皇位継承者の資格を誰が判断するのか──西尾幹二先生の東宮批判を批判する [西尾幹二天皇論]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です
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皇位継承者の資格を誰が判断するのか
──西尾幹二先生の東宮批判を批判する
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西尾幹二先生の東宮批判に対する検証を続けます。今号は「WiLL」8月号の論考を取り上げます。
▽天皇の「特別性」
西尾先生の論考は、天皇が隔絶した、特別の存在である、という指摘から始まります。その特別性は精神的特別性であり、国民共同体の中心であるという特別性です。
歴代天皇は民を思い、民を歌に詠まれた。今上陛下は歴代天皇ほどではないにしても、社会に高くそびえる位置に座しておられる。これは両陛下のご努力などに負うところが大きい、と論を進めたあと、それに比べて皇太子ご夫妻は「民を思う心」を育まれていないようには思えない、と先生は批判を加えています。
また、故・会田雄次氏の発言を引用し、日本の皇室は畏敬されるという側面が非常に重要であるのに、国民と皇室の距離が動き、世代交代のたびに威厳を失っていくことについて、先生は憂慮しています。
つまり、国民の中心に天皇がおられ、慈しみと慮りの心を注いでおられる、という古代からのリアルな実感が失われているのではないか、と先生は心配しています。
とくに、一般社会から皇室に入られた妃殿下の場合は、徳を求められても、尊敬以外に見返りが乏しいことに共感できないのではないか、とも書いています。
そのように先生が考えるのは、先生の表現に従えば、天皇と国民との関係性が天皇そのものだ、と理解するからです。であればこそ、最大の問題は、悠仁親王殿下に「特別性」を身につけていただくための帝王学だという議論も導かれます。
▽神々の不在
しかしそうではないだろう、と私は考えています。
まず一点目。もうすでにお話ししたように、「神は死んだ」と宣言したニーチェの研究者だからということかどうかは分かりませんが、先生の天皇論には神々が欠落しています。
これは重要なことだと私は思います。先生は「国民共同体の中心」としての天皇について冒頭から力説していますが、それは先生自身が「精神的」と指摘されているように、単に疎開先でイナゴを食べたというような実社会で生活体験を共有しているというレベルを超えたところのものなのだと思います。
天皇が国民と共にあるのは精神のレベルにおいてであり、それは国民と命を共有しようとする神人共食の祭祀に由来します。神々を抜きにして特別性はあり得ないのに、先生の議論には神々がいません。
実社会のレベルのみで議論することは、皇太子・同妃両殿下は格差社会の救世主になるべきだ、と訴えた原武史教授の宮中祭祀廃止論と同じになってしまいます。
第2点目として、皇室が国民から畏敬される存在であることは望ましいことですが、たとえば武烈天皇のように「性質が荒々しく、あらゆる悪行を重ねた」という天皇もおられます。それでも天皇は天皇なのです。
また、天皇は肉体を持った個人ではなく、歴史的存在であり、個人崇拝の対象ではありません。天皇個人が、ましてや皇太子両殿下が畏敬される存在であるかどうかは、皇位の本質とは関係がありません。
皇位の本質とは「国平らかに、民安かれ」と祈る祭祀にあります。したがって天皇の帝王学として書道や国史、西洋史などを学ぶことより、祭祀の整備が求められます。
先生が指摘するように、皇太子妃殿下が祭祀に「いっさい参加していない」のは、すでに当メルマガが何度も書いてきたように、妃殿下の問題というより、誤った政教分離の観点から御代拝の制度を廃止してしまった宮内官僚たちの責任です。
▽皇祖神の神意
先生は、皇室がわが国と国の民の守り神であることへの国民の宗教的信仰心がまずあり、民を思う天皇の「無私の精神」と相まって「公」が成り立つのであって、どちらか一方が欠けてもうまくいかない、とおっしゃるのですが、そうではありません。
まず最初にあるのは、国民の信仰ではなくて、皇祖神の意思です。「公」を成り立たせているのは民の信仰と天皇の意思である、というのではなくて、皇位を成立させているのは皇祖神の意思と天皇の祭祀と国民の崇敬心です。とりわけ重要なのは皇祖神の神意です。
したがって、先生がおっしゃるように、皇太子ご夫妻に慎重さと努力が足りないことは明らかだから、国民の心は天皇家から離れていく、とにわかに結論づけることはできません。
繰り返しになりますが、先生の天皇論には神々がいません。先生が考える国民の信仰もいわば地上の信仰であって、だから両殿下の人間的振る舞いに心が左右されるのです。東宮批判が一面的になる所以です。
皇位を継承するにはそれだけの資格が必要であることはいうまでもないことですが、資格の有無は皇祖神をさしおいて民が判断することではないし、判断するまでもないことでしょう。
