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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴   第4回 誤りの角質化 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月17日)からの転載です


 今日は佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」第4回をお届けします。

 教育勅語の誤った解釈のスタートは、佐藤さんによれば、当時随一の碩学・東京帝国大学教授井上哲次郎の『勅語衍義』でしたが、やがてその誤解は角質化していきます。その要因を作ったのは、伊藤博文の側近で、枢密顧問官などを歴任し、日本大学(日本法律学校)初代学長ともなった金子堅太郎だといいます。

 それでは本文です。


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 「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
  第4回 誤りの角質化
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◇1 海外で高く評価されたといわれるが……

 教育勅語は海外での評価も高かった、と伝聞されて今日に至っている。しかし実際にどの部分がどのように評価されたかを検証する必要があるだろう。その点について、平田諭治(ゆうじ)『教育勅語国際関係史の研究』に、以下の鋭い指摘がある。
教育勅語@官報M231031

「このように末松は、……第一段落および第三段落に関しては全くペンディングするか、その主旨を略述する程度であった。……金子堅太郎の場合にも共通していたに相違ない」

 末松とは教育勅語を外国語訳した末松謙澄(けんちょう)であり、ほかには菊池大麓(だいろく)、神田乃武(ないぶ)、新渡戸稲造、そして時の文部大臣牧野伸顕に英語訳をつくるよう促した金子堅太郎ら錚錚(そうそう)たる人たちがこの事業に参画している。

 じつに興味深いことに、当初、彼らが海外で主張したのは「徳目」部分が主だったのである。ここに天皇の「徳」を理解できなかった井上哲次郎の『勅語衍義』の影響と教育勅語の外国語訳に加わった末松らの教育勅語観が如実に表れていると言ってよいだろう。

 では、教育勅語に対する海外の評価はいかなるものだったか?

「そして『ここには資本主義的道徳のごくごく陳腐な表現以外には何もない……』と難じるのである」

 これは世界産業労働者組合の述べたものであるが、資本主義云々(うんぬん)はともかく、キリスト教徒の彼らにとって第二段落の徳目は特別のものではなかったはずである。

 高い評価を受けたことは事実であるが、上記のような冷ややかな受け止め方とのコントラストはどうだろう。日露戦争後の我が国要人に対するリップサービスと、主張の中身が主に徳目だったことは無視できない事実である。


◇2 58年間で正反対の評価に変わった理由は?

 平田は次のようにも指摘する。

「教育勅語のインターナショナルな装いは実行力の乏しいものでもあったといえる」

『教育勅語国際関係史の研究』の出版は平成9年である。それまでの教育勅語の海外における評価については、『金子堅太郎著作集』にあるセオドア・ルーズベルト大統領などの話に代表されるようなものが語り草となっていたのである。『教育勅語国際関係史の研究』にある事実は貴重であり、またのちの教育勅語の朝鮮や台湾統治における位置づけの考察も、教育勅語の解釈に関して非常に興味深いものがある。

「もともと教育勅語にインターナショナル云々は存在しない。丁寧に追究すればその事実がないことに行き着くのである。」

 教育勅語は日清日露戦争後の海外で高い評価を受け、朝鮮・台湾統治ではさまざまな議論を呼び起こし、終戦後はGHQの圧力などにより排除・失効確認決議がなされている。明治23(1890)年の渙発(かんぱつ)からわずか58年後の昭和23(1948)年にはまるで正反対の評価となったのである。

 いわゆる五倫という範囲のみで教育勅語を考えた場合、この事実には納得しがたいものがある。終戦直後の我が国知識人やGHQの議論にもさまざまな齟齬(そご)がある。やはり渙発から排除まで、教育勅語の捉え方に大きな変化があったと見なければこれらの事実の持つ意味が明らかにはならないだろう。


◇3 井上毅の相談と金子堅太郎の回答のズレ

 すでに述べたように、教育勅語解釈の誤りは、井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』に始まるが、その後、誤解は氷解するどころか、角質化していった。

 誤解を角質化させた要因のひとつに、金子堅太郎の講演やその記録がある。教育勅語渙発40周年記念や50周年記念におけるそれである。それぞれ昭和5年と昭和15年である。

