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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴第3回 「中外に施す」の「中外」の意味 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 病の床にある人生の大先輩を訪ねました。

 学徒出陣で海軍航空隊士官となり、特攻隊に志願したものの、戦友たちに続けなかった「負い目」を胸に刻み、「おつりの人生」に全力投球してきたという大先輩は、文字通り自分の命をささげようとした祖国の65年後の現実を、病院の個室で深く憂えていました。

 そして、「日本のために頑張って欲しい」と、私の手をかたく握るのでした。

 以前、この大先輩は、「千里の馬はつねにあれども、伯楽(はくらく)はつねにはあらず」と唐の文人・韓愈(かんゆ)を引用し、過分にも私を「千里を駆ける馬」に見立てて、不遇を嘆き、慰めてくれたことがあります。

 世の中に逸材は多いが、逸材を見出して登用できる指導者がいない。しかし、それは私個人の問題ではなく、いまの日本社会が直面している閉塞感の最大の原因かと思います。

 タレントはたくさんいるのに、プロデューサーがいないのです。優秀な筆者はいるけれど、腕利きの編集者がいない。研究者はいるけれども、学術的指導者がいない。教師はいるが、教育指導者がいない。宗教家はいるが、宗教指導者がいない。政治家はいても、政治指導者がいない、という具合です。

 ジャーナリズムもアカデミズムも宗教界も政界も、既得権益を守るための職業集団と化し、業界化し、活力を失っています。時代の閉塞感を打ち破れないのは当然です。

 たとえば、いま永田町では保守新党結成の動きが急です。大いに期待し、応援したいところですが、設立の手続きに違和感を覚えるのは私だけでしょうか。国会議員が5人集まれば、法的には「政党」を作れます。しかし国民の切実な声に耳を傾けることを出発点としなければ、国民の期待に応え得る存在とはなり得ないでしょう。大政治家の不在をあらためて痛感します。

 さて、今日は佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」第3回をお届けします。

「日日のこのわがゆく道を正さむとかくれたる人の声をもとむる」とお詠みになったのは昭和天皇ですが、天皇の政(まつりごと)とは本来、国民の声なき声を聞くこと、民意を知って統合すること、つまり、「しらす」政治でした。

 ところが、佐藤さんによると、教育勅語の解説書を書いた明治の碩学、井上哲次郎東京帝国大学教授にしてそのことが理解できなかったようです。誤解はそればかりではありませんでした。そしてやがて国運を誤ることにもなったのです。大先輩の嘆きの原因もそこにあります。

 それでは本文です。

M231031官報教育勅語001.png
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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
第3回 「中外に施す」の「中外」の意味
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◇1 明確にされてこなかった「斯の道」の範囲

 前回、書いたように、教育勅語の第一段落「徳を樹(た)つること深厚なり」の「徳」は仁義礼譲孝悌忠信などではなく、君徳の「徳」である。この解釈に反する事実は存在しない。逆に仁義礼譲孝悌忠信と解釈することには、これを支持する事実さえ見当たらない。あるのは事実に立脚しない思いこみの論説ばかりである。

 そして、この思い込みが第二段落以降、教育勅語全体の解釈を誤らせてきた。

「爾(なんじ)臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し……」で始まる第二段落は、第一段落で確認された君徳に対する臣民の忠孝をさらに分かりやすく述べられたものである。いわゆる五倫五常の類である。井上毅(こわし)の勅語衍義(えんぎ)稿本への修正意見にはこの第二段落に関するもので決定的なものは記されていない。

 続く第三段落は「斯(こ)の道は実(じつ)に我が皇祖皇宗の遺訓にして……咸(みな)其(その)徳を一(いつ)にせんことを庶(こい)幾(ねが)ふ」である。ここにある「斯の道」がどの範囲を受けているかは後の議論にもあったことである。しかしどの議論でも「斯の道」の範囲が正しく示されたことはない。その原因はやはり第一段落の「徳」の解釈にある。

 もし「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を、第二段落にあるいわゆる五倫五常だと解釈すれば、「斯の道」は第二段落の「爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し……皇運を扶翼(ふよく)すべし」となる。しかし第一段落の「徳」が「しろしめす」という意義の君徳だとすれば、「斯の道」は第一段落から第二段落までのすべてを受けると考えて妥当である。

 けれども前者では、「斯の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所……」の「倶に」の意味が分からない。「爾臣民……」に始まる第二段落は臣民の遵守すべき徳目である。皇統を承け継ぐのが皇祖皇宗の子孫であるから、臣民の徳目を「倶に」では意味が通じない。第一段落の「徳」に意識のない解釈である。