次号では、9月号の論考を取り上げ、論点をあらためて整理したいと思います。
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皇位継承者の資格を誰が判断するのか
──西尾幹二先生の東宮批判を批判する
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西尾幹二先生の東宮批判に対する検証を続けます。今号は「WiLL」8月号の論考を取り上げます。
▽天皇の「特別性」
西尾先生の論考は、天皇が隔絶した、特別の存在である、という指摘から始まります。その特別性は精神的特別性であり、国民共同体の中心であるという特別性です。
歴代天皇は民を思い、民を歌に詠まれた。今上陛下は歴代天皇ほどではないにしても、社会に高くそびえる位置に座しておられる。これは両陛下のご努力などに負うところが大きい、と論を進めたあと、それに比べて皇太子ご夫妻は「民を思う心」を育まれていないようには思えない、と先生は批判を加えています。
また、故・会田雄次氏の発言を引用し、日本の皇室は畏敬されるという側面が非常に重要であるのに、国民と皇室の距離が動き、世代交代のたびに威厳を失っていくことについて、先生は憂慮しています。
つまり、国民の中心に天皇がおられ、慈しみと慮りの心を注いでおられる、という古代からのリアルな実感が失われているのではないか、と先生は心配しています。
とくに、一般社会から皇室に入られた妃殿下の場合は、徳を求められても、尊敬以外に見返りが乏しいことに共感できないのではないか、とも書いています。
そのように先生が考えるのは、先生の表現に従えば、天皇と国民との関係性が天皇そのものだ、と理解するからです。であればこそ、最大の問題は、悠仁親王殿下に「特別性」を身につけていただくための帝王学だという議論も導かれます。
▽神々の不在
しかしそうではないだろう、と私は考えています。
まず一点目。もうすでにお話ししたように、「神は死んだ」と宣言したニーチェの研究者だからということかどうかは分かりませんが、先生の天皇論には神々が欠落しています。
これは重要なことだと私は思います。先生は「国民共同体の中心」としての天皇について冒頭から力説していますが、それは先生自身が「精神的」と指摘されているように、単に疎開先でイナゴを食べたというような実社会で生活体験を共有しているというレベルを超えたところのものなのだと思います。
天皇が国民と共にあるのは精神のレベルにおいてであり、それは国民と命を共有しようとする神人共食の祭祀に由来します。神々を抜きにして特別性はあり得ないのに、先生の議論には神々がいません。
実社会のレベルのみで議論することは、皇太子・同妃両殿下は格差社会の救世主になるべきだ、と訴えた原武史教授の宮中祭祀廃止論と同じになってしまいます。
第2点目として、皇室が国民から畏敬される存在であることは望ましいことですが、たとえば武烈天皇のように「性質が荒々しく、あらゆる悪行を重ねた」という天皇もおられます。それでも天皇は天皇なのです。
また、天皇は肉体を持った個人ではなく、歴史的存在であり、個人崇拝の対象ではありません。天皇個人が、ましてや皇太子両殿下が畏敬される存在であるかどうかは、皇位の本質とは関係がありません。
皇位の本質とは「国平らかに、民安かれ」と祈る祭祀にあります。したがって天皇の帝王学として書道や国史、西洋史などを学ぶことより、祭祀の整備が求められます。
先生が指摘するように、皇太子妃殿下が祭祀に「いっさい参加していない」のは、すでに当メルマガが何度も書いてきたように、妃殿下の問題というより、誤った政教分離の観点から御代拝の制度を廃止してしまった宮内官僚たちの責任です。
▽皇祖神の神意
先生は、皇室がわが国と国の民の守り神であることへの国民の宗教的信仰心がまずあり、民を思う天皇の「無私の精神」と相まって「公」が成り立つのであって、どちらか一方が欠けてもうまくいかない、とおっしゃるのですが、そうではありません。
まず最初にあるのは、国民の信仰ではなくて、皇祖神の意思です。「公」を成り立たせているのは民の信仰と天皇の意思である、というのではなくて、皇位を成立させているのは皇祖神の意思と天皇の祭祀と国民の崇敬心です。とりわけ重要なのは皇祖神の神意です。
したがって、先生がおっしゃるように、皇太子ご夫妻に慎重さと努力が足りないことは明らかだから、国民の心は天皇家から離れていく、とにわかに結論づけることはできません。
繰り返しになりますが、先生の天皇論には神々がいません。先生が考える国民の信仰もいわば地上の信仰であって、だから両殿下の人間的振る舞いに心が左右されるのです。東宮批判が一面的になる所以です。
皇位を継承するにはそれだけの資格が必要であることはいうまでもないことですが、資格の有無は皇祖神をさしおいて民が判断することではないし、判断するまでもないことでしょう。
次号では、9月号の論考を取り上げ、論点をあらためて整理したいと思います。
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