SSブログ

2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第2回 宗教的儀式に対する憲法の立場 [靖國神社]

yasukuni4.gif
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第2回 宗教的儀式に対する憲法の立場
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


[1]憲法を読まないのが混乱の原因

 やや文章が唐突に流れて文の流れを混乱させるかもしれないが、靖国神社や戦没者追悼式、無宗教儀式などの出たついでに、日常はこんな問題にはあまりかかわっていない人にも理解しやすいように、ちょっとこの役人の作りだした儀式が混乱を生む元凶と一般ではされている戦後の憲法(日本国憲法)解釈に目を転じてみよう。

 じつは私は、いまの憲法に対しては、その成立の歴史などを見て否定的な立場であり、自主憲法の制定を強く望む一人である。

 なんで国際法で禁じられているのに、米軍にもっとも大事な憲法まで、違法に命令されて変更させられなければならなかったのか。

 そんな国のプライドを傷つけられた無念さが、この憲法がある限り消え去らない。

 だが、そんな立場の私から見ても、いまの靖国神社をめぐる混乱は、憲法そのものの規定に混乱のもとがあるのではなく、日本人が憲法をまともに読まないから混乱が起きているのだ、と言わざるを得ないと思っている。

 日本にはお互いに排他的な激しさを持つ深刻な宗教対立の悲劇はあまり起きなかった。

 そのため明確な宗教や宗教儀式、宗教活動というものの確たる概念も定まらぬまま、また宗教そのものをどう解釈すればよいのかの知識も、ただ本を流し読みにしただけでわかったような気になって、地についた世界での常識的な法の解釈もできないでいままで来た。


[2]円滑な国民生活こそ第一

 宗教という信仰的なものに関して「井の中の蛙」のまま、世界の中では非常識である門外漢の官民が、挙げてのこの条文に対して空想的な解釈をして、その結果が日本に無用の混乱と紛糾を生む結果となっているのだと、私は思っている。

 とくに宗教問題を扱うべき役人や、司法に当たる裁判官、法案作成を手伝う役人などの解釈は、宗教をまったく理解しているとは思えないひどいものだ。

 日本国の公務員だ。当然、第一に、日本国民の国民生活が円滑に滞りなく進むように、不断にこころがけるべき義務を彼らは負っている。

 だから国の立法府・司法・行政府などの各機関の関係者は、日本の憲法条文を解釈するに際しても、日本の社会をよく眺めて、国民が円滑に日常生活を営めるように解釈し運用すべき義務があると思う。

 残念ながら日本の現憲法は日本人が作ったものではない。

 この憲法の基本条文は占領軍の作った英文のものであり、それを米軍から和文に直して使用するように政府が押し付けられたものだということは、占領史を少しでも学んだ者にとっては常識となっている。

 だが、それにはそれであっても、いまの憲法には、西欧的な合理精神や知識を生かした条文も随所に取り込まれているのだ。


[3]靴に合わせて足を切る論の横行

 それを常識的に読み取らずにおかしな解釈をして、まるでその解釈を押し通すために国民生活を曲げようとするような方法、例を挙げるならば国民生活という足に合わない小さな靴を、無理やりはかせようとするような憲法の条文の解釈が横行し、「靴(憲法解釈)に合わなければ、足(国民生活)を切るか削ればよい」と言わんばかりの論が横行している。

 憲法が何のためにあるのか、そんな基本さえも理解せず、意味もない無謀な観念の押し付けが随所に横行して国民を悩ませている。

 官僚たちのこの種の頑なな解釈論は、素直に憲法を条文で読むのではなく、日本が戦争に負けて占領されている時期に、進駐軍の出した占領政策(この場合は神道指令など)の精神を基本にして解釈するところから生じていると言わねばなるまい。占領軍は日本の精神構造を変えるために徹底的な洗脳作戦を行った。その洗脳がいまだに残っている。