 一方、後者は皇祖皇宗から伝わる「しろしめす」という天皇統治の妙(たえ)なるお言葉と、それに対する臣民の忠孝の姿と捉えているので、「倶に」の持つ意味が明瞭になるのである。子孫臣民がそれぞれの「君徳」と「徳目」を遵守することが「倶に」の意味である。


◇2 解釈を誤らせたもうひとつの原因

 いまひとつ教育勅語の解釈を誤らせた原因の一つは、第三段落にある「之を中外に施して悖(もと)らず」の「中外」の語義にある。

 明治は欧米化の時代である。国学や儒学は停滞していた時期である。辞書を引けば、「中外」を解説した当時の『広益熟字典』は「日本と外国のこと」であるし、『新撰字解』でも「我が国と外国」だけである。『言海』に「中外」はなく、大正二年の『大字典』では教育勅語を例文にとって、やはり日本と外国の意味のみである。

 しかし「中外」には、『管子』に「中外不通」とあるように、「宮廷の内と外」、広くいえば「朝廷と民間」の意味がある。しかもこれは宮廷の秩序について述べている「君臣 下」に出てくるものである。井上毅や元田永孚(もとだ・ながさね)が読んでいた可能性は十分にある。なぜなら明治14(1881)年の「大臣・参議及び各省の卿等に下されし勅語」には「惟(おも)うに維新以来、中外草創の事業、施行方に半ばなる者あり」とあって、この「中外」は文脈から「朝野」と読み替えて妥当だからである。

 以下のような事例もある。

 明治11年8月30日から同年11月9日までの北陸東海両道巡幸から戻られた天皇は、各地の実態をご覧になったことから、岩倉右大臣へ民政教育について叡慮(えいりょ)あらせられた。

 それは勤倹を旨とするものであって、侍補たちは明年政始の時に「勤倹の詔」が渙発されることを岩倉右大臣に懇請した。「12月29日同僚相議して、曰勤倹の旨、真の叡慮に発せり。是誠に天下の幸、速に中外に公布せられ施教の方鍼(ほうしん)を定めらるべし」。

 そして文章についての様々な議論の後、明治12年3月、「興国の本は勤倹にあり。祖宗実に勤倹を以て国を建つ。」という内容の「利用厚生の勅語」が渙発されたのである。

 この勅語はその内容のとおり、国民に勤倹を促すものであるから、「中外に公布」は「全国(民)に対し公的に広める」である。外国はまったく関係がないし、教育勅語にある「中外に施して」の「中外」がこれと異なるとする根拠はどこにも存在しない。

 井上哲次郎『勅語衍義』の発行は明治24年9月であるが、同年1月にはすでに那珂通世(なか・みちよ)・秋山四郎『教育勅語衍義』が出版されている。第一段落の「徳」の解説は『勅語衍義』よりも正鵠(せいこく)を射ているものである。「天祖の蒼生(そうせい)を愛養し給へる大御心(おおみこころ)に倣(なら)ひて、仁政を行ひ給ひしかば、臣民皆観感して、二様の誠心を起したり」として、皇上の仁恩に感じての忠、皇上の孝徳に感じての祖先に対する孝を述べている。「君徳」と「忠孝」がほぼ正しく捉えられていると言ってよいだろう。

 ただし、『教育勅語衍義』の著者たちは『管子』を読んだことがなく、そのため宣命(せんみょう)における「中外」が「宮廷の内と外」としても用いられていることに意識がない。したがって「中外」は「中は日本、外は外国にして」と誤って解釈したのである。

 けれども、この「中外」を「日本と外国」と解釈する根拠は存在しない。むしろ「日本と外国」と解釈することに反する事実が存在する。


◇3 「上下」以外に解釈できない

「斯の道は実に祖宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に守るべき所、凡(およ)そ古今の異同と風気の変遷とを問はず、以て上下に伝へて謬(あやま)らず、以(もっ)て中外に施(ほどこ)して悖(もと)らざるべし」

 これは教育勅語の初稿としてよく引用されるものである。この「以て上下に伝へて謬らず、以て中外に施して悖らざるべし」の「上下」と「中外」は、中国の古典・曲礼(きょくらい)にある「君臣上下、父子兄弟、礼に非ざれば定まらず」、あるいは易経(えききょう)にある「君臣有りて、然る後に上下有り。上下有りて、然る後に礼義錯(お)く所有り」から解釈されるのが妥当である。天皇のお言葉である勅語に用いるので、「君臣と上下」を「中外と上下」としたことは容易に推測できるのである。

 さらに、福沢諭吉『文明論の概略』は明治8年であるが、ここにも典型的な文章がある。

「開闢(かいびゃく)以来君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別と言ひしもの、今日にいたりては本国の義となり、本国の由緒となり、内外の名分となり、内外の差別となりて、幾倍の重大を増したるにあらずや」

