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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第4回 靖国神社とその歴史 [靖國神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
第4回 靖国神社とその歴史
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[1]一般の神社とは別の施設として

 靖国神社には、国の命令により従軍して散った二百数十万柱の英霊が祀(まつ)られている。政府は明治維新ののちの明治2年、戊辰戦争が終結すると、それまでに倒れた戦没者たちをまとめて祀る施設として東京招魂社を設けた。これが靖国神社の前身になった。

 東京招魂社は創建されると政府の軍務担当の兵部省の管轄となり、勤皇方の元兵士などを神職として採用、各地の乱や西南の役の政府軍戦没者などを相次いで合祀したが、明治12年、「別格官幣社靖国神社」と社号、社格が定まる前後から、その後の神社の性格を明確に定めた公的な特別の慰霊顕彰施設としての姿が固まってきた。

 靖国神社という名称は、国の独立を確保し平和を求めるために戦争で散華(さんげ)した人たちを悲しみ偲ばれた、時の明治天皇が、詔勅によって、特別に「靖国神社」と命名された慰霊顕彰の施設であることも忘れてはならない。

「靖国」の名には、安らかな国、争いのない穏やかな国。その実現を英霊たちに誓い、目指して行こうと切に祈られた明治天皇のお気持ち、大御心(おおみこころ)が込められている。ちなみに靖国の元になる「安らかな国」は、神社の祭詞などには「平らけく安らけき浦安の国」として必ず出てくる理想郷だ。

 争いなどの波風が立たず穏やかで、皆が安心して暮らせる平和な国、建国以来、天皇が日夜祈られてきた国の理想を指している。

 靖国神社はこのようにして、別格官幣社という、形は「神社」の中に含まれるが、実質的には祈願をする伝統的な一般神社とは別の、近代国家の施設として、新しい国の英霊追悼の施設として発足をした。管轄も、ほかの神社が、のちには内務省になる全国の神社を担当する部局からは別に切り離して、特別に、国を守る陸海軍の管轄する施設と定められた。


[2]名称と形式が神社に似る理由

 靖国神社が、名称も神社とされ、形も神社とよく似た形にされたのは、いろいろの事情はあろうが、英霊への慰霊や顕彰が国民にとっても、丁重で格式高いものと受け取られる施設にしようとの思いからだと思われる。

 国民感覚で、国の公的な祭祀で、もっとも丁重な儀式は「皇室の儀式」宮中祭祀だ。それにもっとも近いのが、天皇さまがみずから祭りをされる伊勢の神宮の祭りだ。

 その祭りを見習って、宮中での儀式の雰囲気を強く残しているのが、全国の神社である。

 とくに明治時代になってからは、日本の儀式などは、民間の個人の儀式としては各派の仏教式のものが中心的な地位を占めていたが、国や市町村など社会生活、公共の儀式は神社神道の儀式が主として取り入れられ、国礼式ともいえる形に整備され、日本人の宗教儀式の二重性がはっきりしてきていた。

 くわえて靖国神社の創建には、格別に強い陛下の「御心」が示されていた。

 宮中の儀式にもっとも近い神社神道の儀式の形を基本にし、国の守りをつかさどる軍の所轄する顕彰の施設であるから、近代的な軍の儀仗という、儀礼方式をも加味して靖国神社を維持する。

 それがもっともふさわしい靖国神社の管理方式であると考えた。私はそのように受け取っている。


[3]皇室が深く心を寄せられ

 皇室の祭儀方式を土台にした神道儀式で、しかもそれに戦没英霊たちがよく知る軍として栄誉をたたえる、もっとも重い儀式である儀仗を取り入れた祭式で敬意を表す。しかも天皇陛下や国の指導者、将軍たちが参列参拝する。そんな形が整えられた。

 靖国神社には、深く彼らの死を悼まれた明治天皇をはじめ、歴代の天皇はじめ皇族方も折にふれては参拝をされた。靖国神社の例祭には、必ず皇室からのお供え物が天皇のお使い(勅使。ちょくし)によって供えられ、国の要人たちが参列をした。

 靖国神社の神門の扉には、立派な菊の御紋章が付けられており、ここが皇室の深く心を寄せられる追悼の場であることを示している。

 また社殿など隋所には、英霊たちをしのぶ桜の花を、皇室の紋である十六弁の菊の花の真ん中に配した独特の神社の神紋が飾られている。

 神社と桜の花。桜は雄々しく華やかにいっせいに咲くが、まだ元気なうちに散ってしまう。人々が、若くして戦陣に倒れて散った英霊たちをしのぶ花としてもっともふさわしいと感じた花だ。

 維新の後に、靖国神社の前身である東京招魂社が設けられたときに、木戸孝允ら長州の維新の元勲たちが、ともに戦って維新半ばで戦死した同士たちの名を思い出して泣きながら、一人一人の名前を呼びながら境内に植えたと伝えられる戦士をしのんだ花が桜である。

