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2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国 第5回 戦後の靖国神社 [靖国神社]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第5回 戦後の靖国神社
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[1]爆破焼却してしまえ

 神道指令という全国の神社に大きな改革を迫る占領軍命令で、米国からもっとも厳しい圧力を加えられた靖国神社は、廃絶するか、あるいはどんな形をとってでも英霊追悼の施設として占領中を生き残るか、の厳しい選択を迫られることになった。

 全国の神社は神社本庁というまとまった組織を新設し、その下に「宗教団体」として国の手から離れて生き残る方策を模索する道を着々と進んでいるのを見て、靖国神社もこれにならって暫時、生き残りを図ることになる。

 だが、そんな道を靖国神社が求めだしたのは、昭和20(1945)年の末からのことであった。

 当初、靖国神社は、みずからがどの国にもある無名戦士の慰霊施設のようなもので、軍がなくなっても、施設そのものが国から切り離されるという切迫感はなかったようだ。

 しかし占領軍の総司令部(GHQ)の中には、占領以前から、「靖国神社は日本国の精神的な団結の象徴的な施設であり、在来の国家の戦う機能を完全に破壊するためには、爆破焼却してなくしてしまえ」という意見が出るほど敵対の意識は強かった。

 それは戦時中に練られた対日占領方針にも濃厚に出されて、とても所轄が代わって残れるような条件にはなかったのだった。

 幸い靖国神社の爆破は、当時カトリックの教皇使節代行をしていたビッテル神父などによって救われた。マッカーサー総司令部総統は爆破の可否を彼に質したのだが、彼は強く軍の靖国神社破砕方針をいさめた。


[2]後手に回る日本の対応

「いかなる国家も、国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。
 もし靖国神社を焼き払ったとすれば、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残る。神社の焼却、廃止は米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。
 靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源だというなら、排除すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。いかなる宗教を信仰するものであれ、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを進言する」

 こんなことなどもあって、神社は破壊からは救われたのだが、神社の前には厳しい難問が控えることになった。

 戦争というものの実体験がない戦後の日本人の間には、最近の戦争は、国際法で決められた条件さえも無視して、あらゆる戦争やその後の占領行政が行われやすいという現状を、実感するのが難しいかもしれない。

「話し合いで戦争が防げる」などという信仰が、現実のものと思われている思考からは、戦争というものの恐るべきエネルギーと従事する者の感情などは、なかなか想像できないからである。

 一種の平和ボケの状態でいるからだ。

 だが、そんな人たちのことはさておいて、あの大戦ののちの日本政府もまた、降伏しても、占領支配が国際法の原則の下に行われるだろうと勝手に信ずるような空気が強く、日本側の対応は占領軍の後手後手を、あわててついていくような状態だった。


[3]国の施設でなくなる

 戦いが終わった直後だ。

 戦地からは続々復員する兵士たちが戻ってくるが、それとともに遺骨も戻り、戦没兵士たちの新しい名簿もどんどんこれからは増える。

 降伏条件により、祭神を決定する管轄である軍はなくなることになっている。

 そこで陸海軍省では、軍がなくなる前に、その後に別の部署に靖国神社の管轄が移ってもよいように、靖国神社で、これから判明する英霊を含めて、満洲事変以降の未合祀者で将来、靖国神社に合祀されるべき英霊を一度に招魂する臨時大招魂祭を開かせた。

 これは今後の大東亜戦争での戦没英霊合祀への筋道をつけ、所轄が変わっても、来るべき軍が不在の時代に同じ条件で連続的に祭神を加える道を講じ、占領時代に備えようとしたものだった。

 たが、その祭典実施の直後に「神道指令」が出され、それどころではなくなった。

 指令によって靖国神社が、国の施設でいられなくなってしまったのだ。

 軍による祭神の決定が軍でできなくなっても、祭神の決定権はこの祭典によって、以後は政府の新機関などから従来の合祀基準に照らした名簿の提供が有れば何とかいける、靖国神社の連続性は確保された、と神社がホッとした直後のことだった。


[4]「宗教」として生き残りを図る

「神道指令」は、神社などの組織は国など公共の設備としては存続が許されず、国が今後は靖国神社の行事に参加することさえも制約され、しかも国とつながったままでは存続を許さない、という占領中の絶対命令であった。