 この上下と教育勅語の草稿にある上下は同じ意味である。もちろん「上下」には「今と昔」という意味もある。しかし稲田正次『教育勅語成立過程の研究』にある明治23年8月10日頃の草稿とされているものには、「以て上下に推して謬らず……」とある。文脈からして、君臣上下の上下以外に解釈することには無理がある。

 この初稿は「中外」を「国の内外」「我が国と外国」と解釈することに反する事実である。またこの草稿を初稿とするか否かは別として、海後宗臣(かいご・ときおみ)『教育勅語成立史』や稲田正次『教育勅語成立過程の研究』に写真資料として掲載されている。動かない事実である。


◇4 誤った「中外」解釈に基づく「八紘一宇」

「斯の道」が第一段落の「徳=君徳(「しらす」という意義)」と臣民の遵守すべき「徳目」の両方を含んでいることは先に述べたところである。したがって「斯の道」すなわち「之」は「君徳」と「徳目」である。それらを「我が国だけでなく、外国でとり行っても」とする根拠は存在しない。井上毅が「君徳」を外国に施すと想定していた事実は見当たらない。起草七原則や「梧陰存稿」などにも存在しない。

 しかし「斯の道」を臣民の徳目と解し、「中外」を「国中と国外」という意味にとる誤った解釈が浸透した。

 たとえば「八紘一宇(はっこういちう)」を世に広めた田中智学に『明治天皇勅教物がたり』(昭和5[1930]年)がある。「君徳が反映しての民性」と語ってはいるが、「しらす」は一言もない。「中外」は「国中と国外」である。そうして「斯道(このみち)」は決して一国一民族の上のものではなく、中外に悖らざると喝破(かっぱ)せられたのは、「神武天皇のご主張たる「人類同善世界一家」の皇猷(こうゆう)を直写せられた世界的大宣言と拝すべきであらう」と述べるのである。

 これはある種の超国家主義的思想と教育勅語「中外」の誤った解釈が重なって出来た、田中智学独特のイデオロギーと考えるのが正しいのではないか。

「八紘一宇」は明治30年代に田中智学が造語したとされているが、その時期が明治24年の『勅語衍義』以後であり、さらに日清戦争以後であることは偶然ではないだろう。井上毅に「世界的大宣言」を連想させるものは見当たらない。数々の草稿にはその片鱗(へんりん)さえも見つけられない。

『明治天皇勅教物がたり』は『勅語衍義』を燃料として発展させたひとつの観念論ともいうべきものであって、事実に立脚した解釈の上に立つものではない。


◇5 新聞「日本」に掲載された井上毅の記事

 誤解を生じさせるような文言は前述した陸羯南(くが・かつなん)の新聞「日本」に掲載された井上毅「倫理と生理学との関係」にもある。

 新聞「日本」は「其の結論」として、「倫理は普通人類の当に講明す可(べ)き所にして、之を古今に通じ、之を中外に施して、遁(のが)れんと欲して遁るること能はず、避けんと欲して避くること能はざるものなり」と記したのである。

 一読では「之を古今に通じ、之を中外に施して」の主語を特定しにくい。「之」は「倫理」であり、「施して」の目的語であるが、漢文調のこの文章は慎重に読む必要がある。

「倫理は普通人類の当に講明すべきところにして、教育勅語に天皇が、之を我が国の歴史に照らして誤るところがなく、之を宮廷の内外、全国民に示して間違いのないものである、とお諭しになられたように、私たち国民はそのことから逃れようとして逃れられるものではなく、避けようとしても避けることのできないものである」と読むべきだろう。

 あくまで「之を古今に通じ、之を中外に施して」は教育勅語の天皇のお言葉である。

 したがって「施して」の主語は天皇である。天皇が外国で実践して逃れられないとは意味不明である。やはりここは「全国民に示して間違いがない」と解釈してその意味が判然とする。


◇6 「中外」は「全国民」の意味

 拙著『繙読「教育勅語」』や『国家神道は生きている』では、対象が五倫のみなので「倫理と生理学との関係」のこの「中外」は「東西・世界中でよく」としたのだが、これは訂正が必要である。上記のように天皇のお言葉であるから、この「中外」はやはり「宮廷の内と外」「朝廷と民間」、つまり全国民が正しい解釈である。

 また、この場合の「之」は「斯ノ道」であるが、「君徳」と「徳目」のうちの「徳目」つまり倫理について、それは儒教主義の占有物ではないとすることを目的として書かれたものである。起草七原則の(3)哲学理論は反対論を呼ぶので避ける、(5)漢学の口吻と洋学の気習とも吐露しない、に関連する。「之」や「斯ノ道」の全体を語ったものではない。

