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1 祭祀の本質を語らない西尾先生 [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 1 祭祀の本質を語らない西尾先生
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 西尾幹二先生が雑誌「WiLL」誌上に発表した東宮批判がさらに波紋を呼んでいるようです。当メルマガはこれを先々月から検証してきましたが、今号もこの作業を続けます。

 西尾先生は同誌10月号に「皇太子さまへの御忠言、言い残したこと」を書いています。「言い残したこと」というのは「皇太子殿下のご発言に対する最初の疑問」、つまり、「ご成婚時に雅子さんが殿下のお言葉として挙げられた、あの有名な『一生かけて僕が全力で雅子さんをお守りします』のこと」です。

 先生は指摘します。殿下は無疑問に高い位置にあられるということを教えられないできた。「敵」の存在を意識してお育ちになった。きちんとした帝王教育を受けていない。しかも、妃殿下にコントロールされているのではないか。もはや国民が安心していられない限界点を超えられているのではないか。「人格の否定」発言の瞬間に、である……。


▽1 相矛盾する価値を追求

「お守りする」発言が不適切であるとの指摘は、同意できないわけではありません。

 以前、書いたように、ご結婚のとき「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りします」と語られたという皇太子殿下は、良き夫、良き父親になろうとし、良き家庭を築こうとされておられるようです。

「天皇に私なし」という伝統からすれば、マイホームを志向されればされるほど、かえって皇室の伝統的価値から遠ざかっていくことになるという危惧はもっともです。けれども、家庭の崩壊が指摘される現代において、東宮が社会の模範となることは価値あることでもあります。

 乳人(めのと)制度を破って、最初に母乳で子育てを始められたのは香淳皇后といわれます。戦後になって、皇后陛下(当時は皇太子妃)がはじめてお手元で子育てをされました。当時の皇太子殿下(今上陛下)は「親兄弟と離れて暮らすことは寂しい。自分の子供は手元に置いて育てたい」とご学友にしみじみ語られたようです(『天皇』宮廷記者会、昭和30年)。

 皇族が古来、親族の葬列に加わることを避けてこられたのは、公に徹されてきたことの証明ですが、今日ではそれとは相矛盾する私的価値をも追求しなければならない、という苦悩と葛藤を抱えているということではないかと私は思います。

 だとすれば、「お守りする」発言を「勘違い」と一概に断定することはできません。西尾先生の批判は一面的といわざるを得ません。


▽2 君徳は祭祀によって磨かれる

「お守りする」発言が、「お気の毒に一般民衆と同じように、早くから国内の『敵』の存在を意識してお育ちになったのではないか」という疑念を感じさせるという指摘も一面的です。

 なるほど「仁者無敵」「天皇無敵」といわれますが、「敵」を意識せざるを得なかった天皇は少なくありません。たとえば、下剋上の最終段階で朝廷をも従わせようとした徳川三代と熾烈な攻防を演じざるを得なかった後水尾天皇はその典型と思われます。

 その苦難の生涯については以前書きましたので、ここでは繰り返しませんが、その後水尾天皇が後年においてはさすがに円熟され、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践し、皇室の尊厳を守られました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/tennou/H140311JSgomizunoo.html

 つまり、西尾先生が強調する君徳とは最初から備わっているものではありません。はじめから「公正無私」なる存在なのではなくして、「無私」「無敵」なる理想に近づこうと不断の努力をされている、というのが重要なのだと思います。

 であればこそ、先生は帝王学の教育が必要だと指摘されるのでしょうが、そうではないと私は思います。

 第1に、天皇もしくは皇太子に、誰が帝王学を授けるのでしょうか。いったい何を教えるのでしょうか。具体論になると、先生が指摘するように、「戦後日本の教育」という現状では実現可能性を疑わざるを得ません。

 第2に、もっと大切なことは、天皇の無私なるお立場は皇祖神の神意に基づくものであり、天皇の徳というものは祭祀によって磨かれます。したがって求められているのは、帝王学の教育ではなくて、現行憲法下、側近らによって改変されてきた宮中祭祀の正常化です。


▽3 むしろ国民に対する啓発を

 先生が批判しているのは、目に見え得る部分の皇室です。しかし皇室にとってもっとも本質的なことは、「およそ禁中の作法は神事を先にす」(順徳天皇「禁秘抄」)という祭祀の厳修であり、それは人が見ていないところで行われます。

 先生が指摘するように、現代はメディアの時代であり、「現実には道徳とか人格といった人間的尺度によって制度が支えられてきた一面がきわめて大きかった」とするなら、「若い皇族方が置かれている教育環境の変革が皇室の維持のために絶対の必要」なのではなく、目に見えないところで行われている祭祀の重要性を、むしろ国民に対して啓発することが「必要」なのではないでしょうか。

 西尾先生は、皇太子妃殿下が平成15年以降、「祭祀にいっさいご出席ではない」と何度も批判しています。昭和50年代以降、側近らによって皇后、皇太子、同妃の御代拝の制度が廃止されたというのが実態で、一概に妃殿下を責め立てるべきではありませんが、それならなぜ祭祀が重要なのか、先生の論文には祭祀の本質に関する説明が見当たりません。


▽4 テレビ時代だから?

 前半生において幕府と激しく敵対せざるを得なかった後水尾天皇が、後年、後光明天皇に書き送った手紙が残されています。

「帝位にそなわっているという御心があれば、知らず知らずのうちに傲慢になり、人の言葉に耳を傾けなくなるものだから、十分に気をつけて、慎むことが肝要である」とつづり、さらに「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事」と、順徳天皇を引用して、天皇のもっとも重要なお務めは神事であることを明記されています。

「世はテレビ時代」だから、といって、皇位の本質を変えるのは本末転倒です。「勘違い」しているのは果たして殿下でしょうか。

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