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皇太子妃殿下の苦しみ [西尾幹二天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 皇太子妃殿下の苦しみ
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 先々週、収録のチャンネル桜「桜プロジェクト」で宮中祭祀についてお話ししましたが、けっこう皆さんの関心が高いようで、おかげさまで、目下、アクセスランキング15位に位置しています。
http://www.so-tv.jp/main/top.do

 この調子で今度出る本も話題になってくれれば、と願っています。

 その本ですが、いよいよ初校ゲラが出て、校正が始まる段階になりました。このメルマガの読者の皆さんに少し中身をお知らせすると、序章をふくめて以下のような11章立てになっています。

序章 稲作をなさる世界で唯一の君主
第1章 繰り返される? 祭祀の形骸化 
第2章 側近たちが破壊した宮中祭祀
第3章 裏切られた神道人の至情
第4章 明らかな神道差別の背景
第5章 政教分離はキリスト教問題である
第6章 宗教的共存こそ天皇の原理
第7章 多様な国民を多様なままに統合する祭祀
第8章 女系は万世一系を侵す
第9章 参考にならないヨーロッパの女帝容認論
第10章 的外れな東宮への要求

 タイトルは『失ってはならない天皇のまつり(仮題)』を予定していますが、決定ではありません。もう少しインパクトのあるタイトルはないか思案中です。最終的に決まりましたら、またお知らせします。


▽1 イギリスの戦没者追悼記念日
koukyo01.gif
 さて、先月末、イギリスのチャールズ皇太子が来日しました。今年が日英修好通商条約の締結から150年に当たるのを機に、とのことでしたが、戦没者への感謝をあらわす真っ赤なポピーの造花が上着の左胸にあしらわれていたのをご記憶でしょうか。

 戦没者を悼(いた)む日といえば、日本では8月15日の終戦記念日で、政府主催の追悼式が両陛下御臨席のもと行われ、1分間の黙祷が捧げられますが、イギリスではまさに今日、11月11日になっています。第一次世界大戦の休戦協定発効が1918年11月11日の午前11時だったことから、この日が「戦没者追悼記念日(Remembrance day)」と定められたのです。

 現在は、この日に近い日曜日が Remembrance Sundayとされ、ロンドンの官庁街にそびえる戦没者追悼記念碑セノタフを会場に、国王エリザベス二世や政府首脳、数千人の退役軍人、宗教関係者などがポピーの造花を胸に参列し、二度の大戦と湾岸戦争などで落命した戦没者の追悼式典が催され、そして午前11時を期して、1分間の黙祷ならぬ、2分間の沈黙の祈り(the two minute silence)が国をあげて捧げられます。

 もともと2分間の沈黙は、第一次世界大戦休戦一周年の1919(大正8)年11月11日、国王ジョージ5世の呼びかけで始まりました。2年後には、アメリカで「二分間の黙祷」(Two-Minute Silent Prayer)が捧げられます。ワシントン軍縮会議開会の前日に当たる11月11日、アーリントン墓地で無名戦士の埋葬式があり、正午を期して、ハーディング大統領の要請による黙祷が全米で捧げられたのです。同じ日、ジュネーブで開催された国際労働機関の総会でも沈黙の祈りが行われたと伝えられてい ます。

 7つの海を支配する大英帝国に始まった黙祷は、世界大戦後、大国にのし上がったアメリカに伝わり、さらに国際連盟成立という新しい世界の動きの中で国際慣例化したものと私は考えています。そして日本では関東大震災後、この儀礼が導入されました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html


▽2 戦没者追悼の意思を表すポピーの造花

 それならあの真っ赤なポピーにはどんな歴史があるのでしょうか?

 調べてみると、イギリスの休戦記念日にポピーの花が登場するようになったのは、1921年のようです。

 1921年11月12日付タイムズ紙は、休戦3周年に当たる前日の休戦記念日の風景を、とくにセノタフとウエストミンスター寺院の様子を、9枚の写真入りで大きく報道しました。

 ひときわ大きな写真は無名戦士の墓を中心に多くの参列者が集まっているウエストミンスター寺院の光景で、ほかに花環を手に集まった人々で立錐(りっすい)の余地もないセノタフや、トラファルガー広場で「2分間の沈黙」を捧げる群衆の写真なども掲載されています。このうちセノタフでは宗教的感動の場面が繰り広げられたことが、以下のように伝えられています。

 ──11時前、国王ご夫妻以下、王族の花環が代理の手でセノタフに捧げられた。それぞれの花環をひときわ際立たせていたのは、フランスのフランダース地方で咲いていた深紅のポピーの花であった。チャーチル首相やほかの閣僚はみずからの手で花環を捧げた。やがてウエストミンスターのチャイムが追憶の時を知らせた。静寂はさらに深まった。感謝と追憶の捧げものをするため集ってきた大群衆だが、物音ひとつしない。ハンカチとセノタフの旗だけが動いている。突然の花火が呪文を解いた。近衛連隊のバンドが讃美歌「神、わが助けぞ、わが望みぞ」を演奏し、立錐の余地もないほどに詰めかけた大群衆が歌い出した。

 イギリスでは戦没者追悼記念日は別名「ポピーの日(Poppy Day)」といわれますが、国中がポピーの花で覆われるようになったのはこの年が最初です。以来、ポピーは戦没者追悼の意思を表明し、追悼記念日にセノタフに捧げる花として欠かせなくなりました。

 イギリス大使館やBBCのホームページによると、真っ赤なポピーは西ヨーロッパの荒れた大地に自然に生える生命力の旺盛な植物のようです。何千人もの兵士たちが命を失った激戦地、現在のベルギー北部、フランダース地方の荒野に群生していたのがこの花でした。

 同年11月8日付「タイムズ」紙の「フランダースのポピー」と題する記事によると、フランスやフランダース地方、ダーダネルス海峡、イタリア、メソポタミア、アフリカで失われた100万の命を記憶するため、絹や木綿製の「フランダースのポピー」が上着やドレスを飾ることになったのだそうです。その運動を組織したのはロード卿基金でした。ロード卿の基金は英霊の追憶と傷ついた退役軍人の支援を目的に設立、運営されたといわれます。


▽3 皇室には自由がない?