 そしてなにより、この「倫理と生理学との関係」には、皇祖皇宗が徳目としての徳を樹てられたとは一言も述べられていない。これは「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「徳目」とする解釈に反する事実である。新聞「日本」は「倫理の関係は元来人身の構造より生じたる造化自然の妙用に起るものにして」とまとめている。

 陸羯南はそのフランス語の実力を買われ、井上毅のもとで『奢是吾敵論(しゃぜごてきろん)』の翻訳に協力したといわれている。井上毅の考え方を十分理解していたことはほぼ間違いないだろう。

 明治23年11月3日の新聞「日本」の記事「斯道論」では、「斯の道は古今に通じて謬らず中外に施して替らず、上(か)み 天皇より以て下も匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)に至る迄皆な共に其の道として之を奉ずるに足る、国体の精華教育の淵源豈(あ)に斯の道を措(お)きて他に求る所あらんや」と述べている。

「中外」は正しく「朝廷と民間」つまり全国民である。ただこのあとの明治23年11月7日の新聞「日本」はもう少し丁寧な解説が必要だったのではないかと思われる。

 また井上哲次郎「勅語衍義稿本」を修正した井上毅「勅語衍義(修正本)」にもいくつか紛らわしい文章があるが、いずれも決定的なものではない。


◇7 「日本固有の道」は「宇宙の根本原理」ではない
「徳を樹つること深厚なり」の「徳」を「徳目」とし、「斯の道」をその「徳目」の実践のみとすることに根拠がなく、それに反する事実が存在することは述べたとおりである。「徳」は「君徳」であり、「斯の道」は「君徳」と臣民の「徳目」の両方を包含するので「朕爾臣民と倶に」とある「倶に」の意味が明瞭になるのである。したがって「之を中外に施して悖らず」に外国はまったく意識されておらず、この「中外」は「宮廷の内と外」、つまり文脈上は広い意味の「全国民」とするのが正しい解釈である。

 草稿段階の「爾臣民、宜(よろ)しく本末の序を明らかにし内外の弁を審(つまびら)かにして、教育の標準を愆(あやま)ることなかるべし」(「六修正」)にあるように「内外の弁を審かにして」の意思も明確である。「中外」を「国の内外」と解釈すると矛盾する。

 しかしそれでも、我が国固有の道は普遍性をもつものである、との言説がある。

 井上哲次郎は『東洋文化と支那の将来』において、「『教育勅語』に「斯ノ道」とあるのも決して儒教の道を意味されたものでなくして、日本固有の道である。日本固有の道の基礎根本は世界遍在の道で、即ち宇宙の根本原理である。宇宙の根本原理は普遍妥当性のもので、何も日本に限ったものではない。然しながら、それが日本といふ特殊の境遇を透して行はれる時に『惟神の道』又は『敷島の道』となり、日本固有とも云ふべき性質を帯びて来る」と語っている。

 教育勅語の「斯の道」が我が国固有のものであるとしても、それが世界遍在の道で即ち宇宙の根本原理とは分かりにくい。もともと教育勅語は維新以来の急激な欧米化の中で、道徳の紊乱(びんらん)が問題とされ、明治23年2月の地方長官会議における「徳育涵養(かんよう)の義につき建議」等を経て渙発(かんぱつ)されたものである。そしてその建議の文章は次のとおりである。

「我国には我国固有の倫理の教あり。故に我国徳育の主義を定めんと欲すれば、宜(よろし)く此固有の倫理に基(もとづ)き其教を立つべきのみ……冀(こいねがわ)くば今日猶(なお)狂瀾頽波の勢を挽回し以て我国固有の元気を維持することを得べし」

 この文章からは「宇宙の根本原理」が期待されていたとは考えられない。井上哲次郎『東洋文化と支那の将来』は昭和14年刊で東亜新秩序建設が叫ばれていた頃である。日清日露戦争に勝利してこの頃は我が国の「世界史的使命」が語られた頃である。それらを考慮しても「日本固有の道の基礎根本は世界遍在の道で、即(すなわ)ち宇宙の根本原理」は恣意(しい)的な解釈と言わざるを得ない。

 教育勅語の「斯の道」が宇宙の根本原理であるとは、明治天皇の周辺や井上毅の著作にはひとつも見当たらない。井上毅の起草七原則といわれるものに、(3)哲学理論は反対論を呼ぶので避ける、とあって、むろん教育勅語の本文に哲学理論は存在しない。教育勅語にはこの「宇宙の根本原理」や「世界的大宣言」が語られる根拠は全くないと言わざるを得ないのである。これらは「中外」の誤った解釈をもとに付会(ふかい)された謬見(びゅうけん)である。(つづく)


斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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