 こんな動きが出るだろうことを事前に察知した全国の神社界は、早くから動いていた。

 全国の神社は、これもすべて国の機関とされていたが、すでに財団法人的な存続策を図って神社本庁を設けて存続する道を、終戦以来、探っていたのだ。

 しかしこの指令で、GHQが「宗教団体」としての存続を図る以外に、神社の存続は許さないという方針だと知ると、直ちに「宗教団体」として生き残る道を模索しはじめた。

 靖国神社にも旧軍関係者や遺族や英霊の戦友、一般の国民などから、指令が出ても「何としても神社の存続の道を求めてほしい」との声が強かった。

 そこで神社界などの話も聞いて、全国の神社にならい、靖国神社も21年の4月、民間の宗教団体として独立することを決定した。

 何でこんなことをくどくど書いているのか、と思われる読者がいるかもしれない。

 だがこれからの靖国神社を考えるとき、これはきわめて重要な分岐点なのである。


[5]当面の留守番役

〈1〉国は靖国神社を、できれば軍が解体した後も、国の一施設として残したかった。だがそれは神道指令で占領軍の認めるところでなくなったと知った。

〈2〉他方、占領軍は、全国の神社などが在野の団体であっても、宗教団体以外になる道は認めない、との方針でいた。

〈3〉靖国神社は国民に対して、布教などの宗教活動をする組織ではなかった。祭神の決定という宗教団体にとってはもっとも重要なことにも、従来は関わってはいなかった。

 軍の決めた祭神を合祀するだけの機能しか持っていなかった。だから公機関から離れても、祭祀だけをする民法法人になるのが望ましいと思った。

 だが、情勢は宗教法人になる以外、存続の道がないことを知らされた。

〈4〉加えて、靖国神社は神社より、厳しい環境の下に発足せざるを得なかった。

 宗教団体はそののち憲法が代わり法人として存続することになるが、米軍は、全国の神社に認める境内地の払い下げなども、靖国神社には認めなかった。

 米軍がつぶそうと思ったら、その土地から出ていけ、といえば、それだけで神社は成り立たない。米軍は靖国神社をいつでもつぶせる状況の下に続けさせて、占領が終わるときまで監視をし続けたのだった。

 このような状況下に宗教団体として発足した靖国神社は、あくまでも米軍の占領中、日本国が自主的に政治をおこなう権限がないという特殊の条件の下で生き残ろうとする暫定組織であり、独立を回復したその後には、ふたたび国の機関に復活しようという含みを持った暫定組織であった。

 靖国神社は宗教団体として発足したが、その決定機関である責任役員も総代も奉仕者も、規則にどう謳われているかにかかわらず、極論すれば、国という機関が手をつけられないでいる間の留守番人ともいえる存在だった。


[6]独立回復後の新たな難題

 そんな靖国神社だったので、講和条約もでき、日本がふたたび独立を回復する前からも、靖国神社をふたたび国の施設に戻したいという声は、国民の間に広く盛り上がるようになってきた。

 靖国神社を支える人たち、さらに英霊の遺族たちの間には、「お国のために死んだ人は国が祀るのが当然だ」という意識は強い。

 昭和26年秋、講和条約を締結して帰国した吉田茂首相は、まず第一に靖国神社に正式参拝、英霊たちに不自由をわびるとともに独立をふたたび回復したことを報告した。

 当時の大多数の国民たちは、靖国神社をふたたび国家護持することを熱望していた。

 占領軍命令の神道指令は、独立回復の時点で失効する。これからは憲法がすべての基本法になる時代になった。その憲法には、この連載の2回目〈http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/〉で記したように、障害になる条項は見当たらない。

 国家護持を求める声は、講和条約の締結前から各地でわきあがり、国会などにも請願が相次いでいた。靖国神社法も国会に提出された。

 だが、占領の時代は日本に、それまでにはなかった新たな難題を作り出していた。

 占領軍が政府や国会の上に君臨する時代は、占領軍の意のままに動き、その方針や解釈を国民生活以上に重視する政府や国会議員、マスコミ、学者、文化人などを生みだして、彼らが国のあらゆる機関を維持運営する要職に就いていた。

 彼らにとって、彼らが国内で力を得ることができるようになった源泉は、占領政策そのものの権威であった。彼らは靖国神社の再護持について、まるで神道指令が出された初期の米軍のように、神社という宗教の儀式を、国の制度に持ち込むことはできないと反対した。

 役人も占領時代の空気にすっかり馴染んでいて、それ以外の解釈をかたくなに否定する。靖国神社法案はそんな占領時代の空気の中に、法案さえも骨抜きにされ、しかも国会ではたなざらしにされ、そのうち国会に出されることもなくなってしまった。


[7]首相の公式参拝要求に後退

 靖国神社法案が多くの国民の支持を受け、強い国民の熱意があったのにかかわらず、いつの間にか消えていってしまった背景には、とくに熱心であった人々、英霊の家族や英霊の戦友、かつての軍の関係者など、運動の前線にいた人が長い運動が続く間に命が尽きて、相次いで去ってしまったことが大きい。

 国民の要望を受けて靖国神社法の成立を約束して票を得て当選した国会議員たちも、占領軍の解釈そのままに筋道を立てることのみを考えて、国民の心を無視した役人たちの「国家護持には条件がある」と宗教性排除を根拠に反対する動きの前に、はなはだ熱意が乏しく、そのうち議員側の提案により、この運動は首相の公式参拝を求める運動に後退させられた。

