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北京に乱の予感───「天皇特例会見」騒動のその後 [天皇特例会見]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年1月5日)からの転載です


 今年最初のメルマガです。

 明けましておめでとうございます、と申し上げたいところですが、喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げております。

 そうはいいながら、まずは新年らしい話題からお話しします。

 陛下は新年のご感想で、「昨年は厳しい経済情勢で多くの人々がさまざまな困難に直面し、苦労も多かったことと察しています。国民皆が助け合い、励まし合って困難を克服するよう願っています」と述べられました。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/shinnen-h22.html

 陛下は国民の多くが経済不況に苦しんでいることを、永田町のどの政治家よりも、側近の官僚たちよりも、よくご存じで、国民相互の支え合いによる解決を願っておられます。

 歴代天皇は民の声を聞き、民の心を知り、民と苦楽を共有し、民の幸福のために祈ることをお務めとされました。現実の政治から超然とした位置にあり、政治的に中立なお立場で、民を知る天皇がおられることが、社会の安定の第一歩です。

 ところが民の声を実現するどころか、民主主義の原理を悪用し、数の暴力で天皇の政治的中立性を冒したのが、政府与党による天皇特例会見のゴリ押しでした。

 今回はあらためてその危険性についてお話しします。日本国内ならまだしも、北京・中南海の熾烈な権力闘争の火に油を注ぐことになったのではないか、と思うからです。耳障りのいい「友愛」精神や「国際親善」のかけ声が、私にはいっそう白々しく聞こえます。


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 北京に乱の予感───「天皇特例会見」騒動のその後
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▽日中外交をめぐる主導権争い

 特例会見の直前、民主党の小沢幹事長は総勢600人を超えるという前代未聞の大訪中団を北京に送り込みました。胡錦涛国家主席が日本の議員1人1人とにこやかに握手を交わした12月10日、習近平副主席の特例会見は決まったようです。

 北京政府のスポークスマンは、同じ日に「両国の政治的相互信頼の強化や互恵協力の拡大、両国国民の友好的な感情の増進、戦略的互恵関係の持続的な発展が推進されることを期待している」と訪日の意義を強調しました。

 一見すれば、北京政府が一致して日本の「小鳩」政権との協調関係を表明しているように見えますが、違うでしょう。民主党政権が二重構造であるように、共産党政府は一枚岩ではないからです。

 小沢幹事長は20年前から「長城計画」と称する中国共産主義青年団との交流を続けてきたそうで、今回の訪中団もその一貫のようです。胡錦涛国家主席は共青団出身で、厚遇は理解できます。

 しかし、習近平副主席は団派とは対立関係にある太子党(高級幹部の子弟)です。小沢氏の人脈からははずれています。だとすると、どのような経緯があって、小沢氏は両者を天秤にかけ、日中外交をめぐる主導権争いに陛下を引き込むような天皇会見実現のために動くことになったのか?


▽団派と太子党の闘争激化か

 結局、習近平氏にとってナンバー2への階段を確実にする大きな一歩のはずだった天皇会見は、成功しませんでした。「天皇の政治利用」についての国民の反発が広がり、小沢氏は太子党に恩を売れず、習近平氏と日本で会談すらできませんでした。記者会見で久々に見せた露骨ないらだちはそのためでしょう。

 問題は今後です。いまのところ北京は少なくとも表面上、冷静のようです。踏み込んだ論評は避けられています。しかしかえって不気味です。

 騒動のあと、希代の中国ウォッチャーである宮崎正弘さんのメルマガ(12月22日号)に、じつに興味深い情報が載りました。中国人知識層のあいだで雑誌「新青年」復刊の動きがあるというのです。
http://www.melma.com/backnumber_45206_4711553/

 創刊者の陳独秀(1879~1942)は青年期、日本に学んだ中国共産党創設の立役者の1人です。しかし中華人民共和国成立から60年、革命の先駆者たちが追い求めた「大同」(絶対平等主義)の夢はとうに破れ、国内の社会格差は世界最大ともいわれます。輝かしく伝えられる経済発展のかげで、現代の奴隷制社会と見まごうほどに、社会矛盾が限界点に達しています。

 知識人による「新青年」の復刊計画は社会変革へののろしなのかどうか? 少なくとも、親のコネで特権をむさぼっている太子党に対する政治党争の一環と見ることはできるかもしれません。なぜなら、復刊計画は、同じ第5世代ながら、太子党の習近平氏と対立する団派のポスト胡錦涛候補・李克強氏の手元に上がっているらしいからです。乱の足音が聞こえてきませんか?


