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「小鳩」政権に同居する多神教文明の欠点────主体性なき「友愛」と一神教的「豪腕」 [鳩山由紀夫]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年1月19日)からの転載です


 阪神大震災からちょうど15年になる日曜日、犠牲者をいたむ追悼式典が神戸市内の県公館で行われました。皇太子殿下が妃殿下を伴われて、ご臨席になったのは、皇室にとって久しぶりに明るい話題となりました。

 しかし気になることが1点ありました。5年前、両陛下がご臨席になった10周年式典もそうでしたが、式典の後半で、モーツアルト作曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が「献唱歌」として歌われたことです。
http://homepage.mac.com/saito_sy/yasukuni/SRH1802mokutou.html

 追悼式典は官民合同の県民会議が推進する15周年事業の一環ですが、会長は県知事で、事務局は県庁に置かれています。県の予算が使われ、県の施設で行われた式典で、イエス・キリストを賛美する「聖体賛歌」が流れたのです。

 指摘したいのは、完全なダブル・スタンダードが続く日本の宗教政策です。宮中祭祀や神道に関しては厳格な政教分離主義が採用される一方で、ほかの宗教に対してはゆるやかな分離主義がとられています。要するに宗教差別です。

 宮中祭祀が昭和40年代以降、簡略化されたのは、拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』に書きましたように、入江相政侍従長の祭祀嫌いにくわえて、天皇の祭祀は宗教だから公務員は関わることができない、と考える厳格主義が蔓延したからです。

 たとえば、天皇に代わって側近の侍従を三殿につかわし、拝礼させる毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)は、昭和50年8月の宮内庁長官室会議で、神殿からなるべく離れた庭上から、装束ではなくモーニングで、と「改正」(卜部日記)されました。

 ところが、仏教、キリスト教には厳格主義はとられません。関東大震災・東京大空襲の犠牲者を慰霊する東京都慰霊堂の追悼行事は仏式で行われています。長崎の二十六聖人記念館およびレリーフは市有地に建てられています。小泉政権時代には首相官邸でイスラム行事「イフタール」が行われました。

 信教の自由を保障することは重要であり、天皇の祈りこそは古来、日本の多神教的、多宗教的文明の核心ですが、政府のダブル・スタンダード政策は世界に類例なき文明の根幹を揺るがしています。


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「小鳩」政権に同居する多神教文明の欠点
──主体性なき「友愛」と一神教的「豪腕」
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▽アメリカのユニクロは日本のユニクロと違う

 さて、作家の村上龍さんが編集長をつとめるメールマガジンJMM(Japan Mail Media)に、ニューヨーク在住の肥和野佳子さんが昨年末、日本では人気を独占したユニクロのヒートテックがアメリカでは必ずしもそうではないことについて、リポートしていました。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/report27_1885.html

 セントラル・ヒーティングが完備されているアメリカでは、暖かい下着の需要が低いだけではありません。アメリカ人の客のニーズに合わせたサイズの大きい品揃えがされていないこと、さらに店員の質が低いことを、肥和野さんは指摘しています。

 需要の多いXL、Lサイズが客の手の届かない上の棚につるされている。たまりかねた肥和野さんが指摘しても、店員は上の空のようで、同じユニクロでも、お客様第一で対応する日本のユニクロとは雲泥の差だというのです。

 なぜそのような日米の違いがあらわれるのか? 国際税務のスペシャリストである肥和野さんのリポートはそれ以上、追究していませんが、品揃えや社員教育では乗り越えられない、もっと深い理由がありそうです。

 つまり、文明の本質に関わることです。


▽常識論的なデール・カーネギーの法則

『人を動かす』『道は開ける』などの世界的ベストセラーで知られる、アメリカの実業家デール・カーネギーは、人間関係論に関するさまざまな法則を明示しています。けれども面白いことに、それらは私たち日本人には常識的なことばかりです。たとえば、次のように、です。

 人の批判をしない。
 誠実に対応する。
 自己主張せず、聞き役になる。
 相手の意見を尊重する。
 自分の誤りを認める。
 人の身になって考える。
 人を誉める。