 いまでも桜の木が境内を覆う靖国神社の神紋には、こんなエピソードも込められている。


[4]陸海軍省が決める合祀基準
 さて、当初は維新の志士や内戦で倒れた新政府の戦死者などを祀っていた神社は、靖国神社の名称を明治天皇から賜った前後から、国のために戦って戦死した戦没者の御霊(みたま)を追悼する施設として明確な方向付けがされるようになってきた。

 また靖国神社は戦争にて戦死した御霊をしのぶ施設だから、祀られるのは戦時の戦死者で、たとえ公務で殉職しても、訓練や国が戦闘行為に入ったとき以外の事故死亡者なども祭神とされないことにされた。

 誰を戦死した英霊として靖国神社に合祀するか、それは国が決定をした。

 その仕事は、陸海軍省の官房の審議室で慎重に進めて決定された。

 そうして選び出された英霊の名を陛下にお見せして靖国神社に合祀する。その方式も固められた。

 合祀基準はその後、様々なそれまでなかったケースも出てきて、幾度か変更されたこともあったが、厳重慎重に国によって審査のうえ決められる手続きは変わらなかった。

 日本が外国との接触を断つ鎖国を解いて、世界の国々と相並んで独立維持を求める時代になると、良し悪しは別として(私はかなり肯定的な立場だが)、海外との摩擦も経験せざるを得ないことになる。

 不幸な軍事的な衝突のために、戦没する英霊も増えてくる。

 それは必然的に英霊に対する国としての追悼の施設が必要になり、靖国神社がその役目を果たすことになってきた。


[5]厳しい国際情勢の荒波のなかで

 日本という国は、死んだ者の死後の霊など、何の関係もないと切り捨てる冷淡な世俗国家になってしまっては、文化的、精神的にも成り立たない構造である。冷淡に思いきることのできない歴史を抱いて続いてきた国なのである。

 正確な靖国神社史は靖国神社をはじめ、さまざまなところから多くのものが発表されているのでそちらに譲るが、日清戦争、日露戦争、数々の戦乱の末の大東亜戦争、そして昭和の敗戦まで、靖国神社の歴史の背後には、内外ともに混乱する激しい荒波のなかに、独立国として伸びようとした日本の歴史があった。

 日本は厳しい帝国主義・植民地主義を露骨に競い合う国際情勢の中に、遅ればせながら仲間入りした国として、自国の存在を認めさせていかねばならない切羽詰まった状況を歩んできた。

 世界は欧米など白人国家がすでに力でもってすべての利権を抑えて睨み合っている時代であった。そこには新興有色人国家の日本が割り込んで進出するのを許さない厳しい環境があり、日本は国の主権を広げようとすると、それらはよその国への既得権益にぶつかり、ときにはどうしても国の存亡をかけて戦わねばならない事態も避けられなかった。

 それは日本の近代国家として独立国として進む上には避けて通れない道ででもあったと私は判断している。空論のみを論じ合って良し悪しを論ずるよりも、現実の姿をそこに生きた者の立場で眺めなければならないと思う。

 日本の歴史、世界の歴史のなかでの日本がどのような道を歩んだかの歴史認識は、個々の歴史の価値観に属するのでここではふれない。私がこのことに深く首を突っ込むと、それだけで、靖国神社のことなどそっちのけで、たいへんな言い合い、口論が生まれてしまう。


[6]合祀決定の実権を持たなかった

 ただそれらは、日本という国が西欧諸国の支配を固めるなかに、どう存在を維持していくかの、日本の国自体が、取り組まざるを得ない国の運命を決する問題であった。

 その良し悪しを論ずるには、当時の視点で、冷静に論じなければならない問題だろう。

 日本は荒波の中、国をまとめて全力で独立確保に立ち向かった。

 その荒波は、政治には自ら関与しない存在であった靖国神社にも、影響しないわけにはいかなかった。

 靖国神社は、国家権力の実力行使である戦闘行為の結果生じた戦没英霊を祀る施設である。

 知っておかねばならないのは、神社は国家の一組織であり戦略を論ずる場ではない。

 神社は国の仕事の中の、英霊に対する追悼や慰霊の祭りという儀式の部分だけを担当する場所であり、政治的な権限を発揮する場所ではなかった。

 それにだいいち、祭神にだれを選ぶかという、もっとも大切に見える祭神の決定権さえも神社にはなかったことを見落として論じてはならない。

 ここは大切な点であると思うので、しっかり頭に入れておいていただきたい。


[7]慰霊することだけが任務

 国には祭神の適格性を審査し祭神を選択する権限があったが、靖国神社にはそれはなかった。

 ただ、厳格な国の審査によって、選ばれた英霊に対して慰霊するのが靖国神社の任務であった。靖国神社には、ひたすら祭りをするという任務だけがあって、政治的な価値観を率先発揮する権限はなかった。

