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「杜撰」と批判する「杜撰」──西尾論文批判の続き [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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「杜撰」と批判する「杜撰」
──西尾論文批判の続き
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 今週も西尾幹二論文批判を続けます。今回は目下発売中の「正論」10月号に掲載されている松原正・早稲田大学名誉教授による西尾批判を取り上げます。

 松原先生は、西尾先生の「皇室論」を「杜撰(ずさん)」と斬り捨てています。西尾論文だけでなく、その矛先は杜撰さに眉をひそめることのない読者にも向けられ、「私にとってそれがまず意外であった」と言いきっています。

 松原論文の結論は、いかなる批判を受けようとも、日本が日本である限り、「天皇制」はなくならない、ということのようです。

 古代においては天皇を暗殺するような権力者がいたが、いまはいない。西尾が雅子妃への不平不満を述べ立てても、皇太子や雅子妃に迷惑がおよぶことはないし、皇太子が妃殿下を批判したり、両陛下が妃殿下をとがめ立てしない限り、妃殿下が困惑することもない。それが西尾論文の最大の弱点だ──と松原先生は強く主張します。

 しかし、正直に言えば、私は、松原先生の批判が何のことか、まったく理解できません。西尾先生の論文を「杜撰」「粗雑」ときびしく論難するだけでは、それこそ「杜撰」な批判といわざるを得ません。

 まず「その杜撰にだれ一人眉をひそめる者がない」と断定してしまうのは、まったく「粗雑」というほかはありません。「ない」という証明は誰にもできません。


▽1 中身がない

 西尾、松原両先生は、天皇あるいは天皇制をどう考えるのか、を比較検討してみます。

 西尾論文は、東宮批判の前提として、両殿下がお二人で皇位を継承するかのような、いわば一夫一婦天皇制論が考えられています。皇位は世襲であると指摘する一方で、天皇には徳が求められると主張し、妃殿下にまで徳を要求しています。

 さらに、肉体をもった個人のレベルで天皇を批評し、皇祖神の神意に基づき、祭祀を行うことをお務めとする天皇の御位へのまなざしを失っているという大きな誤りを犯しているのですが、これに対して、松原論文の批判はどうかといえば、天皇は政治主義とは無縁の永続的な価値を有する、天皇制は日本最古の制度である、というばかりで、それ以上の中身がありません。

 これでは単なる口論であって、知識人による議論とはいえません。議論がまったくかみ合っていないのです。

「いい加減な物書き」などと口汚く罵るのではない、建設的な議論はできないものでしょうか。

 唯一、松原論文に価値を見出せるのは、ご成婚以前とご成婚後の雅子妃殿下の違いについて言及していることです。ご結婚前は「軽佻浮薄」が認められるかもしれないが、いまも続いているとはとうてい思えない、と論文は指摘しています。人は変わり得るし、成長します。当然のことです。


▽2 「荒唐無稽」な批判

「天皇無敵」といわれますが、皇室の戦後史を振り返るとき、私は「敵」を強烈に意識せざるを得なかった後水尾天皇の生涯を思い起こします。

 大阪府島本町の古社・水無瀬神宮に、後水尾天皇の宸筆(しんぴつ)が残されています。

 この地にはその昔、後鳥羽天皇の別宮があり、天皇は行幸のおり、「見渡せば山もと霞む水無瀬川 夕べは秋となにおもひけむ」とお読みになりました

 その後、天皇は北条氏の横暴ぶりを憎まれて挙兵し、失敗されて隠岐に遠流(おんる)となられ、やがてこの地に後鳥羽天皇をまつる御影堂が建てられました。

 それから400年後、「歌聖」と称えられる後鳥羽天皇に心を寄せられ、水無瀬の地を訪れた後水尾天皇は、求められるままにこのお歌を宸翰(しんかん)されたのですが、最後の「けむ」を「剣(けん)」とお書きになりました。

 軍事に関することを避けられるのが天皇の帝王学ですから、これはただならないことでした。後水尾天皇は後鳥羽天皇にご自身の姿を投影し、下剋上の最終段階にあって、朝廷をも従えようとした徳川三代と、目には見えない剣で激闘されていたものと思われます。

 しかし後年になると、後水尾天皇は円熟の境地に立たれ、争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、天皇統治の本質を武の覇者である徳川氏に示され、皇室の尊厳を守られました。

 そのような心境は祭祀によって磨かれます。後水尾天皇が後光明天皇に書き送った手紙にこう書いてあります。

「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事……」

 松原先生は「西尾のいう『(妃殿下が)祭場に立ち入らない義務の不履行』は平成15年以来のことに過ぎず、しかも皇太子がそれを承認しておられるのだから、『日教組の教師が卒業式で君が代を歌うことを拒否するように、高度に宗教的で古式豊かな宮中の密儀秘祭に反発し、受け付けないのではないか』という西尾の疑念は荒唐無稽である」と批判しています。

 当メルマガの読者はもうすでにご存じのはずですが、妃殿下の御拝礼のことは御代拝の制度が側近によって廃止されたことに問題があるのであり、皇太子殿下が承認しているとも思えません。したがって「荒唐無稽」という批判は、けっして西尾先生だけに向けられません。

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