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静謐なる祈りに屈した力の支配───日本人の琴線に触れた天皇会見ゴリ押し [天皇特例会見]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 先週につづき、天皇特例会見について書きます。

 先週は、政府による天皇の政治利用もさることながら、それ以上に問題なのは外国による天皇利用の方だということを指摘したつもりです。今週は天皇の祈りと政治権力について書きます。

 これに関連して、忘れないうちに申し上げますが、メルマガが配信された先週の火曜日、東京新聞の特報面の「特例会見の波紋」という記事に、私のコメントが載りました。

「1か月ルール」は、陛下のご健康問題を契機につくられたといわれます。即位後、陛下は二度の手術を経験され、それでなくともご高齢ですから、ご負担軽減は急務です。けれども実際のところ、軽減策は実現されていません。

 そのことは当メルマガで繰り返し具体的に指摘してきたことですから、読者の皆さんは耳にタコができるほどかと思いますが、東京新聞の加藤記者がコンパクトな記事にあらためてまとめあげてくれました。これはゴリ押し会見以前の問題です。

 話をもどします。

 天皇特例会見ですが、いや、「会見」とつい書いてしまうのですが、「会見」ではありません。ここにすでに誤りがあります。


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 静謐なる祈りに屈した力の支配
 ───日本人の琴線に触れた天皇会見ゴリ押し
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▽「神の新年」賢所御神楽の日に

 宮内庁の用語では、天皇陛下が来日した外国の元首とお会いになることを「ご会見」といい、首相や大使などの場合は「ご引見」と呼んでいます。

 あくまで宮内庁の用語で、従わなければならない義務があるというわけではありません。メディアは馴染みのうすい「ご引見」を避け、わかりやすさを優先して、表現を統一しているのでしょうが、このため「ご会見」と「ご引見」の扱いの違いが見失われることになります。

 天皇という、少なくとも千年以上続く日本の最高権威にとって、今回の特例会見はいわば格下の「ご引見」に過ぎません。国家の賓客ではあっても国家元首の公式訪問ではありません。それなのに、陛下のご健康を十分に配慮せず、慣例を破り、ドタバタと会見を設定する意味が分かりません。伝えられるところでは、中国側は「ご健康への配慮ならやむを得ない」といったんは納得していたというのですから、なおのことです。

 宮内庁が発表した先週のご日程を見て、ああ、やはり、と私は思いました。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/h21/gonittei-1-2009-4.html

 ふつうなら「平成21年12月15日(火)天皇陛下、ご引見(中華人民共和国副主席)(宮殿)」の数日前に、大使のご説明があるはずなのに、それがないからです。公式訪問とはいえ、急遽、ドタバタで設定されたご引見ですから、時間的余裕がなかったのでしょう。

 もっというと、このご引見の日は賢所御神楽の当日でした。新たな1年の祭祀が始まる神の新年と位置づけられる重要な祭りの日です。夕刻、陛下が拝礼されたあと、6時間にわたって御神楽が奏され、この間、陛下は端座して慎まれ、終了の知らせのあとようやく就寝されると聞きます。

 昨年はご不例のため、休養中の陛下に代わって、掌典次長によるご代拝となったと伝えられていましたから、今年、陛下の思いはひとしおだったのではないかと拝察されます。ご引見が直接、その陛下の祈りの時を奪ったというわけではありませんが、静謐な祈りの1日が妨げられることがないようにと願います。国と民のために祈る祭祀こそ第一のお務めと考えてきたのが歴代天皇だからです。

 そのような天皇の存在が軽々しく扱われているのは残念です。


▽祈りが届かない

 小沢幹事長は「天皇陛下の行為は、国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるんだ、すべて。それが日本国憲法の理念であり、本旨なんだ」と記者会見で言い放っています。傲岸不遜な物言いは、比べるのもはばかられるほど、日本の皇室の謙虚さ、清らかさ、高貴さとは異質です。

 選挙で多数の得票を得、議会で多数派を制すれば、政治は思いのまま、天皇をも自由に動かせる、という考えでしょう。それが小沢氏の民主主義なのでしょう。

 憲法第3条は天皇を「めくら版」を押すだけのロボットにすることだ、と断じた高名な憲法学者がかつていたようですが、国民主権、議会制民主主義を逆手に取った天皇のロボット化が現実に起きてしまっています。

 下克上の最終段階で朝廷をも従えようと、天皇の政治不関与を「禁中並公家諸法度」で有無をいわさずに迫った徳川三代の時代を、想起するゆえんです。いや戦国乱世の時代ならまだしもです。ナチスの独裁が民主的な手法で生まれたことを思い起こす必要があります。

 権力者はつねに力による支配を追求します。それは権力の宿命です。しかし天皇の統治は祈りです。日本の文明は政治権力ではなく、天皇の祈りによって安定的に維持されてきたのです。天皇の政治的中立性の確保と同時に、政治権力者の権力の制限が求められます。

 日本の天皇は選挙で選ばれたわけではありません。しかし、国民は最大多数の政党の代表者よりも、国家の予算を動かし、現実の政策を左右する政治的実力があるわけではない天皇に、心を寄せています。見てください、小選挙区制度というカラクリから生まれた政権は100日もしないうちに支持率が急落し、あわただしく退席を余儀なくされています。しかし社会の安定は揺るぎません。

 明日23日は陛下のお誕生日です。ご不例直後の昨年は、「ご感想」の最後に、「世界的な金融危機に端を発して、現在、多くの国々が深刻な経済危機に直面しており、我が国においても、経済の悪化に伴い、多くの国民が困難な状況に置かれていることを案じています。働きたい人々が働く機会を持ち得ないという事態に心が痛みます」と、陛下は経済危機に苦しむ国民にお心を寄せられたのでした。

 この1年、国民の不安や苦しみはいっこうに改善されていません。むしろデフレが進行しています。健康を害されるまでに国の平和と民の幸せを陛下は祈られているのに、その祈りが政治家にはなかなか届かない。それどころか、逆に天皇を動かして恥じるところがないということでしょうか。

 日本人の心の奥深くにある天皇意識、日本人の琴線に触れるゴリ押し会見の設定が権力者自身の首を絞めることになったのは、あまりにも当然です。


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