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「二重性」は昭和天皇ではなく、共同通信にある──橋本明『平成皇室論』を批判する 最終回 [橋本明天皇論]

「二重性」は昭和天皇ではなく、共同通信にある
──橋本明『平成皇室論』を批判する 最終回
(斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン2009年11月3日)


 橋本明さんの『平成皇室論』の批判をつづけます。今回は「第6章 近代の皇室」を読みます。第7章はすでに取り上げていますので、今回が最終回になります。


▽1 「ご学友」と「同級生」の違い

 批判の前に、ひと言申し上げたいのは、先週、少しふれた岡田外相の「お言葉」発言です。外相は個人のブログで、

「官僚的発想、あるいは無難に無難にという発想のなかで、あまりにもそれが行き過ぎていないか、形式主義に陥っていないかということを、私としては問題提起した」

 と釈明しています。
http://katsuya.weblogs.jp/blog/2009/10/post-19c9.html#more

「誤解を解いて欲しい」

 と外相は訴えているのですが、逆にこの人の問題意識の低さを露呈しています。いま政府が考えるべき皇室の問題とは、このメルマガの読者ならお分かりのように、思いつきですむような各論ではなく、国家と文明の根幹に関わる本質的なことだからです。

 さて、橋本さんの「廃太子論」ですが、橋本さんは第6章で、近代の皇室史を、明治天皇の即位から日清・日露戦争、大正天皇の即位などを、きわめてざっくりと振り返っています。

 意外に思ったのは、橋本さんが、裕仁親王、すなわち、のちの昭和天皇の「ご学友」と自身のことについて、正直に説明していることでした。

 いわく、昭和天皇の「ご学友」は、御学問所開設期に学習院初等科の修了生から5人が選ばれ、起居をともにしたけれども、橋本さんは学習院で机を並べただけの「同級生」に過ぎない。マスコミが勝手に「ご学友」と呼んできただけだ、と説明しています。

 それを読んで、案外、正直さと謙虚さを兼ね備えた方かもしれない、と認識を新たにしたのですが、大勢の「同級生」のなかの1人に過ぎない、というクールに理解するなら、陛下との個人的な人間関係を強調したり、

「陛下の級友がいま世に問う」

 などと著書の帯に入れる行為は慎むべきでしょう。

 地上の支配者たるヨーロッパ王室とは異なる、日本の皇族にとっての最大の美徳は、謙虚さでしょうが、「同級生」スポークスマンは、外信部も経験したはずなのに、世界にまれなる統治者の徳目を致命的なほどに理解していないようです。


▽2 一昔前の図式的な近代史理解

 第6章からうかがえる、橋本さんの近代史理解の特徴は、以下の5点かと思います。

(1)天皇という存在を、それぞれ肉体を持った、国民の目から見える生身の個人として理解していること

(2)朝廷対徳川幕府、君主制対共和制、戦争と平和という対立の図式で、日本近代史を理解していること

(3)立憲君主であった戦前の昭和天皇が、みずから政治意思を貫く3回の「逸脱」をやってのけた、という歴史理解を持っていること

(4)敗戦後、窮地に陥った昭和天皇を救ったのは「天皇を守る」という国民の意思だった、と理解していること

(5)昭和天皇は戦争と平和の時代を異なる価値観で生きた二重性を帯びた天皇だったが、新憲法の申し子である新天皇は、新憲法が定める象徴天皇のあり方に正面から取り組み、骨格づくりに骨身を削ったという理解をしていること、

 歴史家やジャーナリストが天皇個人にスポットライトを当て、あるいは二項対立の図式を持ち込んで、歴史を理解しようとすることはしばしば行われていますが、そのような手法が万能かといえば、そうではありません。

 以前にも指摘したように、とくにジャーナリズムの役割は図式では捉えきれない事実を明らかにし、より深い真実の追究を促すことにあるのだろうと思います。その意味で、橋本さんの著書は一世代前の図式から一歩も脱していないように私には見えます。


▽3 策謀を承知の上で従った後水尾天皇

 たとえば、この章の冒頭、後水尾天皇(1611~29)の時代を取り上げたくだりがそうです。

 橋本さんは、幕末明治維新の権力交代の歴史を描くために、家康らが

「天皇から政治権限を取り除いた」

 とする徳川時代初頭の朝幕対立の歴史を振り返ります。

 権力対立の構図のなかで、政治の実権が朝廷から徳川幕府へ、そして幕末に朝廷にもどされた、さらに敗戦後、国民に移ったという単線的な歴史理解から、そのような議論を展開させているのでしょう。