 昭和5年11月3日、金子堅太郎は明治節(明治天皇誕生日)における全国向けラジオ放送でマイクの前に立った。講演速記には次のような記述がある。

「或日、井上氏は私を訪問して、起草したる教育勅語の草案を見せて、此中(このなか)に『中外ニ施シテ悖(もと)ラス』といふ一句があるが、是(これ)は御承知の通り支那人又(また)は漢学者が中外に施して悖らずと云ふやうなる句は常に用ゐ来って居るから、或(あるい)は帝威(ていい)を中外に輝かすとか、又国威を中外に宣揚(せんよう)するとか云ふことは、漢文を起草する時には常に慣用して居るから、さまで世人の注意を惹(ひ)くまいと思ふけれども、此(この)教育勅語は陛下の御言葉であって是が若(も)し翻訳されて、欧米諸国に知れ渡った時に、茲(ここ)にある中外に施して悖らずと云ふ文句が若し欧米の教育の方針に矛盾すると云ふやうなことがあっては是は由々敷(ゆゆし)き一大事であって、吾々(われわれ)起草者は、陛下に対し恐懼(きょうく)の至りであるから、君に相談する、君は米国で永(なが)らく彼(か)の国の教育を受けられたが為(ため)に、此草案全部を熟読して、是が果たして欧米の教育の方針に矛盾せざるや否やを研究して戴(いただ)きたいと言ふて、其(その)草案をみせられました。」

 そして金子堅太郎は、少しも世界の道徳に背(そむ)かない、これを御沙汰になって中外に施しても少しの悖るところが無い、と答えたとある。

 ここに井上毅の相談あるいは質問と金子堅太郎の回答にズレがあると言わざるを得ない。むろん40年前のことであるから正確に言葉が再現されているかどうかの問題はある。


◇4 お言葉が政事的命令となるか否かを相談したのに

 むろん井上毅が「教育の方針」に関する相談をしたことはその通りだろう。

 起草七原則には、(1)君主は臣民の心の自由に干渉しない、がある。前年には大日本帝国憲法が発布されており、その第28条は信教の自由条項である。「本心の自由は人の内部に存する者にして、固(もと)より国法の干渉する区域の外に在り」(伊藤博文『憲法義解』)であるし、道徳についてはキリスト教なら教会が担っているとの判断があったはずである。

 君主のお言葉が政事命令と受け取られ、欧米諸国の教育の方針からしてそこに矛盾がないかどうか、というのが井上毅の相談あるいは質問だったのではないか。

 一方、金子堅太郎は、伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治(みよじ)らとともに、大日本帝国憲法の起草に貢献した明治の賢人である。

 帝国憲法でいえば、第28条に関連し、各国政府は「法律上一般に各人に対し信教の自由を予へざるはあらず」(『憲法義解』)であるから金子堅太郎に相談した、というのが実情だろう。

 教育勅語は国務大臣の副署がない。文部省に下付されず学習院か教育会へ臨御(りんぎょ)のついでに下付せらるかたちを、井上毅が望んでいた事実を考えれば、金子が受け止めたような、徳目が海外で通用するか否かではなく、君主のお言葉が政事上の命令となるか否かを相談したと考えて妥当である。

 金子堅太郎は昭和15年の記念放送で、「教育勅語の中に、是々の箇条は耶蘇の教義に悖ると云ふ者があった時には由々しき大事だから」と井上毅から相談を受けた、と述べている。

 しかし、いわゆる五倫は人として当然のことと「五倫と生理との関係」などにあるから、井上毅の考え方と金子堅太郎の受け取り方には基本的な矛盾があると言わざるを得ない。

 井上毅はあくまでも「教育の方針」について質問したのであり、信教の自由条項に抵触するか否かの相談である。それを金子堅太郎は教育勅語の徳目がキリスト教の教義に悖るかどうかの質問だと勘違いをしたのである。

 井上毅や元田永孚(もとだ・ながさね)の教育勅語関連資料にキリスト教の教義を調査検討したものは存在しない。こうして教育勅語解釈の誤りは角質化していくのである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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