。

▽5 非宗教的な国民儀礼として許可

 上智大学と陸軍・文部両省との間で了解が成立し、陸軍省は引き揚げていた配属将校を任命し、翌8年12月、事件は解決するのですが、このとき上智大学は在学学生諸子ご父兄各位にあてた文書で、次のように説明しています。

「昨年、不幸にして神社に対する学長の認識の不十分により、ついに神社参拝問題を惹起いたし候(そうろう)……爾後(じご)、学長においてもつまびらかに神社の本質を研究いたし候結果、神社は日本国民精神の基礎たるべき忠君愛国心の対象たり儀表たるものにして、これをいわゆる宗教と同一視せられざることを了解し……」(『上智大学史資料集 第3集』上智学院、昭和60年)

 つまり、大学側はいわゆる神社非宗教論の立場で、ホフマン学長の認識不足があったとして、問題の解決を図ったようです。

 ところが、教会は必ずしもこの立場ではありません。

 事件が持ち上がった昭和7年の暮れに発行された、のちの枢機卿・田口芳五郎師の『カトリック的国家観──神社参拝問題をめぐりて』(カトリック中央出版部)は、「そもそも神社問題は、『神社は宗教なりや否や』という本質論をめぐるものであって……」と書きつつも、一方で、宗教的礼拝と儀礼的敬礼は異なる、という別の論理を提起するのです。

 ──政府当局は、神社は宗教にあらず、という態度に終始している。もし神社が純然たる宗教的施設なら、(明治)憲法28条(信教の自由の保障)によって神社に参拝する義務はない。しかし礼拝と敬礼とは異なる。礼拝は造物主になされるが、敬礼は被造物に適用される。教会法1258条は、信者は非カトリック的宗教儀式に関与することは絶対にできぬが、忠君愛国心の表白あるいは礼儀的理由などのために、宗教儀式にも、宗教的行為をなすことなく、受け身的に参列することは黙許されている。

 つまり、神社という施設が宗教施設なのか否か、という議論ではなく、人間の行為の意味に注目し、そのうえで、宗教儀式を伴わないのであれば、神社での愛国的行為としての敬礼は教会法によって黙認されている、と解釈するのです。

 礼拝と敬礼は異なるという解釈はキリスト者ではない日本人自身も以前から自覚していたようです。それは遥拝と黙祷の違いですが、長くなるのでここではお話ししません。

 事件さなかの同年9月、シャンポン東京大司教は鳩山一郎文相宛に書簡を送り、学生らの神社の儀式への参列は愛国心と忠誠を表すものなのか、宗教に関するものか、と確認を求め、「神社参拝は教育上の理由に基づくもので、学生らの敬礼は愛国心と忠誠とを表すものにほかならない」という願い通りの文部省の回答を得ます。

 さらにバチカンは議論を深めます。

 日本の教会は、異教儀礼に由来すると思われる行為などを公的に求められたときの信者の対応についてバチカンに何度も照会し、これに応じて布教聖省は1936年の指針「祖国に対する信者のつとめ」を発し、神道的儀式への参加を許可します。

「政府によって国家神道の神社として管理されている神社において通常行われる儀式は、国家当局者によって単なる愛国心の印、すなわち皇室や国の恩人に対する尊敬の印とみなされている。……これらの儀式が単なる社会的な意味しか持っていないものになったので、信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許される」(前掲『歴史から何を学ぶか』)

 つまり、指針は、神社が宗教かどうか、という古臭い議論でもなく、宗教儀式の有無を問題にするのでもありませんでした。まず、国家神道(注。原文はラテン語ですが、バチカンのいう国家神道はおそらく神道指令的な意味とは異なるのではないかと私は考えます)の神社での国家的な儀礼と、宗教としての神道の礼拝とを区別しました。そのうえで前者の神社での儀式の意味の歴史的変化を認め、非宗教的な国民的儀礼としての靖国神社の儀礼について、信徒が参加することをバチカンは許したのです。