 国のため、盛んに宗教的な活動をしてきたという人もいるが、そんな活動を独自に行う自由を神社は持っていなかったのだ。

 ただ、ひとたび戦争が始まれば、国が一丸となってそれに取り組み、勝とうと努力するのが近代の総力戦というものである。

 国民で、負けようと活動するもの、政府に反対するものは、宗教活動ではないが、自国に弓弾く行為であり、法に触れるとされるのは当然である。そのために靖国神社は、「祈ることにより、戦いや争いのない平和な靖国づくり」を本来の目標にしながらも、もちろん戦勝を祈ったし、ときには軍や政府などが戦意高揚を訴える場所に選ばれざるを得ない時期も経験した。

 しかしそれでも、不幸にして戦陣に倒れた英霊たちを惜しみ、その御霊に平和な国が来ることを祈る斎場として、敗戦までは多難な道のりを歩んで機能してきていた。

 こんな靖国神社を、現実に先輩方が歩んできた歴史の背景を、自分がそこに一緒に生きているという臨場感をもとに客観的かつ冷静に見ずに、単純に靖国神社は戦争遂行のための軍国主義の象徴だったと割り切ろうとする人がいる。

 それは明らかに間違っている。


[8]悲劇の主人公たち

 こんな視点で歴史を振り返れば、日本ばかりではなく、世界中のほとんどすべての個人や組織が、そろって軍国主義だったという、論じ合っても何の成果もない空論になる。

 くどいといわれるかもしれないが、さらに付け加えなければならないことがある。

 靖国神社の祭神とされた人々は、戦争においての赫々(かくかく)たる勝利を収めた英雄たちではない。

 いろいろの境遇の方がおられるが、生きて故郷に帰ることができたならば、個人としての楽しい生活に戻れたろうし、この日本に大きく貢献もできただろう人々だった。

 戦場において勝利を収めた戦場の英雄たちは、堂々と国から栄誉を与えられて凱旋(がいせん)し、人々の称賛を得て社会に復帰していて、靖国神社に祀られることはない。

 そればかりではない。靖国神社の英霊たちは、その戦時中の功績によって神社に祀られるのではなく、惜しまれつつ戦場に散ったその死を悼んで、ここ靖国神社に祀られている。戦勝して英雄として郷土に錦(にしき)を飾ることのできなかった悲劇の主人公たちなのだ。

 靖国神社には二百万を超す英霊たちの霊が祀られているが、それらは戦争に従事していたときの階級や身分、軍功などに関係なく、みな同じ人柱として名前が記され、平等に祀られている。

 それだけではない。御霊(みたま)はすべてがひとつとみなされ、靖国の英霊として祀られている。


[9]一般神社と違い、現実社会に密着している

 靖国神社を訪れた人は、ご社殿の前に立つと、おおむね頭を下げ、柏手を打ち拝礼をする。全国の神社への参拝法といっしょである。

 だが、神社をよく知る者、神道人はそれをもって簡単に靖国神社と全国の神社とを同じものとは思わない。

 神社の神道とは違う面がじつに多い。

 神社と比較して、かなり我々が暮らす現代社会とのつながりの深い施設なのだ。

 まず祀られている祭神だ。

 全国の神社は、神話や伝承の中から自然と神と信じられている対象だ。そのほかにこの世に生きていた人神も祀られているが、人神は神社にはその死後すぐに祀られるのではなく、生身の生きていた時に持っていた神道でいう「けがれ」が消え去り、すがすがしい魂(和御霊=なごみたま)になってから、功績を慕う人々によって祀られるのが一般だ。

 だが靖国神社の英霊は、俗社会でももっとも俗である国が、誰が条件に合うかを審査して、祭神に決定して合祀する。

「けがれ」に関して、一般に神社には、喪に服している人は、喪中はつつしんで参拝しない。しかし靖国神社には、生前の心の傷いまだに冷めぬ英霊の親や子、妻などが参列して合祀祭がおこなわれる。


[10]「宗教活動」は戦後になって始まった
 全国の神社で正式に参拝するときは、事前に喜怒哀楽や心の歪みなどをはらう「お祓」を済ませたのちに参拝するが、靖国神社で、同じような作法を行っても、どこかしっくりしない。

 ときによっては一般の国民個々人にとって、参拝は「罪けがれ」に及ぶような悲しみ、悔しさ、甘え、そんなものまでが注がれることもある。

 また、神社の入り口には一般に「下乗」「下馬」などの掲示があって、馬は駕籠(かご)などとともに、乗馬のままでは神様に失礼だと遠慮して外につないで参拝するが、靖国神社の神門などはわざわざ近衛騎兵が旗指し物(はたさしもの)を掲げて参拝出来る高さになっているし、一般の参拝儀礼とともに軍隊の捧げ銃や、祭典での和楽器に代わっての軍楽隊、太鼓に代わる大砲などが取り入れられている。

 一見、神社と思える靖国神社にも、こんな他の神社とは違うところがいくらもある。

 第二回目に書いた「憲法解釈」を思い出してほしい。

 戦後の靖国神社は、国の手から切り離されて「宗教法人」という神社とよく似た法人となってはいるが、外国でも一般に通用している「宗教的活動」とされるところが、すべて「宗教法人」にされる前にはなかったことが注目される。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

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