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「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴  第5回 「斯の道」の評価の変遷 [教育勅語]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2010年4月24日)からの転載です


 今日も、佐藤雉鳴さんの「『教育勅語』異聞──放置されてきた解釈の誤り」をお届けします。

 戦前世代なら誰でも知っている教育勅語は、日本の近代教育の根本であり、道徳を重視するものでした。しかし漢文調で、一度、読んだだけでは簡単には意味が分かりません。
教育勅語@官報M231031

 冒頭には、天皇のお役目は、国民の声なき声を聞き、民意を知って統合することであることが示されています。ところが、この天皇の「徳」は、畏敬する佐藤さんによれば、当時の知識人にはまるで理解できず、教育勅語全体の解釈を誤らせてしまいました。

 それだけではありません。天皇の「徳」と臣民の「忠孝」(五倫五常)は古来、朝廷と民間に固有の道である、とあくまで国民教育の根幹として述べられていたはずなのに、国外および国外において普遍的な道であると誤って解釈されてきたのです。

 そしてやがて、日本の道徳を広めることがあたかも日本の世界史的な使命であるかのように拡大解釈され、誤解は広がりました。

 考えてもみてください。入学式など学校の式典でかならず奉読され、子供たちが頭を垂れて押し戴いたのが教育勅語です。本来の意味とはまったく異なり、日本古来の道徳を世界に広めることを国民的使命とし、学校教育を通じて国民にたたき込まれ、さらに対外戦争で領土が拡大して、新たに日本国民となった異民族にも教えられました。

 とすれば、一神教文明圏からどのような反応がおこるか、想像がつくでしょう。なにしろ唯一なる神の教えを全世界に伝えることを宗教的使命とし、現実に世界支配を進めてきたのがキリスト教世界です。衝突は避けられません。

 思考回路が一神教化した近代日本のインテリたちには天皇の本質が理解できなかった。日本の宗教伝統を体現する神道人たちは朝鮮神宮に天照大神を祀ることや日韓併合に猛反対しましたが、結局、現実を変えることはできず、近代の悲劇は起こりました。

 同様の現象はいまも私たちの目の前で起きています。読者の皆さんはそのことに気がついていますか?

 さて、本文です。


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 「教育勅語」異聞──放置されてきた解釈の誤り by 佐藤雉鳴
  第5回 「斯の道」の評価の変遷
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◇1 「徳目」と理解されていた明治末期から大正期

 教育勅語は渙発(かんぱつ)から排除・失効まで、同じように人々に捉えられていたわけではない。前述のように、海外での高い評価から、最終的には正反対の評価で排除となったのである。その時々でどんな捉え方だったのだろう。

 たとえば、明治38(1905)年春、金子堅太郎がハーバード大学で同窓のセオドア・ルーズベルト大統領から聞かされた話というのがある(『金子堅太郎著作集 第六集』)。

「日本国民の如く忠愛にして、高尚優美なる、而(しか)して剛胆なる人類は古来世界にない。共和国には天皇なし、故(ゆえ)に米国国旗を持て天皇に代ゆれば、日本の教育は悉(ことごと)く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」

 また、明治40年には菊池大麓がロンドン大学で講演を行っている。そして金子もルーズベルトも菊池も、教育勅語を「徳目」が述べられたものとして把握していたのである。リップサービスとはいえ米国大統領が「日本の教育は悉く取って米国民の倫理教育とする事が出きる」と評価したその内容も、つまり徳目のみだったのである。

 大正9(1920)年は教育勅語発布30年の節目の年で、記念の集まりが東京府豊島師範学校(東京学芸大学の前身の1つ)で開催されている。『杉浦重剛座談録』にはそこで杉浦重剛の演説した内容が記されている。

 ブラジル帰りの松田某なる者から聞いた話として、要約すると、同行の書生が彼(か)の地で正直そのものの振舞をして宿屋の主人に見込まれたという話である。そして「此の通り、之を中外に施して悖(もと)らぬ実例があるのだといふやうなことを話した」とある。

 しかしこれは、前述した「中外」の誤解が生んだ話としか思えない。かつて教育勅語渙発の契機のひとつとなった地方長官会議の内容を見ても、海外旅行や海外留学、あるいは海外赴任の際の心得や振舞いについて勅語を望んだとはどの角度から見ても考えられないからである。


◇2 意義に変化が生じた大正期

 注目すべきは和辻哲郎である。彼は大正8年1月の「危険思想を排す」(『和辻哲郎全集 第22巻』において次のような文章を書いている。

「『皇国ノ道』とは教育勅語の『斯ノ道』であるという公式解釈は、一見には従来の教育勅語との連続性をもつもののように見えるが、そこには『斯ノ道』の解釈の変更による従来の解釈からの飛躍が根底に存在するのである。(中略)些細(ささい)に見える指示語の範囲の変更が周到に用意されることで、『皇国ノ道』は膨張する総力戦体制下の新しい指標たり得たのである」