 しかし、朝幕対立の構図なら、すでに後水尾天皇の父・後陽成天皇(1571~1617)の時代に始まっています。それはともかくとしても、重要なのは、若き日においてはなるほど幕府とのつばぜり合いを経験せざるを得なかった後水尾天皇が、晩年においては円熟され、単なる対立関係に終わらなかったことです。

 橋本さんは、「禁中並公家諸法度」を「押しつけた」と言い切っていますが、その第一条は天皇の御務めを「御学問」「和歌」とするもので、後水尾天皇こそは幕府の法律をもっともよく守られたのです。

 後水尾天皇は皇室の弱体化を陰に陽に図ろうとする幕府の策謀は百も承知のうえで、争うことを捨て、僭越・非道の幕府の措置に従容と従い、平安の境地にまでご自身の心を磨かれるという至難の帝王学を実践し、皇室の尊厳を守られたのでした(辻善之助『日本仏教史』『日本文化史』など)。

 天皇の統治は文治であり、徳治です。後水尾天皇は天皇統治の本質を、生涯を通じて、徳川に示し、やがてその志は明治維新の源流となりました。
http://homepage.mac.com/saito_sy/tennou/H140311JSgomizunoo.html


▽4 統治大権はつねに天皇にあり

 争わずに受け入れるという天皇の帝王学は、二項対立的な歴史理解の限界を教えています。橋本さんは権力の対立・闘争というような単純な図式で、単線的に歴史を見ているために、江戸期の朝幕関係、現代の皇室と国民との関係が一面的にならざるを得ないのです。

 さらにいうならば、橋本さんは「統治大権」の意味を小さく、低く理解しているように思います。

 天皇が神代にまでさかのぼる日本の統治者であると理解されてきましたが、天皇が政治の実権をふるってきたわけではありません。統治の大権は古来、つねに天皇にあるけれども、現実の政治は天皇の委任を受けた為政者が行ってきたのであり、したがって 橋本さんが解説するように、幕末の大政奉還は徳川慶喜が

「政治大権を天皇に奉還した」

 のではなく、委任統治権を返上したと理解すべきでしょう。

 昭和天皇の「逸脱」もしかりです。

 橋本さんは、

(1)張作霖爆殺事件後、田中義一首相に辞職を迫ったこと、

(2)2・26事件の決起部隊を反乱軍として切り捨てたこと、

(3)戦争末期、御前会議でポツダム宣言受諾の聖断をくだしたこと、

 の3つを立憲君主の権限を「逸脱」していると理解しているようですが、統治権者ではなく、統治大権者としての判断だとすれば、「逸脱」とは言い切れないでしょう。

 皇祖神の命に従い、

「国中平らかに、安らけく」

 という祭祀王の祈りを継承し、国と民をまとめ上げてきた統治大権者であればこそ、戦争で国土が焦土となり、多くの生命が失われたことに対して、昭和天皇は生涯、高い次元から、ご自身を責め続けられたのでしょう。けっして「二重性を帯びた天皇」ではありません。


▽5 自己批判なきジャーナリズム

 もし昭和天皇の「二重性」をきびしく指摘したいのなら、橋本さんが身を置いた共同通信社の自己批判はないのですか。

 共同の前身である同盟通信は人員5500名を擁する当時、世界最大の国策通信社であり、「大本営発表」は同盟を通じて新聞、ラジオに流されたことは、ほとんど誰でも知っているでしょう。

 敗戦後は、経営トップの英断により、自発的に解散しましたが、その実態は、共同通信と時事通信への分離・分割であって、通信網も人員も温存されたのです。橋本さん流にいえば、戦争協力の社是を弊履のごとく脱ぎ捨て、平和と民主主義の時代を生き延びているのです。

 その証拠に、10年前に刊行された『共同通信社50年史』は、「第4部 前史」で同盟通信の歴史を32ページにわたって記述しているのですが、みずからの「戦争責任」についてはまったく言及していません。役員が自発的に総退陣したために、同盟の戦争責任を徹底的に反省し、総括する機会を逸した、とたった数行、書いているだけです。

「道義的戦争責任を曖昧に」しているのは日本のジャーナリズムであり、昭和天皇の責任を強硬に追及しながら、みずからの古傷に沈黙するという「二重性」に安住しているのが橋本さんの古巣・共同通信です。天皇を批判する資格はありません。

 長くなってしまいました。橋本さんの「廃太子」論を批判する、小林よのしのりさんの「WiLL」の論考は次回、取り上げます。
http://melma.com/backnumber_170937_4659088/

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