 占領軍の洗脳は、反対しそうなものは公職から追放し、マスコミや教育制度などを独占した上で強行した強力なものだった。その徹底的洗脳工作のため、頭がすっかり影響されてしまった大量の国民が生まれ、60年以上たったいまでも、日本に大きな混乱を生みだしている。

 いま注目する宗教条項とされる20条解釈などはそのもっとも代表的な例である。

 いまの日本はもう、占領下で占領軍の命令や宣伝に忠実に従わなければならない米国軍の支配に隷属せねばならない時代ではなくなっている。

 政治や立法や司法は、知らず知らずに身につけてしまったその影響を、頭を冷やして冷静に排除して、主権者である国民のために政治を心がけてもらいたいものだ。


[4]憲法20条の政教分離規定

 日本国憲法にはその20条に次のような規定が設けられている

 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 じつに明瞭に解釈しやすい形で条文が示されている。分類すると、

 〈1〉「信教の自由」を、全国民に保障する

 〈2〉「宗教団体」が、国から特権を受けることや政治上の権力行使の禁止する

 〈3〉「宗教上の行為、祝典、儀式又は行事」に、参加を強制することを禁止する

 〈4〉「宗教的活動や宗教教育」を、国やその機関がすることを禁止する

 と、それぞれの概念に分けてはっきりした規定をしている。

 いわゆる法学の世界でいう「政教分離」の規定だが、日本人には、その規定の必要が、国民各層に痛切に感じられた歴史経験が過去に少なかったために、「ああそうなっているのか」と思われる程度以上の緊張感もなく受け取られている感がする。


[5]西欧諸国が体験した宗教抗争の悲劇

 政教分離の原則が憲法上の大切な基本原理として出来上がる背景には、宗教教派間の争いなどで、過去に西欧諸国などが身をもって経験してきた苦々しい体験が基礎にある。

 国家権力である世俗の政治権力と、ある一つの教派が結びついて、他の教派に属する人々の弾圧に動き、その結果、あるいはこれに反抗する連中との騒動によって、何百万、何千万人もの人が殺され、あるいは弾圧され追放される悲劇が、過去に多くの国で発生した。

 西欧のひどい国では、何割もの人口がこれによって殺されてしまった。宗教を世俗の争いに持ち込むことの恐ろしさは、世界ニュースなどをこの観点で眺めれば、いまの人にも容易に理解ができるだろう。

 その争いの苦悩の中から、この憲法に定めた一つ一つの条項が、世俗国家を宗教が支配してはならない、国民の心の中の信仰の世界にまで、国が土足で踏み込むことがあってはならない、という規制が成立したといういきさつが政教分離の根本となっている。

 この原則は、19世紀の時代までは、国民一人一人の自由な宗教信仰を弾圧してはならない、と保護するもので、無宗教や反宗教は、国民生活を乱すものとして、それまでを保護するものにはされていなかった。当時の人々はほとんどが神を信ずる生活をしていたし、信仰は人々の生活になくてはならないものと思われていた。

 そんな宗教信仰そのものを否定するものは、文化を否定する危険な連中であり、人類共通の敵だと思われていたのだ。


[6]世俗国家は宗教に関与せず

 しかし二十世紀になってから、宗教信仰も、政治思想やイデオロギーなどと同列に論ずべきだとする法概念が一般的になってきて、いままでは除外されてきた、「宗教を信じない自由」、あるいは「否定する共産主義や無政府主義などの無神論」者にも適用されるように解釈は拡大された。

 その精神は、一つの教派を「国教」と定めて運営されている国教制度を採用している国においても、国民のために、全部ではないが、かなりの部分が取り入れられるようになってきている。いまでは国の国民の権利を定める大原則だ。

 日本の憲法の条文を素直に読めば、日本は国民一人一人の心の中にある宗教心は大切なものだが、国などの公共的な機関は、それを国民の間にあるがままにまかせて干渉せず、特定の宗教教団に、その教団であることを理由にしての特権も与えてはならない。