▽6 皇室祭祀は信教の自由を圧迫しない

 そして戦後、1951年に出されたバチカンの新しい指針は、これを追認しています。

「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく、国民儀礼と見なされてきた。日本政府は明確に言明してきたし、この数世紀間に儀式の意味は変化した。だから靖国参拝は許可され、教皇特使ドハーティ枢機卿は(昭和12年に)参拝したのだ」(西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』サンパウロ、2000年)

 このように、カトリックは数百年の間に教義を発展させ、異教的伝統文化の尊重をうたうとともに、異教の宗教伝統から生まれた国家的、あるいは国民的な儀礼に参加することが、みずからの一神教信仰に反しないということを公的に認めているのです。

 だとすれば、皇室の祭祀が、たとえば御大喪や即位大嘗祭という国家的儀礼が、たとえ神道的、あるいは異教的な儀礼であったとしても、むろん国事として行われたとしても、それに信徒(政府高官としても、一般国民としても)が参加することが信徒の一神教信仰を侵すことにはならない。つまり、信教の自由を侵さない。したがって、政教分離問題を生じさせない、ということになります。

 これはカトリックが長い世界宣教の歴史の末に到達した優れた知恵というべきです。

 一神教的な対立と排除の論理を原理主義的に貫けば、宗教戦争は避けられません。異教を敵視し、その神を拝せず、という攻撃的で頑なな態度なら、宗教間対話は成り立ちません。神社が宗教か否かという議論はひとまず置くとして、参拝や拝礼と表敬とは異なるのであり、カトリックはかつて異教文明を侵略、破壊した悲しむべき歴史を悔い改め、宗教的共存の道を見出したのだと思います。

 靖国参拝を認めた1936年の指針は、「諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない」と宣言した第2バチカン公会議(1962〜65年)の精神を先取りするものといえます。

▽7 多宗教化する一神教世界

 異教文化の容認のみならず、一神教世界の多宗教化ともいうべき現象も起きています。

 たとえば先述したアメリカ同時多発テロ直後の追悼ミサが行われたワシントン・ナショナル・カテドラルは、カトリックではなく、イングランド教会(イギリス聖公会)を母教会とするアメリカ聖公会の聖堂ですが、ミサではキリスト教だけではない、諸宗教の代表者が参加し、諸宗教の祈りが捧げられました。

 同様のことは、イギリスやオーストラリアの公的追悼行事でも行われています。

 異教世界の侵略に血道を上げた大航海時代には考えられなかったような多宗教化の理由は、2つ考えられます。

 1つは地球が狭くなったことです。一神教の世界宣教が異教世界に対する侵略をもたらすことは明らかです。一神教への改宗は在来信仰を捨てることにほかならず、宗教間の対立は避けられないからです。大航海時代のように世界が無限の広さを持っていた時代ならまだしも、いまや地球は小さな金魚鉢です。まともな人間なら、誰が血生臭い宗教戦争を望むでしょう。

 もう1つの理由は、キリスト教自身の多神教性、多宗教性です。詳述しませんが、クリスマスや復活祭を見れば、キリスト教がけっして教科書的な一神教ではなく、古代ローマやケルトの宗教と習合し、多宗教的世界を作り上げてきたことが分かります。クリスマスは明らかにキリスト教以前の冬至の祭り、つまり異教の自然崇拝が原形です。異教を徹底して排除することはキリスト教自身の豊かな歴史を否定することにつながります。

 ただ、日本のキリスト者がこのような教会史の流れを理解しているかどうかは別です。

▽8 宗教的共存こそ天皇の原理

 異教文化の容認や多宗教化現象は、一神教を信仰するキリスト教文明圏ではつい最近、目立つようになったできごとですが、日本という多神教的、多宗教的文明圏では、古代から当たり前のこととして行われています。キリスト教文明圏の方がはるかに遅れているのです。