 和辻哲郎も、教育勅語の道徳は古今中外を通ずるところの普遍的に妥当なもの、との認識であった。しかし上記の内容は教育勅語の意義について変化が生じていることを示している。

 そして徳富蘇峰(そほう)は「大正の青年と帝国の前途」においてもう少し具体的に語っている。

「折角の教育勅語も、之を帝国的に奉承(ほうしょう)せずして、之を皇政復古、世界対立の維新改革の大精神に繋(つな)がずして……(中略)……大和(やまと)民族を世界に膨張せしむる、急先鋒の志士は、却(かえっ)て寥々(りょうりょう)世に聞ゆるなきが如(しか)かりしは、寧(むし)ろ甚大の恨事(こんじ)と云(い)はずして何ぞや」


◇3 異民族統治の技術論にとどまる

 歴史をさかのぼれば、下関講和条約が明治28年、教育勅語渙発の5年後に締結された。そして台湾は我が国の統治下となり、さらには明治43年に日韓併合となっている。これらの時代を経て、大正期には和辻哲郎や徳富蘇峰に代表されるような教育勅語の捉え方が発表されていたのである。そして朝鮮国民の教育について、「先祖の遺風」という言葉などは民族を異にする朝鮮人には理解し難いというような議論が起きたのである。

 「之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施して悖らず、と教育勅語にあって、我(わが)国固有の道は普遍的なものである」と述べていた識者たちである。ここに矛盾が生じてきたのは当然であった。明治天皇から現今の教育勅語を賜(たまわ)ったころには、幾多(いくた)の民族を所有しては居なかった、として修正さるべきである、と井上哲次郎などは語ったのである。

 台北師範学校『教育勅語ニ関スル調査概要』(『続・現代史資料10』)には上記のような矛盾に対してさまざまな意見のあったことが記されている。

 なかでも「別に新たなる勅語を要すといふは、教育勅語の『古今に通じて謬らず中外に施して悖らず』に背馳するものにして、教育勅語は謬らず悖らざるものにあらずと説くものなり」は、代表的な意見のひとつである。

 しかし、これらの議論はいわば統治技術の範囲内にあって、教育の淵源(えんげん)そのものについての議論にはならずじまいであったとみて良いのではないか。議論が深まっていれば、『徳』や『中外』の誤った解釈が訂正されていただろうからである。」


◇4 第1、第3段落が強調される昭和初期から終戦まで

 先に述べたように昭和5年は教育勅語渙発40周年である。この年に記念出版されたなかでとくに特徴的なものは、田中智学の『明治天皇勅教物がたり』である。第二段落の徳目よりも第一段落と第三段落の解説に力点が置かれているのである。

 「八紘一宇」の語そのものは用いていないが、神武天皇・天業恢弘(かいこう)東征の詔(みことのり)から、「積慶(せきけい)」「重暉(ちょうき)」「養正(ようせい)」の三大綱などが解説されている。

「既(すで)に、皇祖皇宗の御遺訓たる斯道は、その儘(まま)「天地の公道」「世界の正義」で、決して日本一国の私の道でない。ト(と)いふ義は、元来日本建国の目的が、広く人類全体の絶対平和を築かうために、その基準たる三大綱に依(よ)って『国ヲ肇(はじ)メ徳ヲ樹テ』られたのである。……(中略)……此(この)三大綱は、建国の基準、国体の原則であって、彼の自由平等博愛などより、もっと根元的で公明正大な世界的大真理である」

 明治期には主に第二段落の徳目が語られた教育勅語であったが、大正から昭和初期には第一段落と第三段落が強調されてくるのである。

 そして昭和初期から終戦までは「斯の道」は「皇道」となったのである。


◇5 「徳目」から「皇国の道」「世界史的使命」に変化

 そのことは以下のような文献に明らかである。

◎「昭和維新論」東亜聯盟同志会

「皇国日本の国体は世界の霊妙(れいみょう)不思議として悠古の古(いにしえ)より厳乎(げんこ)として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道すなわち王道は、畏(かしこ)くも歴代祖宗によって厳として御伝持遊ばされ、歴世相承(あいう)けて今日に至った」

◎「大義」杉本五郎

「これ古今に通じて謬らず、中外に施して悖らざる『養正』の道義をもってする世界維新の大皇謨(こうぼ)、天皇親帥(しんすい)の下(もと)大和民族の大進軍なり」

◎「国体の本義」文部省

「国民は、国家の大本としての不易(ふえき)な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによって、維(こ)れ新たなる日本を益々(ますます)生成発展せしめ、以て彌々(いよいよ)天壌無窮の皇道を扶翼(ふよく)し奉(たてまつ)らねばならぬ。これ、我等(われら)国民の使命である」

