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平成の祭祀簡略化に似るイセヒカリ──驚異の米に官僚たちは無関心 [イセヒカリ]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

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平成の祭祀簡略化に似るイセヒカリ
──驚異の米に官僚たちは無関心
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 知り合いの農家からイセヒカリの新米が届きました。毎年、この時季になると、収穫の喜びを伝える手紙とともに、かならず送ってくださるのです。ありがたいことです。

 けれども今年は、少し勝手が違っていました。明るい表情が見えるようないつもの文面とは異なり、悲しみに沈んでいます。

 今年は例年にない酷暑が続いただけでなく、雨がほとんど降りませんでした。そのため米農家になってはじめて不作を経験したというのです。

 県が勧める奨励品種は土地柄にあった品種のはずですが、今年はいわゆる等外米にしかならず、農協は買い上げてくれそうにありません。一等米がとれなかった現実は、米作り名人にとって不名誉としかいいようがなく、声が沈むのはもっともです。

 それでも、イセヒカリは真価を遺憾なく発揮しています。何年か前の猛暑の年もそうでしたが、熱帯ジャポニカの遺伝子を持つというイセヒカリは、炊いたときの色艶といい、食べたときの味わいといい、その輝きを失ってはいません。

 日本農業の危機の時代に、まるで記紀神話を再現するかのように、平成の御代替わりに時を合わせて、皇祖神をまつる伊勢神宮の神田で誕生した奇蹟の米であることを、あらためて実感させられます。


◇1 イセヒカリ自身が広めるイセヒカリ

 私はこのイセヒカリのことを思うとき、平成の祭祀簡略化問題が二重写しに見えてきて、ため息が出ます。

 平成の祭祀簡略化は、日本の文明の根幹と関わる天皇の祭祀を、天皇のご健康問題を口実にして、官僚たちが無軌道な簡略化を進めています。これに対して、日ごろ、皇室崇敬を表明している人たちから抗議の声が上がっているかといえば、そうではありません。昭和の時代と同様、陛下お一人が祭祀を守っておられるというのが現実でしょう。

 イセヒカリもこれに似ています。

 農政に関わる日本の官僚たちはイセヒカリにほとんどまったく無関心です。戦後の稲作りは品種改良から生産、流通にいたるまで、行政が握っています。国や県の農業試験場ではなく、神社の田んぼで突然、生まれてきたイセヒカリを、いかに優れた形質を持っていようとも、行政は対応のしようがないのです。

 これに対して、イセヒカリの価値を深く理解し、広めてきたのは、伊勢の信仰を日ごろ、唱えている人たちではなく、一般の米農家です。長年、米作りにたずさわってきた全国各地の名人たちが圧倒的なイセヒカリの力に魅了され、神に仕えるように栽培を手がけてきたというのが実態です。

 いまある県では、作況指数の算出に使われる無作為抽出のサンプルの1%がイセヒカリだと聞きますから、県全体の作付面積の百分の一がじつに伊勢神宮生まれのこの米だということが推定できます。

 伊勢神宮の関係者が宣伝したという事実などまったくないのに、これだけの広がりを持っているのは、イセヒカリがまさに驚異の米であることの何よりの証です。イセヒカリ自身がイセヒカリを広めているのです。


◇2 宮中祭祀に宣教師はいない

 県の奨励品種なら栽培方法を指導する県の担当者がいますが、イセヒカリにはそのような普及指導員はいません。

 同様に、天皇の祭祀も宣教師はいません。それどころか、日本の宗教伝統には統一的な教義もなければ、布教の発想もありません。

 戦前、国家神道なるものが日本国民の精神的支柱となり、神社や学校で国家神道が広められたという考え方がアカデミズムやジャーナリズムのなかに根強くありますが、少なくとも神社が国家神道を広めたというのはまったくの幻想だろうと思います。

 そのような力があるのなら、イセヒカリはもっと強力に広まったはずだし、平成の祭祀簡略化には猛然たる抗議がわき起こっているはずです。

 本来、多様な地域の風土に根ざした宗教伝統を、明治人たちが、押し迫る欧米勢力に対抗する必要に迫られて、国家主義的に近代化しようとする試みがあったのは事実でしょう。けれども、元来、きわめて地域的で、伝道の発想も、教義すらない神道にはそもそも無理があり、キリスト教の一神教的発想を新たに導入しなければ成功することはできなかったのであって、実際、失敗したのです。

 アカデミズムもジャーナリズムも、神道に対する見方を誤っています。

 たとえば、朝鮮神宮の創建を提案した神道人はそもそも民族の融和をこそ訴えたのであり、であればこそ天照大神や明治天皇を祭神とすることに猛反対したのです。上海戦線で日本軍が暴走するのを、当時の明治神宮の宮司らは阻止しようとしたし、靖国神社の宮司はいわゆる軍国主義の先鋭化を牽制していました。

 いまはそのような気概すら失われているかのようです。大陸侵略の先兵でも、軍国主義や超国家主義の宣教師でもあり得なかったように、祭祀簡略化を進める官僚たちに抵抗する勢力として期待もできないということでしょうか。

タグ:イセヒカリ
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