 ひと言で言えば、他者の立場、他人の価値観を認める思いやりでしょう。

 カーネギーを最初に読んだとき、何をいまさら当たり前のことをいっているんだろう、なぜこの程度の常識論がベストセラーになるのだろう、と思ったのは私だけでしょうか? 「人を動かす3原則」などといえば、いかにも新発見のように聞こえます。けれども、その中身は日本人ならだれでも知っている処世訓であって、日本のユニクロの社員ならずとも、ごくふつうに実践していることです。

 自分の価値観を絶対視せずに、他者の価値観を認め、他者の価値基準に立って考え、行動する。価値の多様性の容認を日常的に実践するという、日本人には当たり前のことが、アメリカでは当たり前ではない。だからカーネギーはいまも売れ続けているし、アメリカのユニクロは日本のユニクロとは違うのでしょう。


▽マンスフィールド大使の天皇論

 アメリカだけではありません。アジアの国々、さらに遊牧民の文化を伝える国に行くと、たとえば、タクシーに乗ったら、メーター料金を乗客の人数分、かけ算して支払うよう要求された、というような体験談をよく聞きます。

 けっして笑い話ではありません。市場(いちば)でのちょっとした買い物でさえ食うか食われるか、気が抜けません。値切り交渉は不可欠で、いかにうまく客を出し抜いて、一銭でも利益を得るか、があからさまです。お客様のために、などというぬるま湯の対応は期待できません。飲み屋で酔いつぶるのはご法度です。

 客はむしり取るための存在に過ぎません。お客様第一主義が当然と考えている日本人は、あまりの違いに戸惑い、疲れ果て、たいていは白旗をかかげることになります。

 それは彼らが貧しいからではけっしてありません。民度が低いからではありません。社員教育の不徹底でもありません。経済行為の背後にある基本的な倫理、文明のかたちが違うからです。

 安倍晋三元首相の『美しい国へ』に、アメリカのマンスフィールド大使と安倍晋太郎外相の逸話が紹介されています。マンスフィールド大使が「日本の経済発展の秘密とは何か?」を問いかけ、安倍外相が「日本人の勤勉性」と答えたのに対して、大使は「天皇です」と述べたというのです。

 子息である安倍元首相は、天皇という微動だにしない存在があり、社会の安定性を失わなかった、だから経済が発展した、と説明していますが、それならなぜ天皇の存在は微動だにしないものであり続けてきたのか? 天皇とはどのような存在なのか? より重要なのはそこでしょう。


▽他者のために祈る天皇

 唯一の価値体系しか認めないのが一神教世界です。まず絶対神の存在があり、それを信じる個人としての自分がいます。自分の神が唯一にして絶対であれば、信じる神が異なることによって、ときに殺戮と破壊が正当化されます。

 してみれば、一神教世界にあって、たとえビジネス社会に限定されるとしても、カーネギーが他者の価値観を認めなさい、と説くことは、まるで宗教革命です。

 ところが日本の天皇は、それどころでありません。ご自身ではなく、もっぱら他者のために祈ることをご自身の第一の務めとされています。国と民のためにひたすら祈ることが天皇の天皇たるゆえんです。天皇の祈りこそは、価値の多様性を前提に、多様なる国民を多様なるままに統合する、多神教的、多宗教的な文明の中心です。

 歴代天皇こそ、さしずめカーネギーの法則の実践者です。公正かつ無私なる天皇の祈りが社会を安定させ、それを基礎に日本の経済は発展してきたのではありませんか? 日本最古の紙幣は、安土桃山時代末期に、皇祖神をまつる伊勢神宮の神職(御師)たちが発行した「山田羽書(やまだはがき)」で、伊勢の信仰を基盤に流通し、藩札の原型となったことは、きわめて象徴的です。
http://web.mac.com/saito_sy/iWeb/SAITO%20Yoshihasa%20Website/7E4F1627-B85B-11DC-9C5F-000A95D44250/7E91AEA2-78B3-11DD-A1F4-000A95D44250.html

 けれども日本の多神教的、多宗教的文明には2つの重大な欠点があります。主体性を失いがちになること、原理の異なる文明に対する抵抗力が弱いことです。

 面白いことに、この2つの欠点が同居しているのが、「小鳩」政権です。鳩山首相の「友愛」精神には国家の中心軸が見当たりません。小沢幹事長の「豪腕」は、天皇の文明とは異質の一神教文明的、戦後民主主義的な多数派の専制によって、天皇をも自由に動かそうとします。


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