◎「国民学校令」第一条(昭和16年)

「国民学校は皇国の道に則(のっと)りて初等普通教育を施し国民の基礎的練成を為(な)すを以(もっ)て目的とす」

 「皇国の道」はやはり教育勅語を基とするものであり、例えば朝鮮総督府令第90号の第4条・第6条(昭和16年)には次のような文章がある。

「国民科修身は教育に関する勅語の旨趣(ししゅ)に基(もとづ)きて国民道徳の実践を指導し、忠良なる皇国臣民たるの徳性を養(やしな)ひ、皇国の道義的使命を自覚せしむるものとす。国運の隆昌(りゅうしょう)文化の発展が肇国(ちょうこく)の精神の顕現(けんげん)なる所以(ゆえん)を会得(えとく)せしむると共に、諸外国との歴史的関係を明(あきらか)にして東亜及世界に於ける皇国の使命を自覚せしむべし」

 このころ強調された教育勅語は、「之を中外に施して悖らず」の「之」=「斯の道」が「徳目」から「皇国の道」となり、「肇国の精神の顕現」から我が国の「世界史的使命」となったのである。一言でいうとまさに「皇運(こううん)扶翼」である。

 「之を中外に施して悖らず」の「中外」が正しく「宮廷の内と外」「朝廷と民間」の意に解釈されていたなら、教育勅語を基にした「世界史的使命」は語られていたかどうか?

 そしてここに至るまでには信じがたい痛恨の協議会も、文部省によって開催されていた記録が残されている。


◇6 議論を封じ込めた和辻哲郎

 昭和14年10月、文部省は教学に関する聖訓の述義について、教科書編纂(へんさん)の参考に供(きょう)するため、「聖訓の述義に関する協議会」を開催した。協議会は7回に及び、おおむね第5回から最終第7回までが教育勅語に関する会議である(『続・現代史資料9』)。

 この報告書は「秘」扱いとなっているが、当時の要人たちの教育勅語観がよく分かる。

 林博太郎会長を筆頭に、委員は和辻哲郎・久松潜一・吉田熊次・諸橋徹次・山田孝雄(よしお)・紀平正美(きひら・ただよし)・近藤寿治(ひさじ)・宇野哲人(てつと)ら20名、幹事・書記は倉野憲司ら9名であった。そして決定事項は「教育に関する勅語の全文解釈」「勅語の語義釈義」「勅語の述義につき主なる問題に関する決定事項」である。

 和辻哲郎は議論を封じ込めるような発言を行っている。

 つまり、皇祖皇宗の遺訓は「父母に孝に」以下の御訓の部分であり、すべて忠の内容をなすものでこれが「斯の道」、人倫の道であると語り、元来これまでの文部省の解釈は数十年間大した反対もなく行われて来たものであり、それに今変更を加えるにはよほど重要な理由がなくてはならぬ、と述べている。またそういう理由が見つかったとすれば、在来のごとき解釈を立てていた文部省の責任が問われなくてはならぬと思う、と述べ、ここで聞いた意見のなかにはとくに解釈を変えねばならぬ理由として納得できるものはなかった、というのである。

 結局、「語義釈義」では「斯の道」は皇国の道であって、直接には「父母に孝に」以下、「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」までを指す、であり、「中外」は「我が国及び外国」とされたのである。教育勅語の第二段落の部分である。基本的には井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』と同じである。

 紀平正美などは「斯の道」が全文をうけるとしたいと述べ、今まで狭く解していたから、天壌無窮の神勅も「斯の道」に入らないことになる、と主張したがそれまでだった。


◇7 不毛な議論にとどまった

 天皇統治の本質である「しらす」について井上毅が憲法第一条にその意味を入れるのに苦心した話も出てはいるが、反応はない。したがって第一段落の「徳」に関する議論もなければ「中外」にも何の疑問も出されていない。ただ皇運扶翼と「中外に施して悖らず」との矛盾は感じられたと見えて、結論のない奇妙な議論が行われている。

 そして全体として『勅語衍義』や重野安繹(やすつぐ)・末松謙澄(けんちょう)あるいは今泉定助(さだすけ)らの解説書に拘束されて、明治天皇と井上毅・元田永孚の思いに至らなかったのが教育勅語解釈の実態だったのである。

 「徳」と「中外」の解釈に誤りをただせなかった協議会であるから、その議事要録の内容はまったく不毛で謬見(びゅうけん)に満ちている。当時のわが国最高レベルの知識人とはいえ、官定解釈とも公定註釈書とも言われた『勅語衍義』を見直すこともなく、最終的には「みな皇運扶翼に帰一せしめるように」述義していただきたい、と締め括(くく)られたのである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈 http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html 〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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