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国家神道はキリスト教である──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える その3 [島薗進国家神道論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(平成22年11月22日)からの転載です


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国家神道はキリスト教である
──島薗進著『国家神道と日本人』をテキストに考える その3
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 島薗進・東大大学院教授の『国家神道と日本人』を批判的に読んでいます。

 誤解しないでほしいのですが、私は個人攻撃しているのではありません。先生の近著をテキストにして、日本の近代宗教史を見きわめたいというのが、私の目的です。

 島薗先生は人格的に立派な方ですし、現代日本における最高水準の宗教学者です。したがって先生の近著は、現代宗教学のレベルを示していると同時に、課題が見えてきます。

 まず簡単におさらいをすると、これまで私は、キリスト教的な一神教モデルに縛られ、そのために日本の宗教史の現実が正確に理解できないでいるのではないかと指摘しました。

 先生の著書は「日本人の多くは『無宗教』だといわれる」という書き出しで始まります。「戦前はおおかたの日本人が国家神道の影響下で生活」していたのに対して、戦後は「特定宗教の教えや礼拝に慣れ親しむ」ということが無くなった、という見方です。

 創始者がいて、宗教的な教えがあり、宗教指導者が行う儀式に信者が参加する、というキリスト教モデルに従えば、先生のご指摘通り、日本人の多くは「無宗教」だということになるでしょう。けれども、日本人は十分に宗教的だし、戦争の時代を境にして「宗教」的な日本人が「無宗教」に変わったというようなことは、常識的に考えてあり得ないでしょう。

 国家神道をめぐる現代宗教学の発想は完全に誤っているということになります。キリスト教徒ではない日本人の宗教を、キリスト教モデルで論じても始まりません。当たり前のことです。

 けれども、戦前の、いうところの国家神道なるものが、キリスト教モデルに照らし合わせて「宗教」的だという見方は、まったく注目に値します。欧米のキリスト教文化を大胆に受容したのが日本の近代です。日本人の宗教伝統がその影響を免れなかったのはいうまでもありません。というより、西暦を記載する暦を発行する発行元となった伊勢神宮を筆頭にして、キリスト教文化を積極的に受容したのが近代の神社でした。

 先生の著書に話をもどすと、戦前の日本人の宗教性を検証する手始めとして、教育勅語を取り上げます。先生によれば、教育勅語こそ国家神道の「聖なる教え」であり、日本人は折に触れて、ご真影と教育勅語に頭を垂れるという神道的な拝礼に親しんだ、と解説します。

 つまり、キリスト教モデルによる宗教分析に取り組む先生の発想では、戦前の国家神道なるものには、教育勅語という教えがあり、神道的な礼拝を伴う宗教だった、ということなのでしょう。

 先生はこれを、「神道の形態」である、と断言しています。

 けれども、これは完全な勘違いというべきでしょう。

 第一にキリスト教モデルの視点からすれば、たしかに教義と礼拝という宗教的要素を備えているように見えます。日本人は「無宗教」どころか、「宗教」的だったという論理が成り立つように見えます。

 しかしキリスト教モデルでもっとも肝心な、創始者としてのイエス・キリストが国家神道にはいません。少なくとも先生の著作の冒頭には見当たりません。宗教指導者である国家神道の宣教師も見当たらないのです。教育勅語が国家神道の教義だと断定するのも、性急に過ぎるでしょう。

 キリスト教モデルによる国家神道論に無理があるのです。そのことは日本人の宗教伝統である神道の視点から見つめ直すとはっきりします。

 もともと神道は自然発生的な宗教ですから、宗教指導者はいません。キリスト教の場合、教会を建て、人々に教えを説き、教勢を拡大させる宣教師がいますが、日本の神道には宣教師はいません。神社を建てるのは神職ではなく、氏子です。神職は氏子と神とを仲立ちする仲執持(なかとりもち)という立場です。

 神道には教義がありません。神職が氏子に教えを説くという形態はありません。布教という概念がありません。

 キリスト教的な礼拝もありません。戦前期に日本人が御真影や教育勅語に頭を垂れたのは、日本の伝統的宗教儀礼とはまったく異なります。神社で行われるのは、神々に供え物をし、家内安全や豊年満作などの祈願です。教育勅語の儀礼は祈願ではありません。

 先生は「伊勢神宮や皇居を遥拝し、靖国神社や明治神宮に詣で、天皇の御真影と教育勅語に頭を垂れた」のは、「天皇と国家を尊び、国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態である」と断定しています。

 しかしそうではありません。

 拝礼の対象や儀式の場に神社が利用されていることはたしかですが、これは日本人の宗教伝統とは別でしょう。国民個々の信仰生活ではなくて、近代国家が要請する国家的儀礼というべきものであり、「神道の形態」に擬せられているだけです。

 島薗先生は、国家神道がいかに神道的だったか、を論じるのに懸命ですが、そうではなくて、むしろ、国家神道はいかにキリスト教的だったか、を論じる必要があります。


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