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「左の頬も差し出せ」と要求する「陛下の級友」──橋本明「平成皇室論」を読む 第5回 [天皇・皇室]

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 2 「左の頬も差し出せ」と要求する「陛下の級友」
   ──橋本明「平成皇室論」を読む 第5回
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 前号では、橋本明『平成皇室論』のエッセンスが凝縮されていると思われる第7章を読みました。そのうえで、橋本さん流の一夫一婦天皇制論の誤り、君徳論の誤りなどについて指摘しました。

 今号では、第1章と第2章を順番に読み進んでみたいと思います。


▽象徴天皇論に凝り固まる

 第1章「平成皇室と国民」の書き出しを読んで、「さすが元共同通信社会部デスク。文章がうまいな」と私は膝を打ちました。

 橋本さんは、読者の意表を突き、南米で武装集団に誘拐・拉致された日本人を取り上げ、ノンフィクションタッチで臨場感たっぷりに描き始めます。もちろん、事件を描くことが橋本さんの目的ではありません。橋本さんが事件を取り上げたのは、この日本人が切羽詰まった状況下で「天皇陛下の夢を見た」からです。

 夢のなかの天皇が生きる希望を与えたという奇跡の体験に、橋本さんは「かつて明仁天皇が明かしてくれた象徴天皇のあり方が、重なっている」と見ています。ご即位以来、「どうしたら象徴天皇たり得るか」と心を砕き、震災の被災者に膝を屈し、目線を同じくして励まされる陛下の思いを浮かび上がらせるというのです。

 そのうえで、ハプスブルグ家のオットー大公のように、「日本国民は幸せだ。あのように優れた天皇陛下を持てて」と述懐する人もいるが、この今上陛下が国民と築かれた幸福な関係が未来永劫に続くかどうか、皇太子ご夫妻の姿勢に関わってくる、と問題提起し、お気楽な私的外出を繰り返し、ご公務をお務めにならない妃殿下に対する批判へと、橋本さんは筆を進めるのでした。

 しかし橋本さんの見方は誤っています。最大の誤りは、象徴天皇という概念に徹頭徹尾(てっとうてつび)、凝り固まってしまっていることです。

 たとえば「もっとも不幸で、危険を背負っているとき、心に天皇が顕在化(けんざいか)した」のは、「象徴天皇だから」ではなく、「天皇だから」でしょう。つまり、日本の天皇が古来、つねに国と民のために祈りを捧げる存在だからです。

 また、オットー大公が「優れた天皇」と呼んだのは、今上陛下個人ではなく、古代から祈りを継承してきた歴史的存在としての天皇だと理解しなければならないと思います。

 ヨーロッパの王制なら、国王はキリスト教信仰にもとづいて、一個の人間として唯一神と向き合っています。しかし日本の天皇はそうではありません。

 だとすれば、今上天皇個人と皇太子個人、あるいは妃殿下個人を比較することがそもそも誤りなのであって、むしろこのメルマガが何度も繰り返しているように、両殿下の振る舞いではなくて、宮中祭祀の正常化こそが求められているのだということになります。


▽妃殿下を追い詰めた「環境」とは

 橋本さんは第1章の最後を、那須御用邸で静養される東宮ご一家が駅頭で送迎の人々と交流する光景が見られなくなって久しい。集まる人々の数も減っている。人々の心変わりは「あの時」が始まりだった、と締めくくります。

「あの時」とはいつなのか? 第2章の「東宮家の軌跡」は、平成16年5月、皇太子殿下の「人格否定」発言においています。雅子妃を脅かしたものは、「天皇家の家風」だというのが橋本さんの理解です。

 橋本さんは殿下の発言を国語学的に解釈し、そのように解説するのですが、私は一面的だと考えます。

「(妃殿下は)自分を皇室の環境に適用させようと努力してきたが、疲れ切ってしまった」というのが皇太子殿下の発言ですが、その行間を読む必要を感じるからです。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h12az.html

 歴代天皇は国と民のためにひたすら祈りを重ねてきました。刃向かう者のためにさえ祈るのが天皇ですから、臣下に対する批判の言葉は避けなければなりません。その姿勢はむろん殿下にもうかがえます。

 だとすると、会見の言葉を文字通り国語解釈しても、殿下の意思を正確に理解できるとは限りません。

 私は殿下がいう「皇室の環境」とはもっと別次元のものの意味だろうと考えています。


▽官僚とマスコミの妃殿下いじめを等閑視

 橋本さんは、このひたすら長い第2章で、皇太子殿下のイギリス留学から妃殿下との出会い、ご結婚、妃殿下の発症後、今日までの軌跡を丹念に追っています。しかし、触れていないことがあります。妃殿下問題を引き起こしたマスコミの挑発・誘導という外的要因です。

 橋本さんは、11年暮れに雅子妃ご懐妊の可能性に触れた報道が流産という悲劇的様相で消えたこと、宮内庁、側近からマスコミに事実が次々に流れ、東宮妃の宮内庁不信やマスコミ嫌いが募っていったと指摘しています。しかしそれだけです。

 勇み足報道のあと、皇太子殿下は、翌12年2月の誕生日会見で、「医学的な診断が下る前の非常に不確かな段階で報道され、個人のプライバシーの領域であること、事実でないことが大々的に報道されたことはまことに遺憾」と述べています。けれどもマスコミの姿勢は変わりませんでした。「人格否定発言」の翌年、17年は皇位継承問題など厳しい質問が突きつけられ、18年以降はまるで女性週刊誌の見出しを見るかのような会見に様変わりしています。

 それでも殿下はつとめて大所高所に立った話をされようとしています。

 マスコミ人の1人である橋本さんがそのような事実を知らないはずはないでしょうが、著書には宮内官僚とマスコミによる妃殿下いじめについての言及がすっぽりと抜け落ちています。

 そして、象徴天皇制を維持する要件はもっぱら皇族の倫理性だと理解する橋本さんは、第2章の最後に、「何を求められても平然として応じる人間力」としての「ノブレス・オブリージュ」を妃殿下に要求するのです。

「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも差し出しなさい」と教えたのはイエス・キリストですが、橋本さんの要求は、妃殿下の右の頬を情け容赦なく叩いておいて、そのうえ「さあ、左も出せ」と無慈悲に命じているように、私には聞こえます。それが「主権者」たる国民が、「象徴天皇制」に対して行うまともな要求だ、と「陛下の級友」はお考えなのでしょうか。もしそうなら、何と非人間的な「象徴天皇制」でしょう。

 次回は第3章と第4章を読みます。

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