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「多神教文明の核心」宮中祭祀の正常化を [宮中祭祀]

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「多神教文明の核心」宮中祭祀の正常化を
(「伝統と革新」創刊号2010年3月)
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 平成二十一年は今上天皇ご即位二十年のこの上ないお祝いの年でしたが、歴代天皇がもっとも重要視されてきた宮中祭祀においては、じつのところ危機のまっただ中にあります。国民の多くの知らないところで、驚くなかれほかならぬ側近たちによって、理不尽な簡略化が進められているからです。
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 宮中の奥深い聖域で、人が見ないところでなさる陛下の祈りは、国家的、文明的な深い意味を持っています。したがって、現在、直面している危機は、遠い世界のことではなく、国家と文明の根幹に関わるきわめて大きな問題だと私は確信します。祭祀の正常化が焦眉の課題です。


▢ 一、米と粟の新穀を捧げる食儀礼


 陛下がみずからなさる祭祀のなかでとりわけ重要なのが新嘗祭です。毎年十一月二十三日の夕刻から夜半にかけて、天皇は宮中の奥深い神域で、米と粟の新穀を神前に供え、みずから召し上がります。

 なぜこのような神事が皇室第一の重儀として、古代から行われてきたのでしょうか。天皇の祭祀とは何でしょう。天皇とはどのような存在なのでしょうか。

 古今、さまざまな天皇観があります。けれども案外、見過ごされているのが皇室自身の天皇観です。すなわち、祭祀を第一のお務めとし、祭祀王を自任してこられた歴代天皇の天皇観です。

 たとえば第八十四代順徳天皇という天皇がおられます。承久の変が失敗し、父・後鳥羽上皇、兄・土御門上皇とともに配流の身となった、悲劇の天皇です。

 宮中のしきたりに通じていた順徳天皇はこのとき、皇子に帝王の道を伝えようとされ、『禁秘抄』(一二二一年)をまとめ上げました。その冒頭には、「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす」とあります。天皇にとってもっとも重要なことは敬神であり、神祭りである、と皇室存亡の危機のときに明言されたのです。

 順徳天皇ばかりではありません。下克上の最終段階において朝廷をも従えようとした徳川三代との激しいつばぜり合いを、前半生に強いられた後水尾天皇も同様です。

 後年、さすがに円熟された後水尾天皇は、第四皇子の後光明天皇に書き送った手紙に、「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、後に他事」と、天皇のもっとも重要なお務めは神事であることを明記されています。

 このように歴代天皇は政治権力でも軍事力でもなく、祭りの力によってこの日本という国を治めてこられました。天皇による統治は、「しらす」(民意を知って統合を図ること)であって、「うしはく」(権力支配)ではないといわれるのはそのことです。地上の支配者であるヨーロッパの王権とは異なります。

 天皇の祭りとはどういうものか、その中身をもう少し掘り下げてみます。

 天皇の祭祀は新嘗祭をはじめとして、年間二十件ともいわれ、秋から冬に集中しています。しかし二十件どころか、天皇は日々、祈りを欠かせられません。毎朝御代拝は天皇が毎朝、側近を宮中三殿につかわして拝礼させる神事です。

 その祈りは国の平安と民の平安を願う無私の祈りです。後鳥羽上皇が大嘗祭に用いられる祈りの言葉を書き残されていますが、そこには「国中平らかに安らけく」とあります。

 俗人なら自分や家族のために祈りますが、天皇はそうではありません。天皇はひたすら国と民のため、神前に米と粟を捧げ、みずから食し、祈ります。

 なぜこのような神事が天皇第一のお務めとされてきたのでしょうか。


▢ 二、自然との共生から生まれた国家体制


 海外の宗教儀礼に目を向けてみます。

 キリスト教のミサでは信徒にパンとワインが授けられます。イエス・キリストの最後の晩餐に由来し、カトリック教会では聖体拝領と呼ばれます。一見、神道の食儀礼に似ているようですが、パンとワインは文字通りキリストの血肉と信じられています。神に捧げるお供えではありません。

 同じ一神教でも、イスラム教の場合には、食それ自体が登場しません。

 これに対して、日本の宗教伝統では、食を神に捧げるだけでなく、食事をともにします。神事には、神の前でへりくだり、身を清め、神に接近し、神人共食の儀礼によって命を共有し、一体化し、神意を受け継ぎ、衰えた命を新たな再生させる、という発想があります。命の儀礼なのです。