 首相の正式参拝などは、すでに占領中の吉田首相以来、何人もの首相によって行われているごく当たり前のことだった。それで充分に首相の参拝として成り立っていた。

 公式参拝という言葉は「非公式な参拝」に対する造語であり、正式参拝と略式参拝に参拝方式を分類するこの種の施設に関する慣習に馴染むものではない。

 国会では参拝の作法や玉ぐし料の出どころなどを根拠に論じているようだが、それでは靖国神社に公的に敬意を表するために参拝する諸外国の軍隊や外国公人の参拝は、個人の立場ということになってしまうのか。奇妙な話である。

 それは三木首相が参拝を「個人の立場で参拝する」と発言して以来、日本だけでの珍妙な問答として8月15日の新聞用の言葉としてクローズアップされたに過ぎなかった。

 三木首相はお忍びで、英霊たちに「おれはこの国の首相ではないよ」と隠れて参拝しなければならない理由でもあったのだろうか?


[8]昭和40年代以後、冬の時代に

 この言葉に、マスコミがまるで鬼の首でも取ったように飛びついた。

 これ以来、「公的参拝ですか? 私的参拝ですか?」などという珍妙なやり取りが、8月15日だけ、しかも靖国神社だけで、マスコミとの間で交わされるという奇妙な風景が、ほかの施設ではまったくないのに、ここだけで繰り返されるようになった。

 運動は一度つまずくと、際限もなく混乱し、やがて何を目標に運動していたのかさえも見えなくなって、いつの間にやら挫折する。靖国神社の国家護持は、かくして戦時中の時代を知る国民の旧態回復の運動としては頓挫(とんざ)して、のちの世代の課題に引き継がれた形となった。

 さらに戦後の靖国神社の地位復活に関する運動に関しては、それを成し遂げようとする情熱が、だんだん弱くなった事情もある。

 敗戦までの時代を生き、戦後の無念さが忘れていない人が、年月の経過とともにだんだん数を減らしてくるのとともに、占領中の米占領軍の行った占領政策、とくにマスコミなどのメディアや教育などを通して徹底的に行った洗脳工作が徐々に効果を発揮してきた。日本の独立回復後もその洗脳工作を強く受けた昭和生まれの連中が国民の中の比率を高めてくるにつれて、年を追うごとに運動が難しくなったことがあげられる。

 そんな傾向は、当時義務教育を受けていた昭和ふたケタ生まれの連中が、社会の中心で活躍する時代になる昭和40年代あたりから、急速に感ぜられるようになってきた。

 しかも日本の最高学府である東大の法学部では、戦時中は日本の大東亜戦争に進む時代に、軍や政府の理論的支持者であった宮沢俊義氏が説を180度転回して、日本はあの昭和20年に革命を経験してそれまでの時代とは断絶したのだとして、占領軍のまだ先を行くような日本の伝統を無視する教育を行い、その影響を受けたものが日本の官界などの中枢を占める時代にもなってきた。

 独立を経験したのちに、いよいよ戦後体制への傾斜が見られる。歴史上でも特異な傾向かもしれないが、日本の歴史にとって、こんな冬の時期も訪れてきて、靖国神社の国家護持運動は、ちょうどそのころ盛り上がりつつあった自主憲法の制定運動とともに、いよいよ厳しい時期を迎えることになった。


[9]混乱が長引いたために

 靖国神社は、国の機関から離れる際、民間の一宗教法人として施設を維持管理するのは占領という一時期であり、独立が回復されたらやがては国の施設に回復したい、と考えて、その暫定期間と思っての歩みを続けてきた。

 ただ、その間は国からの維持管理費の負担は期待できない。

 そこで法人格を取得した翌年には、7月の盆の時期に提灯を境内に飾って英霊の霊を慰める「みたま祭り」を開始し、民間の人々に支えてもらっての存続方策を図ったり、一般の神社と同様に年中行事の特別参拝を始めたり、七五三、結婚式、さまざまの規格を取り入れてきた。

 いま、靖国神社を訪れる人には「靖国神社は他の神社とは違うといわれるけれども、その姿を見れば、ほとんど同じものではないか」との感想を持つ人も多いだろう。

 だがそれは、ほとんどが戦後の時代を生き残ろうとした靖国神社の新しいものなのである。

 また、戦後の混乱が長引いたために、政治的な環境など、国家護持の運動や靖国神社の運営に関して、いろいろと問題を生んできた面も大きかった。

 そんな時代がはじまり、国家護持がなかなか実現しない空気の中で、いま、騒がれている東京裁判殉難者の霊の合祀問題なども起こるのだが、これについては次回以降に触れる。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。

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