▽他国の被災民に心を寄せられる

 習近平副主席をご引見になった陛下は、四川大地震の復興状況を質問され、副主席は日本からの援助などに対して謝意を述べたと伝えられます。

 日本の歴代天皇は自然災害で苦しむ国民に心を寄せられました。今上陛下は被災者1人1人と声を交わされ、励まそうとされます。天皇がそうなされるのは、国民と命を共有し、再生をはかる祭祀を日々、務められているからです。

 しかし国民を犠牲にしながら、中原に鹿を追い続けてきた中国の権力者たちは、まったく異なります。自然災害の犠牲者の数は従来、国家機密とされ、四川大地震でようやく連日報道されるようになったと聞きます。国民の命より権力の維持が優先される政治文化です。チベットやウイグルでの言語を絶する抑圧も必然的です。

 それなら、権力の階段を駆け上がるために天皇会見を利用しようとしたに違いない習近平氏が、外国の被災民にまで心を寄せる陛下のお言葉をどう受け止めたのか、私には興味があります。というのも、歴史の前例があるからです。

 昭和53(1978)年秋、来日したトウ小平副総理に、昭和天皇は「わが国はお国に数々の迷惑を掛けた。心から遺憾に思う。ひとえに私の責任だ」と語りかけ、その瞬間、トウ小平はまるで電気にかかったように立ちつくしたと伝えられます。

 まさに高い次元で国と民のために祈られる祭祀王なればこそ、です。万世一系の安定した天皇の文明と権力がめまぐるしく盛衰する易姓革命の国柄との違いです。良い悪いではなく、文化が異なるのです。天皇の祈りは習近平氏の心に届いたのかどうか。


▽中国語のできる中国研究者がいなかった

 ともすると私たちは天皇という存在が当たり前すぎて、その価値を見失いがちです。それだから、みんなで渡れば怖くない、とばかりに大勢で押しかけ、現代の皇帝の前で握手をしたぐらいで、議員たちは舞い上がるのでしょう。

 井の中の蛙といいたくなりますが、それはいまに始まったことではありません。

 敗戦後、山西独立軍を指揮し、ひきつづき共産軍と戦った城野宏によると、戦前、日中対立が激化していたとき、城野が在籍していた文官養成の最高機関たる東京帝大法学部には、じつに驚くべきことに、中国語のできる中国研究者は1人もいなかったそうです。日本人の中国観は偏り、ときに正確な知識もなしに蔑視していたのです。愚かにも中国を知らずに中国で戦争をしたということです(城野宏『祖国復興に戦った男たち』など)。

 若き日の城野は「ノートを貸してくれないか」と教室で声をかけてきた女子留学生との縁で、中国人青年たちと親密に交流するようになり、現代中国の苦悩を知るようになったといいます。城野は帝大で中国語を学ぶ第1号となり、やがて徴兵で中国大陸に渡り、昭和16年には中華民国山西省政府の顧問補佐官として民政・警察・軍隊を主管し、日本軍とともに共産軍と戦いました。

 歴史の悲劇を繰り返さないためには、観念的な「友愛」のお題目を繰り返すのではなく、中国の実像を知らなければなりません。本居宣長は『直毘霊(なおびのみたま)』(『古事記伝』全44巻の巻1)の冒頭に、「この国は天照大神がお生まれになった国で、外国に比べて優れている」と書いていますが、天皇の文明と易姓革命の国柄では何が異なるのか、現代的に読み直す必要があるでしょう。
http://www.melma.com/backnumber_158883_3724781/


▽ご代拝制度の復活を望む

 最後にひと言、申し上げます。宮内庁の金沢一郎皇室医務主管が天皇誕生日の前日、皇后陛下が年明けに予定されている宮中祭祀をお控えになる、と発表したと伝えられます。

 まず、忘れないうちに用語について指摘します。例の原武史教授と同様、新聞は「宮中祭祀への出席」などと書いていますが、「ご拝礼」の誤りでしょう。天皇の場合なら「出席」は完全な誤りです。天皇がみずから行う天皇の祭祀だからです。なぜ「拝礼」といわずに「出席」と表現するのか、理解できません。

 つぎに「年明けの祭祀」ですが、具体的には、元日の四方拝、歳旦祭、3日の元始祭、4日の奏事始、7日の昭和天皇祭と続きます。皇后陛下が拝礼なさるのは元始祭と昭和天皇祭、孝明天皇例祭ですから、これらの拝礼がないということかと思います。

 報道では、「3月の春季皇霊祭へのご出席を目標にリハビリを続けられる」とのことですから、1月30日の孝明天皇例祭祭祀のご拝礼もないのでしょう。2月1日の旬祭はもともと皇后陛下のお参りがありません。

 それならどうするのかです。以前ならご代拝の制度がありました。代わって側近に拝礼させる制度です。昭和天皇の側近の日記には、香淳皇后がお風邪を召されて、ご代拝になった、としばしば記録されています。しかし、いまはこの制度がありません。

 拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』に書きましたように、また当メルマガの読者ならすでにご存じのように、昭和50年8月の宮内庁長官室会議で皇后、皇太子、皇太子妃のご代拝の制度が、厳格な憲法解釈・運用を根拠に、廃止されたからです。

 ご代拝の制度さえあれば、側近に拝礼させればすむことで、病に苦しむ皇太子妃殿下は「祭祀にいっさいご出席ではない」などと批判されることはなかったはずです。いまからでも遅くはありません。ご代拝制度の復活を望みたいものです。

 そうでなければ、歴代天皇が第一のお務めと信じてきた宮中祭祀はますます空洞化します。それでなくとも、平成の祭祀簡略化のただ中にあるのですから。
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