 なぜそのような考え方が生まれ、儀礼として発達したのか。それは日本人の自然観に基づくと考えられます。

 人間は誰しも食によって命をつなぎます。すなわち、自然の恵みを摂取し、エネルギーに変え、血肉とします。ものを食べなければ人はかならず死を迎えます。

 自然の恵みといっても、単純に「自然のものすべてが体にいい」というわけではありません。逆に自然界には危険が満ちあふれています。たとえば、生きていくのには水が必要ですが、大量に摂りすぎると中毒死します。秋の味覚であるキノコにも、毒性を持つものが少なくありません。自然界で生命を長らえることは案外、容易ではありません。

 感謝と同時に畏れの感情も伴う日本人の自然観には、人間の深い知恵の蓄積が感じられます。善悪二元論では割り切れない日本人の神観念は長年にわたって育まれた自然観から生まれたといえるかもしれません。

 このような日本人の自然観に注目した天才が、物理学者として有名なアルバート・アインシュタインです。

 大正十一(一九二二)年に来日したアインシュタインは、九州から東北まで各地をめぐり、大学で相対性理論を講演し、さらに明治神宮や日光東照宮などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、そのほか名もない民衆にいたるまで数多くの日本人と交わり、「日本のすばらしさ」に魅せられました。

 アインシュタインの旅日記によると、来日前は「神秘のベールに包まれた国」と考えていた日本で、最初に感動したのは自然の「光」でした。しかし、自然以上に輝いていたのは日本人の「顔」だったといいます。アインシュタインは「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛している」ことを知ります。出会った日本人は「欧米人に対してとくに遠慮深かった」のでした。

 そうした国民性はどこに由来するのか、と考えたアインシュタインは、自然との共生、一体化と見抜きます。旅日記には「日本では、自然と人間は一体化しているように見える。この国に由来するすべてのものは愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与えられたものと密接に結びついている」と記されています。

「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築でした。宮司の案内で参拝した日光東照宮は「自然と建築物が華麗に調和している。……自然を描写する慶びがなおいっそう建築や宗教を上回って」いました。

 天才の探求心は天皇にもおよびます。熱田神宮では、「国家によって用いられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇がまつられている。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では、「私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった。……天皇は神と一体化している」と観察するのでした(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』二〇〇一年)。

 アインシュタインは、自然との共生が日本人の国民性の源であり、日本の宗教伝統の基礎となり、天皇を中心とする国家制度にまで発展したことを、たった一カ月半の滞日で理解したのです。


▢ 三、神から与えられた穀物


 宮中の新嘗祭は米と粟の食儀礼です。同じ日に、全国各地の神社でもそれぞれ新嘗祭が行われ、今日では多くの場合、伊勢神宮の祭りがそうであるように、稲の祭りが行われているかと思います。しかし稲ばかりが新嘗の主要なお供えとは限りません。

 たとえば、埼玉県南西部の日高市に高麗神社という古い神社があります。

 いまから千三百年以上も前の西暦六六八年、朝鮮半島北部から旧満州にかけて広く支配する強国・高句麗が滅亡しました。唐と新羅の連合軍の前に屈したのです。そのころ東アジアは、日本も含めて、激動の時代でした。

 それから約五十年後、ここに「高麗郡」が置かれます。『続日本紀』という古い歴史書には、霊亀二(七一六)年にいまの静岡、山梨、神奈川、千葉、茨城、栃木に住む高麗人千七百九十九人を武蔵国に移住させ、はじめて高麗郡をおいた、と記録されています。

 神社を建てたのは高句麗の遺民たちです。まつられているのは高麗王若光で、王族の子孫といわれます。若光は祖国を失った遺民たちをよく導いた功績が評価されたようで、「王」という姓を天皇から賜った、とやはり『続日本紀』に記されています。現在の宮司はその末裔といわれます。

 興味深いのは神饌です。先代の宮司さんから直接、聞いたのですが、お祭りのとき、氏子たちは一軒当たり一升の精白したムギバツ(麦の初穂)を神前にささげるそうです。かつては決まった日に、農家が小麦をもって参詣し、あるいは小麦粉を練ってゆであげた小麦粉餅を神前に供えたようです。