 たとえば、お近くの氏神様の境内を眺めてみてください。八幡神社だとすれば、正面の社殿には八幡様が祀られている。しかし境内にはたぶん、天神様や稲荷神社などの祠(ほこら)もたくさん並んでいるはずです。

 神社とひとくちに言っても、自然崇拝もあれば、稲作信仰もある。皇室崇拝も、義人信仰もあります。キリスト教から見れば、一つの宗教かもしれませんが、そのように断定するにはあまりに多様な、異なる信仰が一つの境内に共存しています。

 境内の外に目を転じれば、古代朝鮮の遺民が建てた古社もあれば、仏僧を祀る神社もあります。キリシタンの神社さえあります。いずれもみな、れっきとした神社です。

 キリスト教世界のように血で血を洗うような宗教戦争を経験することなく、このような宗教的共存が成り立ってきたのは、その中心に天皇の私なき祈りがあるからです。

 仏教導入に積極的な役割を果たしたのが皇室であり、天皇が創建した古刹(こさつ)も少なくありません。皇室こそ海外文化受容のセンターでした。近代になると、皇室はキリスト教の社会事業を深く理解され、支援されました。昭和7年の上智大学生靖国神社参拝事件を一気に解決させたのは、宮様師団長の鶴の一声だったといわれます。

 国民の信教の自由を制度的に保障するため、宗教的中立性を国家に要求するのが近代の政教分離原則ですが、国民をみなひとしく赤子(せきし)と考え、私なき公正な立場で、「国平らかに、民安かれ」と祭祀を続けてこられたのが皇室の伝統です。

▽9 「参列を強制しない」で十分

 絶対分離主義者は、天皇の祭祀は神道儀礼であるから、国の儀礼と認めれば、国が宗教的活動をすることになり、神道を優遇し、逆に他宗教を抑圧することになる、と主張しますが、誤りです。

 地域共同体を信仰の母体とする神道にはもともと布教の概念がないし、宮中祭祀はあくまで儀式であって、信者拡大の意図がありません。皇室は宗教団体ではありません。国民の信教の自由を圧迫しようがないのです。天皇の祭祀は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法20条3項)という場合の「宗教的活動」には当たりません。

 もし宮中祭祀が神道を優遇し、政教分離に違反すると本気で考え、厳格主義を主張するのなら、天皇が仏教寺院に勅使を差遣(さけん)されることにも、教会で行われる教皇の追悼ミサに皇族が参列されることにも、抗議の声を上げなければなりませんが、そのような原理主義は誰も支持しないでしょう。

 ローマ教皇ベネディクト16世が、2年前、和解のためにトルコのブルーモスクを表敬し、崇高な祈りを捧げられたことは、世界の多くの共感を呼びましたが、日本の天皇は異なる多様な宗教への敬意を1000年以上も前から示してこられました。

 仏教に帰依した天皇さえおられますが、それでも「神事を先にす」という「禁中の作法」が守られてきました。仏教の守護者ではあっても、一神教的な布教者ではありません。

 昭和天皇の大喪の礼で、「神道色が強い」などと、鳥居や大真榊を撤去されたことがいかに形式論的で、事なかれ主義だったか、そして意味のないことだったか。憲法の政教分離原則を強調し、皇室の祭祀に政府が干渉し、改変を迫ることの方が、歴史と伝統の破壊であって、許されることではありません。

 国民の信教の自由を大らかに保障し、宗教的共存を実現させてきた天皇の制度を再認識すべきです。原教授が主張するような宮中祭祀廃止論はまったくの論外です。

 要するに、宮中祭祀への参列を強制しない。それで十分です。祭祀は人の魂を揺さぶるほど宗教的であるべきです。宗教性を排除すべきではありません。ただし、天皇の祭祀を「皇室の私事」と位置づける現行憲法の矛盾は改められるべきでしょう。