 宗教の問題は、世俗国家の関与する次元とは別問題のことだという態度に終始することを求めている、と読むのが自然である。

 国や公共機関の取る態度は、これ以上でもこれ以下であってもならない。

 国民は一人一人が自由な信仰を持ち、自由に暮らすことが望ましい。

 宗教的精神生活は、国民生活に潤いを与える。

 世俗国家では満たされないものを、宗教信仰は埋めてくれる働きがある。

 しかし自由な信仰の状態を、国の力で故意に変えるような助成ないしは圧迫をすると、国民内にいろいろある宗教教派のバランスに対する国の干渉となる虞もあり、また西欧の過去の時代に逆戻りするような可能性もあるからだ。


[7]参加を強制しない

 しかし、こんな多様な信仰をもつ人々が構成する国であるから、国が行為や祝典、儀式、行事などを行うときには、それが民間で行われている国内の常識に従って、国がそれらを宗教と関わりのある形で、みずから主催することもあるだろう。

 それを禁止したのでは国民の宗教環境に悪影響を及ぼす。反対の意味での宗教的活動にもつながる。

 そんな場合はむしろ、あるがままの宗教的環境は国なども大事にするほうが望ましい。

 しかしそんなときでも、国民の信仰は多様だし、その儀式などに参加したくない人も出るだろうから、国は決して参加を強制してはならない。

 宗教的に、一般的だとどの教派の儀式をおこなっても、あるいは無宗教という役人の考え出した新宗教のかたちで行っても、多様な国民の中には、どんなかたちであっても、必ず違和感を持つ者は出てくる。

 そんな場合には、(民主主義だから多数者の慣習は大事にしながら)、せめて彼ら(これに不快感を持つ少数者に)に参加を強制しないという、少数者に対する配慮だけは残しておかなければいけない。

 そう言っているのが憲法の規定なのだ。

 憲法はさらに求める。

 国が行う教育などは、国民の中にある各種の宗教信仰がどんなものであるかを知識として教えるところまでは、国民として生活する上の大切な知識であるから認めても、国などの公教育が、特定のある教団の教えが望ましいから、その信者になれとか、あるいは、あの教団に入るな、などの宗教教育・反宗教教育(これはどちらも作用としては同じ宗教的活動として、いまはとらえられている)は行ってはならないと戒めている。


[8]諸外国の解釈もほとんど変わらない。

 諸外国でも、この「信教の自由と政教分離の解釈」は、私が説明したような解釈の下で、至極当然のこととして実行されている。

 西欧諸国など、キリスト教徒が多く、もしくはキリスト教が国に大きな影響力を持つ国では、国の儀式は多数の属するキリスト教のある教派か、あるいはそれらの共通するキリスト教各派共通の国内常識を取り入れるようなかたちで儀式などは行われる。

 タイやアジア諸国のような仏教国では、仏教式で行われることが多いし、その他のイスラム教などの諸国でも、多くはこの考え方を採用して儀式を行っている。

 一方、共産主義など無神論である唯物史観思想が国の政権を持っている国々では、いまの日本のような、神の存在をなるべく無視した形で儀式が行われる。

 このように当たり前の見方で憲法を眺めれば、日本に馬鹿らしい「無宗教儀式」などというものが出てこなければならない理由はない。

 日本は伝統的に国民の間では葬儀や法会、橋やトンネルなどの開通式、供養、年祭などの大半を仏教各派の儀式によって行い、結婚式や地鎮祭、上棟式、公的儀式や式典などの大半を明治以降は神道儀式を主として行ってきた。

 そのほかに長崎など、キリスト教の儀式で行ってきたところもあるが、そのあるがままの実情を眺めて、ことさらに違和感をもたらすことのないように実施すればよいだけである。

 ただその場合、気をつけなければならないのは、それでも違和感を感ずる人に対しての救済策だ。

 たとえそれが少数者であっても、国は決して参加を強制してはならない。多数の者は自然に日常的に儀式が行えるように配慮する。

 ただ少数者には、それを彼らに合わせてすることは多くの国民に違和感を持たせるのでできないが、せめてむりに参加を求めない。もっとも現状に合う原則なのだ。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。


タグ:靖国神社
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。