 高麗神社の神饌は、なぜ小麦なのか。どうやら古代朝鮮の神話と関係があるようです。

 高句麗の建国神話には、「建国の祖」朱蒙の物語が描かれています。

 母国・扶余を発ち、建国の旅に出る朱蒙に、母・柳花は五穀の種を与えます。ところが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れてしまいます。旅の途中、木陰に休んでいると、二羽の鳩が飛んできました。「母が麦を届けてくれたのだ」と思い、朱蒙は一矢で二羽を射落とします。ノドを切り裂くと、はたして麦の種が見つかりました。

 日本の建国神話・天孫降臨の物語では、神から与えられるのは稲ですが、高句麗では麦なのです。

 もうひとつ注目したいのは、まさにこの皇祖天照大神の命によって神様が山の頂に降りてこられるという天降り神話です。

 東京大学の大林太良先生(民族学)によると、じつは天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせる、という天降り神話は朝鮮半島から内陸アジアにかけて世界に広く分布するそうです。

 驚いたことに、ギリシャ神話にもよく似た神話が伝えられています。ギリシャの大母神デメテルは、聖婚によって穀物の豊かな稔りをもたらす神子プルトスを生み、また寵愛する神子トリプレトモスに麦の種を与えて、天から地上に広めさせた、とあります。

 しばしばいわれるように、日本の天孫降臨神話は朝鮮の檀君神話の物まねだというようなものではまったくありません。そして重要なのは、大林先生が指摘していることですが、日本以外の神話では母神が授けるのは麦であって、稲ではないということです。民族の祖神が稲をたずさえて山上に天降られる、という神話が伝えられているのはどうも日本だけのようです(大林『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。

 大林先生によると、日本の天孫降臨神話は大陸系の天降り神話と南方系の稲作神話との融合だといいます。

 このことは日本の文明が異質なものと対立し、攻撃し、駆逐し、征服し、排除する一神教文明ではなく、受容し、統合する多神教的、多宗教的文明であることと関わります。皇室の祖先の物語のなかに受容と統合の原理がうかがえます。

 神から与えられた主食の穀物。その初穂を神に捧げるのが新嘗祭ですが、国家の長である天皇が、国の平和と民の安寧をひたすら祈り、国と民を統合するために、みずから行う新嘗祭が、米と粟の儀礼であるのも、受容と統合がキーワードになります。


▢ 四、受容と統合の多神教文明


 日本にはかつて粟の新嘗祭もありました。

 各地方の情報を集めた書物を地誌といい、日本最初の 地誌として奈良時代に元明天皇の命でまとめられた風土記が知られています。その中で現在の茨城県について伝えている「常陸国風土記」に、母神が子供の神々を訪ね歩く筑波郡の物語が載っていて、「新粟の新嘗」「新粟嘗」という言葉が登場します。

 日が暮れたので富士山の神さまに宿を請うと、「新嘗のため、家中が物忌みをしているので、ご勘弁ください」と断られたのに対し、筑波山の神さまは「今宵は新嘗だが、お断りもできまい」と大神を招き入れた、というのです。

 ここから、このころの新嘗祭は村をあげて心身をきよめ、女性や子供は屋内にこもって、神々との交流を待ち、ふだんならもてなす客人を家中に入れることさえはばかったことが分かります。

 それなら文中に出てくる「新粟の新嘗」「新粟嘗」とは何でしょう。たとえば「日本古典文学大系」では、この「粟」に「脱穀しない稲実」と注釈が加えられていますが、どう見ても不自然な解釈です。「粟」はあくまで「粟」であって、古代に粟の新嘗があったとするのが素直な理解でしょう。

 というのも、粟の民俗が実際にあるからです。

 神戸女学院大学の松澤員子先生によると、台湾の先住民には粟の酒があったそうです。彼らは畑作民族で、粟のほかに稗や稲、芋を栽培していた。粟は儀礼文化には欠かせない、とくに重要な作物だった。人々は粟の神霊を最重要視し、粟の酒と粟の餅とを神々に供えた。酒は処女や巫女が噛んでつくったというのです(松澤「台湾原住民の酒」=山本紀夫、吉田集而編著『酒づくりの民族誌』所収)。