▽10 「祭祀の調整」を表明した宮内庁

 最後になりましたが、宮中祭祀の現状を見ると、どうやら、戦後の祭祀破壊の張本人と目される入江相政侍従長のころとほとんど変わらない、嘆かわしい状況が続いているようです。

 たとえば、昭和58年の富田朝彦・宮内庁長官宛の渋川謙一・神社本庁事務局長の質問書は、建国記念の日が法制化されたのにもかかわらず、紀元節祭が復活していない、と迫りましたが、戦前の皇室祭祀令では大祭と位置づけられていた紀元節祭は、宮内庁ホームページの「主要祭儀一覧」にはいまも掲載がありません。
http://www.kunaicho.go.jp/04/d04-01-03.html

 「平成20年の祭祀のお出まし一覧」にも、祭儀名としての記載がありません。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/taiou-h200321-1.html

 ただ、「天皇皇后両陛下のご日程」のページに、「平成20年2月11日、天皇陛下、賢所仮殿御拝」と記述されていることが確認されます。
http://www.kunaicho.go.jp/dounittei/gonittei-1-2008-1.html

 宮内庁は紀元節祭とは認識していないけれども、陛下は祭日とお考えになり、親拝されているのでしょう。昭和天皇がそうだったように、今上陛下もまた、たったお一人で、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、祭祀の伝統を守ろうとされているものと拝察します。

 原教授は、月刊「現代」5月号の論考で、「現天皇の宮中祭祀に対する思い入れは並々ならぬものがあります」と書いていますが、むろんこれは天皇個人のお考えに帰すべきではありません。

 天皇の御位(みくらい)は皇祖の神勅に由来し、皇祖の神意に基づきます。順徳天皇の「禁秘抄」(1221年)に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事をあとにす」とあるように、国と民のために祈ることが皇室の伝統なのです。したがって、祭祀の簡略化や改変、いわんや廃止論に陛下が与(くみ)するはずはありません。

 しかし改変はふたたび現実になりそうです。この3月、宮内庁は、今上陛下のご高齢とご健康問題を理由として、「祭祀の態様について所用の調整を行う」ことを表明しています。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/gokenkou-h200324.html

 すでに何度も申し上げましたように、陛下の親祭、親拝がご無理なら、大祭なら皇族または掌典長による祭典の執行、小祭なら皇族もしくは侍従による御代拝に代えるという伝統的な方法があります。祭祀の主体はあくまで陛下ご自身です。昭和天皇の晩年に側近らが祭祀の簡略化と称して、越権的に介入し、改変・破壊を進めた愚策が繰り返されないことを願いたいと思います。

▽11 最後に原武史教授へ

 締めくくりに、原武史教授にひと言申し上げます。

 教授は『昭和天皇』(岩波新書、2008年)のあとがきで、「学問の傲慢(ごうまん)さ」に言及しています。執筆に際して、もっとも大きなインスピレーションを得たのは松本清張だったと告白したうえで、学者がいちばん史料を集め、読んでいると考えるのは思い上がりだ。アカデミズムは小説家や在野の歴史家から何を学んできたか、と批判しています。

 まったく仰せの通りですが、そのことは教授にも、そして私にも当てはまります。天皇の制度にしても、宮中祭祀にしても、日本の歴史とともに古く、それだけ奥が深いものです。また自然発生的なものですから、文字に表された資料だけでものをいうこともできません。事件記者が人一倍多くの取材を重ねた結果、事件の核心に迫れるとは限らないのと同じように、資料を渉猟しても本質をとらえられるという保証はありません。したがってどのような分野にも共通することですが、優れた研究者ほど、謙虚です。私たちもその謙虚さを学ぶべきではないでしょうか。今後の研究のご発展をご期待申し上げます。

 そして読者の皆さま、つたない、長々とした文章を辛抱して読んでいただき、ありがとうございました。私の知識と力量ではこの程度のことしか書けませんが、当メルマガに2000人を優に超える方々が読者登録してくださったことは感謝以外の何ものでもありません。あつくお礼を申し上げます。

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