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1 文化部記者ではなかった橋本明さん──『平成皇室論』の「まえがき」を読む [橋本明天皇論]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年7月28日)からの転載です


 先週のメルマガ発行後、渡部亮次郎さんからメールが届きました。渡部さんは私と同じ東北のご出身で、NHK記者として長く政界を取材したあと、園田直外相の秘書官などを務めた方で、いまは「頂門の一針」メールマガジンを主宰しています。
http://www.melma.com/backnumber_108241/

 その渡部さんが拙文を転載したいと仰るのです。もちろん異論があるはずもありません。つたない文章を認めてくださったのは光栄で、より多くの方に当メルマガが読まれるのはありがたいことです。おかげさまで、読者登録もまた少し増えました。

 さて、先週は、今上陛下の級友である橋本明・元共同通信記者の「進言」を取り上げました。「週刊朝日」の記事によれば、橋本さんは、皇太子妃殿下に皇后の激務がこなせるのか、と疑問を投げかけ、一家庭人となる「廃太子」などを呼びかけています。

 これに対して、当メルマガは、問題解決より混乱を志向しているように見えるだけでなく、歴史の断絶が感じられる。天皇の本質についての理解も十分ではない、と批判しました。

 今号はその続きです。「週刊朝日」に載ったパブ記事ではなく、橋本さんの著書を実際に読んでみることにします。


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 1 文化部記者ではなかった橋本明さん
   ──『平成皇室論』の「まえがき」を読む
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▽現行憲法の抜粋から始まる
koukyo01.gif
 橋本さんの新著『平成天皇論─次の御世にむけて』で、私が最初に興味深く思ったのは、本の構成です。

 まず日本国憲法の第一章天皇の抜粋があり、近現代の皇室の系図、まえがきと続いています。本文は、第一章平成皇室と国民、第二章東宮家の軌跡、第三章明仁の「東宮」、第四章平成の天皇、第五章王権の試練、第六章近代の皇室、第七章東宮家の選択肢、の7つの章から成り立っています。

 明らかに、橋本さんの発想の出発点は現行憲法にあり、明治以後の皇室しか、念頭にないようです。第六章のはじめに、近世初期の後水尾天皇に言及しているのですが、幕末の大政奉還の説明上、たった10行、ふれているだけです。

 前号で申し上げたように、橋本さんの天皇論は千年以上続く天皇ではなく、現行憲法を起点とする象徴天皇論なのだ、と理解せざるを得ないのです。

 著書の帯には、「70年間皇室を見続けてきた」とあります。つまり、学習院初等科の時代から、さらに共同通信時代以後、ジャーナリストとして、ほとんど生涯をかけて、という意味なのでしょう。学習院の大先輩を相手にこんなことを言いたくはないのですが、取材の時間が長ければいいというものではありません。


▽滅びを歌う学習院院歌

 私が学習院大学に入学を許された最初の日、入学式で歌った「学習院院歌」には強い違和感をおぼえました。

 ♪もゆる火の火中(ほなか)に死にて
  また生(あ)るる不死鳥のごと
  破(や)れさびし廃墟の上に
  たちあがれ新学習院

 哲学者で第18代院長の安倍能成が作詞した院歌は、滅びのあとの蘇りを歌っています。占領末期の昭和26年5月に大学開設2周年の記念式典で発表されたとされます。

 実際、戦前の学習院は22年に学習院学制が廃止され、終止符を打ちました。24年に新制大学となり、26年に学校法人となりました。

 院歌ですから、幼稚園児から大学院生までみんなが歌います。私と違って、下から上がってきた学生たちはものの見事に歌いあげます。しかし「死」や「廃墟」を上手に歌えば歌うほど、私は違和感を禁じ得ませんでした。

 私の母方の祖先は奥州二本松落城の半年後に生まれています。百数十年の時を経て、形見の品が伝わっています。賊軍とさげすまれ、戊辰戦争に敗れたわが祖先は、復興への願いを心に秘めることはあっても、滅びの歌をおおっぴらに歌うようなことはなかったはずです。簡単に歴史を否定することはできないし、右から左に器用に変身などできないからです。


▽歴史的視点が乏しい共同通信史

 もっとも安倍先生はそれほど単純ではありません。話が少しずれますが、『戦後の自叙伝』(昭和34年)によると、前田多門のあと文部大臣となった安倍先生は、非難の対象となっていた教育勅語の弁護、すなわち皇室擁護を試みていたといいます。