 さて、長々とイギリスの歴史を書いてしまいました。これには理由があります。これまでこのメルマガでこれまた長々と書いている西尾幹二・電通大学名誉教授の東宮批判と関連性があるからです。

「諸君!」12月号に掲載された西尾先生の記事によると、先生の揚言は典型的な2種類の反応を呼び起こした、といいます。1つは、皇太子同妃両殿下にもっと自由を与えるべきだ、さらに古めかしい宮中祭祀などはやめるべきだ、という自由派の反応、もう1つは、皇室にもの申すのは不敬の極みで許されない、とする伝統派の反応でした。

 いずれの反応も東宮家の危機をいっさい考慮に入れていない点で一致している、現実より自分たちのイデオロギーを優先する傍観者だ、と先生は批判しています。

 それなら「現実」とは何でしょうか? 自由派が考えているらしい、皇室には自由がない、というようなことでしょうか?


▽4 街中で黙祷された皇族

 死者を追悼する国民儀礼としての2分間の沈黙はイギリスのジョージ5世の呼びかけに始まりましたが、日本で死者に「黙祷」が捧げられるようになったのは関東大震災1周年のときで、そのようにさせたのはどうやら摂政の地位にあった昭和天皇のようです。

 当時の新聞をめくると、官民の記念事業協議会が決めたのはきわめて非宗教的な「2分間の黙想反省」でしたが、マスコミはなぜかこれを宗教的な語感を持つ「祈念黙想」に変えて伝えます。しかも「黙想反省」であれ、「祈念黙想」であれ、時間は「1分間」でした。それが「2分間の黙祷」に変わったきっかけは皇室です。

 震災一周年を数日後に控えた8月27日付、東京朝日新聞の夕刊は、「両陛下より花環御下賜、東宮殿下は赤坂御所で2分間御黙祷」と題する予定記事を1面トップに載せています。「当日、東宮殿下は全市黙想の午前11時58分を期して、赤坂仮御所において2分間の御黙祷を遊ばされ、各宮殿下にも御同様、黙祷遊ばされるはずである。右につき、宮内省は同時刻、鈴振をもって時刻を報じ、宮内官一同もまた黙祷することになっている」というのです。

 この日以降、新聞の報道は「黙祷」に統一されます。日本の黙祷の歴史がこうして始まったのですが、もう1つ注目したいのは当日の模様を伝える新聞記事です。皇族がなんと街中で黙祷を捧げています。

 東京朝日新聞には「時刻は来た。各工場、汽船から号笛がいっせいに鳴るとともに、あの往復激しい銀座も、電気自動車がハタと止まった。室町通りでは北白川宮妃殿下佐和子、美年子両女王は時刻とともに静かに黙祷された」とあります。

 はからずもこの時代の自由な雰囲気が伝わってきませんか。

 そういえば、関東大震災の2年前、大正10年に行われた昭和天皇(当時は皇太子)のヨーロッパ御外遊は自由な雰囲気がありました。関係者の回想によると、昭和天皇はイギリスで観劇した折、主演女優に「会いたい」と二度もおっしゃり、花束を贈るというハプニングがあり、オックスフォードの百貨店ではお1人で買い物をされたのでした。

 御外遊を機に「親愛なる皇室」という新しい皇室観が生まれたという指摘がされています。


▽5 濡れ衣まで着せられて

 今年は源氏物語千年だというので、今月1日には記念の式典が京都で開かれ、両陛下が出席されましたが、長い皇室の歴史には古典に描かれているような大らかな時代もあれば、そうでない時代もあります。まったく当たり前のことです。

 したがって、もっと多くの自由を両殿下に与えるべきだ、という自由派の意見に賛成することはできません。西尾先生のいう「妃殿下問題」の本質が、自由が制限されていることにある、とはとても思えません。

 それなら事の本質は何か?

 西尾先生の場合は、近代社会の能力主義とは異質の存在であり続けたはずの皇室に、皇太子殿下の御成婚によって「学歴主義とクロス」した。それが「軋み」の始まりだ、と指摘していますが、私はそうではないと思います。

「伝統主義とのクロス」という先生の図式を借りるなら、皇室の伝統主義と小和田家・雅子妃が体現している近代の理念の「クロス」ではなくて、祭祀を天皇第一のお務めと信じる皇室の伝統と、その価値が理解できない戦後派官僚たちの非宗教的な憲法解釈・運用とが「クロス」する板挟みの現実のなかで、妃殿下が苦しまれているということではないか、と私は思います。

 祭祀の重要さを現代的に説明してくれる人が見当たらないどころか、いまや、廃止したら、と提言する知識人もいます。皇室にとっては最重要事の祭祀が宮内庁の公式的理解ではまるで公務の付け足しのように説明されています。

 側近によるご代拝の機会さえ奪われ、しかもその挙げ句に、「雅子妃には、宮中祭祀をなさるご意思がまったくないように見受ける。というか、明確に拒否されて、すでに5年がたっている」(西尾先生の「諸君!」12月号論考)と名指しされています。

 入江侍従長ら宮内官僚が行った祭祀破壊の濡れ衣まで着せられて、精神的に苦しまれないはずはありません。


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