 おそらく古来、日本列島に暮らす畑作民たちには、南方の国々と連なる粟の食儀礼が伝えられていたに違いありません。

 記紀神話をもう一度、開いてみると、興味深いことに、二つの稲作起源説話が載っています。神が稲穂をたずさえて地上に降りてこられる天孫降臨神話と神の死体から五穀が生じるという死体化生神話です。大林先生によると、それぞれ北方系の神話と南方系の神話だといいます。

 記紀神話に表される日本の神々の体系に二つの大きなルーツがあり、天皇による米と粟の祭りは文化圏が交差する十字路に位置していることが分かります。

 それなら、なぜ天皇は米と粟をともに新嘗祭に捧げ、みずから食し、祈るのか。なぜ米だけでもなく、粟だけでもないのか。

 現代を代表する民俗学者で、稲作民俗、畑作民俗の両方を研究する野本寛一先生は、私の取材に対して、「米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」と指摘しています。

 日本には古来、稲作民もいれば、畑作民もいた。山の民も海の民もいたのでしょう。人々の暮らしは多様で、それぞれに独自の文化があった。そのような国民を、多様なるままに統合し、社会の平和を保ち、暮らしを安定させるのが天皇の役割であり、歴代天皇は公正無私なる祈りによって実現しようとしてきた。そのための米と粟の食儀礼なのでしょう。

 価値の多様性を認め、多様性のなかの国と民の統一を図る多神教文明の中心が天皇であり、天皇の祭りなのです。

 そして実際、世界には民族や宗教の違いから対立し、分裂する国が多いなかで、日本の文明は他に例がないほど、平和的、長期的に続いてきたのです。


▢ 五、悪しき昭和の先例を踏襲する宮内庁


 ところがいま、文明の中心であるはずの宮中祭祀が危機のただ中に置かれています。あろうことか、陛下のお側にある宮内官僚たちが、陛下のご健康問題を口実にして、祭祀の簡略化をどんどん進めているからです。

 表面化したのは平成二十年二月、「両陛下のご健康問題」に関する宮内庁発表です。

 金沢一郎・皇室医務主管は「ガン治療の副作用で骨に異常を来す可能性がある。新たな療法の確保が必要だ」と説明し、風岡典之・宮内庁次長は「運動療法実施のためご日程のパターンを一部見直す」「昭和天皇のご負担軽減の先例に従う」などと補足説明しました。

 翌三月には、風岡、金沢両氏の連名で祭祀の調整が進められていることが追加説明されます。

 しかし、さらに同年暮れ、陛下のご不例でご負担軽減策は前倒しされ、翌二十一年一月には具体的な方法が公表されました。

 ところがご公務の件数は減りませんでした。代わりに狙い撃ちされ、激減したのは天皇第一のお務めである祭祀です。

 宮内官僚たちは「昭和の先例」を祭祀簡略化の根拠にしていますが、昭和の祭祀簡略化の真因はご健康問題ではありません。拙著『天皇の祈りはなぜ簡略化されたか』にくわしく書いたように、昭和四十年代、昭和天皇の側近中の側近だった入江相政侍従長個人の祭祀嫌いに端を発し、「無神論者」を自称したという富田朝彦宮内庁長官以下、官僚たちの教条的な政教分離の解釈・運用によって本格化したというのが真相です。

 そのことは昭和天皇の側近が書き残した日記などを見れば明らかであり、宮内官僚たちは昭和の簡略化の歴史を知らないか、もしくは口をつぐんでいるのでしょう。

 天皇の祭祀は国家と文明の根幹に関わることであり、したがって祭祀簡略化問題の本質は文明問題です。憲法が定める政教分離問題もまた文明論にほかなりません。

 アインシュタインが指摘し、警告したように、明治以後、日本は近代化に取り組み、一神教世界のすぐれた文化を受容してきましたが、その反面、古来の多神教的文明の比類なき価値を見失っています。

 天皇の祭りは多神教文明の核であると同時に最後の砦です。側近の記録によると、今上陛下は皇位継承後、皇后陛下とともに、祭祀の正常化に努められました。けれども皮肉にもご即位二十年の祝いの年に、側近による祭祀破壊の悪夢は再来しました。

 文明の根幹に関わる宮中祭祀の伝統が、ほかならぬ皇室を守るべき立場の宮内官僚たちによって破壊されようとしています。これに対して、今上陛下は、晩年の昭和天皇がそうであったように、「争わずに受け入れる」という至難の帝王学を実践し、たったお一人で守ろうとされているように私には見えます。
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