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日本は「cool(かっこいい)」───日本の歴史の連続性を評価する海外の目 [日本]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


 メルマガの更新がすっかり滞ってしまいました。申し訳ありません。

 さて、海外のいろんな人たちと話をするとき、初対面のあいさつで、こちらが「日本から来た」と自己紹介すると、私たち日本人としては予想もしない、「cool(かっこいい)」という反応が、ほとんど一様に返ってきて、面食らうことがしばしばです。

 今日はそのことについて、思うことを書きます。


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日本は「cool(かっこいい)」───日本の歴史の連続性を評価する海外の目
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◇1 当たり前すぎる歴史の事実

 誉め言葉に弱い私は、照れ隠しに、いま日本は夏だから「coolではなくて、hotだ」と冗談めかして、いっしょに笑うのですが、それはともかく、いったい何が「かっこいい」と考えられているのか? 聞き返してみると、歴史の連続性だという答えが、これまた一様に返ってきます。

 古代から同じ土地に、一つの国として、まとまって存続してきた。だから文学や音楽、服飾、建築などなど、古代の文化がそのまま継承されている。そういう国は、日本以外には世界のどこにもない。ほかの国では、民族の移動があり、王朝の交代があり、政変による政体の激変を経験してきたけれども、日本は違うというわけです。

 日本人にとっては当たり前すぎて、ともすれば自覚すらしないことですが、なるほど歴史の事実です。

 そのことは、すでにして18世紀の国学者、本居宣長(もとおり・のりなが)が『直毘霊(なおびのみたま)』(『古事記伝』全44巻の巻1)の冒頭に、「この国は天照大神がお生まれになった国で、外国に比べて優れている」と書いていることと深く関係していると思います。神代のままに歴史が続いています。

◇2 矢内原忠雄の批判の浅さ

 しかし、宣長のように「優れている」という価値判断をする前に、何がどう違うのか、なぜ違うのか、を実証的に、多角的に、歴史検証する必要があるものと思います。そうでなければ、まさに宣長がそうであったように、「国粋的」という批判は免れません。

 たとえば、戦時中のキリスト教徒の「受難と闘い」の代表例として知られる矢内原忠雄・東京帝国大学教授が、敗戦後、自由の身となり、第一声で講演したテーマは「日本精神への反省」であり、その大半は宣長批判でした。日本人には絶対神、人格神の概念がない。日本精神を反省し、立派なものに仕上げるにはキリスト教を受け入れよ、と訴えたのです。

 戦前、雑誌論文などが「反戦的」と攻撃され、大学を追われた矢内原は、そのあとも個人通信がしばしば発禁処分を受けました。けれども生命の危険をおかして東条内閣と対立した神道人の存在こそ知られてはいますが、矢内原が戦時体制とそこまで抵抗したとは聞きません。

 矢内原は、日本の宗教伝統がキリスト教とは異なって、神観念も罪の概念も幼稚で、だから「侵略戦争」の反省も不十分だといいたげなのですが、矢内原の指摘それ自体がまったく逆に、矢内原の神道理解の底の浅さを浮き彫りにしています。

 それから60年を経たいま、冒頭に書いたように、海外のごくふつうの人々が他国にはない日本の歴史の連続性を認め、「cool」という表現で、宣長同様に評価しています。神観念も罪の概念も未発達と矢内原が指摘した日本が、矢内原の批判とは逆に、キリスト教文化圏からむしろ一目置かれているのです。

◇3 国民の内的世界を尊重する

 幾多の国々が興亡したヨーロッパとは異なる、日本という国の歴史的連続性は、むろん天皇統治の本質と関わります。

 佐藤雉鳴さんの連載でも述べられているように、天皇は国民の内心の自由に干渉せず、むしろ民の声を聞き、国をまとめることをお務めとしてきました。

 たとえば昭和7年のいわゆる上智大学生靖国神社参拝拒否事件のとき、学長の代理として陸軍省当局におもむいた丹羽浩三の回想(『未来に向かって』所収)は、大きな示唆を与えてくれます。

 小磯大将(丹羽の回想では陸相だが、次官の誤りと思われる)が「天皇が参拝する靖国神社に参拝しないのは不都合ではないか」と詰め寄ると、丹羽は「閣下の宗旨は何か」と逆に問いかけたのでした。「日蓮宗だ」と小磯が答えると、丹羽は重ねて「浄土真宗や禅宗の寺院に参拝するか」と質問し、小磯が「他宗の本山には参拝しない」と返答すると、「陛下はどの本山にも参拝します」という問答が重ねられ、やがて小磯は「書生論を取り消します」と切り上げたというのです。

 事件がキリスト教弾圧の象徴のようにいわれるのはまったくの間違いですが、それはともかくとして、ここで強調したいのは、国民はそれぞれの信仰にしたがって寺院などを参詣する。しかし天皇は天皇自身の信仰ではなくて、それぞれの民の信仰に敬意を表して、各宗派を表敬参拝する、ということです。

 天皇は、絶対神に正統性の根拠をおき、神に代わる地上の支配者であるキリスト教文化圏の国王とは異なり、「国中平らかに安らけく」という祈りをお務めとし、それゆえに国民の内的世界を尊重するのです。

 そのような天皇の「しらす」政治を、古臭いイデオロギーによるのではなく、事実に基づいて、歴史的に深く探究し直すことが求められていると考えます。さもなければ、海外の人たちの「cool」という誉め言葉は、そのうち冷めてしまうでしょう。

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