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2 宗教的感性を呼び覚ます必要性 [靖國神社]

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 2 宗教的感性を呼び覚ます必要性
(2009年7月7日)
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 姉が嫁いだ先の姑(しゅうとめ)さんは、すぐ上のお兄さんが戦死していて、いつか靖国神社にお詣りしたい、というのが念願でした。先月ようやく、その機会を得て、非常に感激したと感想を述べていました。都心の神社でありながら、都会の喧噪(けんそう)から隔絶された本殿の神さびた空気に魂を揺さぶられたというのです。

 私も、かつて同様の経験をしました。忘れもしない、7月のみたたまつり最終日の夕刻、ほの暗い本殿で、多くの日本人が積み重ねてきた祈りの重みが、圧倒的な力となって、迫ってきたのを覚えています。

 しかし昇殿参拝しなければ、そんな体験は最初から望めません。今年もまた「靖国の夏」が近づいてきましたが、本来、静謐なる慰霊の場である境内が、政治的、宗教的闘争の場と化している状況では、聖なる雰囲気を感じることは無理というものです。

 靖国神社だけではありません。著名神社に初詣に行けば、ほとんど流れ作業です。結婚式も同様です。私も神前結婚でしたが、アルバイト学生風の神事にありがたみは感じにくいものです。

 したがって、当メルマガが問題提起してきた宮中祭祀簡略化問題というものが理解されにくいのは無理もありません。祭祀に対する情報も知識も社会には欠けている。聖なるものに対する感覚も鈍っている。それで、どうして正常化への気運が生じるでしょうか。

 日本人の宗教的な感性を呼び覚ます必要があります。それができるのは宗教家たちです。

 何年か前のことですが、ある神社で行われた新嘗祭には感動しました。とくに感銘を受けたのは、米寿を過ぎた名誉宮司さんの玉串(たまぐし)拝礼です。ゆっくりとした身のこなしに信仰の分厚い年輪がにじみ出ていて、見ているだけで、心が洗われるようでした。背中に神様が鏡のように映し出されている、というように、私には実感されました。

 あのような祭祀に多くの人々が接することができれば、そもそも宮中祭祀簡略化問題などというものは起きるはずもないのです。

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