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近代の肖像 危機を拓く 第445回 葦津珍彦(3)──先人たちが積み残したアジアとの融和 [葦津珍彦]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です

葦津珍彦3.jpg
 明治時代に創刊され、百年以上の歴史を誇る宗教専門紙「中外日報」の長期連載「近代の肖像」に、葦津珍彦について3回連続で書きました。編集部の了解を得て、転載します。見出しなどは少し変えています。今日は第3回です。
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-rensai/r-kindai005.htm


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近代の肖像 危機を拓く 第445回 葦津珍彦(3)
──先人たちが積み残したアジアとの融和
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「戦後唯一の神道思想家」「神道の社会的防衛者」葦津珍彦の歩みは敗戦後、始まる。

 占領軍が過酷な反神道政策を採ることを予想する葦津は、組織的防衛の必要を痛感し、今日の神社本庁設立のために奔走した。昭和二十一(一九四六)年二月、伊勢神宮の崇敬団体・神宮奉斎会、神職の全国組織・大日本神祇会、神道の研究・教育機関である皇典講究所の民間三団体が合併し、宗教法人神社本庁が設立された。その初仕事は、国有境内地の払い下げ問題と神社新報の創刊であった。同年七月に神社新報が発刊され、葦津は編集主幹兼社長代行者となる。

 当時、葦津は、極東裁判に昭和天皇が出廷するような事態になれば特別弁護を買って出ようと準備していたといわれる。その後、紀元節復活、靖国神社国家護持、剣璽御動座復古、政教分離裁判支援、元号法制定、内廷費増額運動などに中心的役割を果たしたことはよく知られている。一見すれば「戦前回帰」であり、「国家神道」復活を企図する時代錯誤と解釈する人もいるが、葦津の来歴を見れば、そうではないことが分かる。

 葦津が関わった仕事に、先人たちが積み残したアジアとの融和がある。

 葦津は若いころ、朝鮮独立運動家の呂運亨(りょうんきょう)を当時随一の神道思想家・今泉定助に取り次いだことがあった。のちに「朝鮮人民共和国」副主席ともなった建国運動の中心人物は、戦争中、「存亡の危機に立つ日本が必要としている和平工作を助けることによって、日本に朝鮮の独立を承認させよう」ともくろみ、朝鮮総督・小磯国昭との直接交渉を実現するため、小磯が師と仰ぐ今泉に接近した。困難な提案を今泉は熟慮の末に受諾し、小磯宛の長い紹介状を書いた。文案を作成したのは葦津である。しかし狙いははずれ、やがて呂は反共反日の李承晩派に暗殺される。歴史はまたしても葦津たちを裏切るのだった。

 約二十年後、日韓国交正常化から数カ月後の四十一年春、葦津は韓国を訪問し、大学教授や学生など三十数名と長時間討論した。韓国人は李承晩以来の徹底した教育で、反日に固まっていた。「諸君の歴史観では、よい日本人は一人もいなかったことにならないか」と葦津が問いかけると、学生たちは沈黙した。「外国が非道だから国が滅びざるを得ないというのでは、そもそも独立を保てない。むしろ諸君は、朝鮮内部の亡国理由を鋭く直視すべきではないか」

 翌日、葦津は、機内から朝鮮半島を眺め下ろしつつ、若き日の父を思い、明治の青年たちの壮大な志と情熱を懐かしむ一方、これからの日本の青年が対日不信に固執する韓国青年と交わり、その意識を揺り動かし、深い信頼と友愛を築き上げることは容易ではない。才知や打算ではなく、山をも動かさねばならぬというほどの情熱と大志が要求される、と強く思うのだった。葦津の膨大な近代史研究はこの訪韓後、本格化する。

 一介の野人を貫き、五十冊を超える著書を残し、平成の御代替わりを見届けて、平成四(一九九二)年春、葦津は鎌倉の自宅の、好きだった暖炉のある洋間で、吸いかけのタバコを手に、永遠の眠りについた。

タグ:葦津珍彦
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