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悠久なる天皇史から見直す───ご即位20年記者会見を読む その2 [御在位二十年]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2009年12月8日)からの転載です


 1日発売の月刊「テーミス」12月号に「皇室の緊急課題の解決が急がれる」という記事があり、私のコメントも載っています。お買い求めのうえ、お読みいただければありがたいです。
http://www.e-themis.net/new/index.php

 さて、両陛下は先月20日、京都府行幸啓のおり、霊鑑寺(れいかんじ)にお参りになりました。そのニュースを知って、ああ、なるほどな、と私は思いました。

 霊鑑寺は後水尾天皇とゆかりの深いお寺です。臨済宗南禅寺派の門跡尼寺で、承応3(1654)年に後水尾天皇が皇女を開基として創建されたそうです。後水尾天皇がこよなく愛された椿をはじめ名木に埋められた見事な庭園や、200点もの御所人形など皇室ゆかりの宝物が伝えられているようです。

 なぜ両陛下は霊鑑寺を訪ねられたのでしょうか。前号にも書きましたように、後水尾天皇への深い関心ゆえではないのでしょうか。


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 悠久なる天皇史から見直す
 ───ご即位20年記者会見を読む その2
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▽後水尾天皇へのご関心

 後水尾天皇は前半生においては、下克上の最終段階で朝廷をも従えようとした徳川幕府との熾烈なつばぜり合いを強いられ、後年には争わずに受け入れるという至難の帝王学によって武の覇者である幕府を恭順させ、皇室の伝統と尊厳を守り抜かれたのでした。

 先帝・昭和天皇もまた後水尾天皇に心を寄せられたようです。入江侍従長ら側近の記録によると、昭和55(1980)年9月11日、雨がはげしくザーザーと降るなか、後水尾天皇の300年祭が行われました。

 その前日、後水尾天皇についての尾藤東大教授のご進講がありました。後水尾天皇の譲位について、昭和天皇はいたく関心を寄せられ、資料を集めるように、と侍従らに指示されたそうです。

 尾藤教授のご進講の内容がどのようなものだったのか、昭和天皇が具体的に何に興味を持たれたのかは、つまびらかではありませんが、指摘できるのは、当時、昭和天皇ご自身、昭和の祭祀簡略化が進行するまっただ中に置かれ、退位をほのめかされるほどだったということです。

 歴代天皇と同様に祭祀王を自任する後水尾天皇に対して、徳川幕府がみずから定めた「禁中並びに公家諸法度」の遵守を迫ったように、昭和天皇に対して、こんどは側近中の側近らが、憲法の政教分離規定を盾にして、祭祀の空洞化を無理強いしていたのです。

 そして今年、宮中祭祀簡略化の悪夢が再来し、今上陛下の親祭、親拝は激減しています。それでも今上陛下は、後水尾天皇や昭和天皇が争わずに受け入れるという至難の帝王学を実践され、皇室の尊厳を守られたように、先のご即位20年の会見では「負担の軽減という意味はあったのではないか」とまでおっしゃいました。


▽山折哲雄先生の指摘

 いま私たちの目の前で何がおきているのか、といえば、何度も申し上げてきたように、近代との相克であり、多神教文明の揺らぎなのでしょう。別の言い方をすると、国の近代的な法制度の枠組みのなかに、天皇の祭祀がいまだにきちんと位置づけられていない、ということかと考えます。

 たとえば、宗教学者の山折哲雄先生が産経新聞の「正論」欄でこの20年を振り返りながら、祭祀の問題に言及しています。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/091112/imp0911120502003-n1.htm

 先生はこの小文で、(1)戦後民主主義と象徴天皇制の関係、(2)皇室における象徴家族と近代家族という二重の性格が、それぞれどう推移してきたか、を問いかけるのですが、面白いのは、京都という土地柄からもっと大きな視点を提示していることです。

 つまり、千年を超える天皇の歴史に思いを馳せ、祭祀を重ねてきたことが王権の正統性の根拠とされてきた。そこにイギリスのデモクラシーとの違いがある、と指摘するのです。

 そのうえで先生は、即位直後に行われる大嘗祭が公的にどう位置づけられるかが重要な課題だと指摘します。先生によれば、政教分離政策などによって天皇の祭祀が宗教行事と見なされているからで、祭祀の伝統をどう継承するか、熟考すべき時期にきていると訴えています。

 先生がおっしゃるように、天皇の権威が千年ものあいだ安定してきた背後にあるものは間違いなく祭祀であり、法的な位置づけを再検討、再構築する必要があると思います。


▽社会を安定させてきた天皇の祭祀

 しかし山折先生にして、見過ごされている、少なくとも3つの重要なポイントがあります。

 1つは、大嘗祭、新嘗祭は「稲の祭り」ではなく、「稲と粟の祭り」です。天皇の権威の安定は「稲の祭り」によるのではなく、稲作民の稲と畑作民の粟の儀礼をともに行う「稲と粟の祭り」からもたらされます。

「象徴」天皇制のあり方を考えるまえに、天皇の祭祀をもう一度、正確に理解する必要があります。

 2つ目は、平成の大嘗祭が政教分離政策から「皇室の私事」とされたのは事実ですが、天皇の祭祀が戦後、一貫して「皇室の私事」とされてきたわけではありません。ほかならぬ50年前、賢所で行われた今上陛下のご結婚の儀は「国事」でした。

 政教分離の制度および戦後の歴史を、丹念に検証する必要があります。

 3つ目は、天皇の祭祀の継承が天皇の権威を安定させてきたばかりではありません。皇室と国民、つまり社会を安定させてきたのです。

 その場合、重要なことは国民の多様な天皇意識の存在です。稲作民にとっては天皇の祭祀は稲の儀礼でしょうが、畑作民にとっては粟の儀礼です。それぞれの集団にそれぞれの天皇の物語があり、強固な天皇意識が伝えられ、天皇の祭祀につながっています。

 そのような多様なる天皇意識を忘れさせているのがむしろ近代です。たとえば、近代以前にはさまざまな「君が代」の歌(メロディー)が各地方に伝えられ、神社の祭りなどでも歌われたようですが、いまでは聞かれません。明治に作曲された「君が代」が天皇意識の代名詞になり、それが千年の伝統であるかのように誤解する人さえいます。

「象徴」天皇を考えるには悠久なる歴史の視点のほかに、天皇と国民の双方を見渡す観点が必要です。

 ご即位二十年に際して、メディアの最大の関心は「憲法」を出発点とする「象徴」天皇のあり方でしたが、逆に千年の天皇の歴史をもとに国の法的枠組みを考えるべきです。千年以上ものあいだ国と民を統合し、社会を安定させてきたのは、いうまでもなく「憲法」ではありません。

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