 南原繁らは新しい教育勅語の奏請を求めていたし、ひとり共産党だけが絶対反対だった。戦争末期、アメリカでは中国の宋子文(蒋介石の義兄)が、日本皇室の抹殺を主張し、皇室がいつの時代にも日本の権威であったわけではない、と説いていた。アメリカの世論も皇室抹殺に傾いていたらしいが、進駐後、日本の実情を見た総司令部のダイク代将は新勅語の下付(かふ)を勧めたことがある、と安倍先生は書いています。

 では、共同通信はどうでしょうか。

 全国約60社の新聞社とNHKが加盟する社団法人の配信記事は、加盟紙だけでも2500万部に掲載されます。朝日、読売、毎日など全国紙が束になってもかなわないほどの媒体力です。

 前身は戦前の同盟通信です。5500名の人員を擁する当時世界最大の国策通信社で、「大本営発表」は同盟を通じて新聞、ラジオに流されました。敗戦後、自発的に解散したのは古野伊之助社長の英断ですが、実態は共同通信、時事通信への分離・分割で、通信網も人員も温存されました。

『共同通信50年史』の「第4部 前史」は同盟について30ページ以上にわたって詳述しています。しかし、戦争の時代の検証は十分とはいえません。戦前から続く大新聞も同様ですが、古傷に触れたくない、触れられたくない、ということなのでしょうか。

 学習院院歌は滅びを歌い、共同通信社史は戦争史の検証が不十分。いずれも歴史的視点が乏しいのです。


▽憲法が変わっても天皇は天皇

 同様にして、橋本さんの新著は、さすが社会部記者らしく、また外信部記者らしく、内外の情報に切り込んでいます。しかし橋本さんは文化部記者ではなかった、ということなのか、千年を超える天皇史へのまなざしがうかがえません。

 あらためて「まえがき」を読んでみます。橋本さんは冒頭、即位の大礼後、英字新聞に掲載された「憲法を守り」という記事が、I protect と訳されているのを目にした明仁天皇が、象徴天皇の実態に合わない訳語である、との立場を明らかにした、と述べ、それは綿密な歴史観と自己分析によるものだと説明しています。

 つまり、橋本さんは、天皇は明治憲法上の元首ではない。政治大権も軍事大権もない。現行憲法は国民主権を定め、象徴天皇を定めている。国民の上に立つ者が下位の者を保護する意味合いになる protect はふさわしくない、と天皇は結論したのだ、というのです。

 敗戦後の国体の危機は、天皇の象徴化・温存によって回避された。天皇の機能が変化しなければ時代について行けない。明仁天皇は、美智子皇后と協力し合って、日本国憲法が柱とする象徴天皇制を育て上げ、機能させるため努力してきた、と橋本さんは解説します。

 ところが、皇太子徳仁親王はほとんどひとりで公務をこなしている。雅子妃が皇太子に強く求められながら、なぜ挫折したか。何が雅子妃を追い詰めたか、それを探ることが橋本さんの目的である、と説明されています。


▽もし解説が正しいなら……

 けれども、そうではない、と私は思います。

 第一に、明治憲法、現行憲法も、第一章に天皇を規定しています。憲法が変わっても、天皇は天皇であり、国家の中心的存在であることに変わりはありません。

 第二に、天皇は古来、祈りによってこの国を治めてこられたのであり、みずから政治権力をふるう立場にあったわけではありません。それが統治大権であって、象徴天皇と矛盾しません。

 今上天皇は、橋本さんの近代史的説明とは異なり、古代からの歴史に基づいて、象徴天皇のあり方を追求してこられたのでしょう。そのことは即位後、皇室の伝統である宮中祭祀の正常化に努められたことからも理解されます。

 第三に、皇位を継承するのは天皇であり、皇后ではありません。橋本さんが仰るような、一夫一婦天皇制的発想は、そもそも憲法に反します。

 第四に、もし橋本さんの解説が正しい、となると、今上陛下ご自身が誤った歴史観と自己分析をしておられる、という結論になります。それは逆であって、誤った目で陛下のご心情を説明しているだけではないのでしょうか。

 と書いているうちに、長くなりました。この続きは次回にします。次回は本文を読むことにします。

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