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皇室史上初のビデオ・メッセージ──国難のときに発揮される天皇の祈り [東日本大震災]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンからの転載です


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 皇室史上初のビデオ・メッセージ──国難のときに発揮される天皇の祈り
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「皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを、衷心より願っています」

「被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に、明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共に、それぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」

 今上陛下は大震災発生の五日後、異例のビデオ・メッセージで、いたわり合い、分かち合いによる災害の克服と復興への決意を国民に直接、そしてきわめて穏やかに呼びかけられました。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/tohokujishin-h230316-mov.html

 陛下は歴代天皇がそうであったように、未曾有の天災を真正面から受け止め、沈着冷静に、災害対策・復興の先頭に立とうとされているように思われます。

 天皇は国と民のため、ひたすら祈られる祭祀王です。天皇の祈りは、危機のときにこそ発揮されます。


▽1 国家予算の3倍以上にのぼる物的被害

 今回の大震災で思い起こされるのは、およそ90年前の関東大震災です。混乱を収め、復興への道を示したのが皇室でした。

 大正12(1923)年9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源地とするマグニチュード7・9の大地震が関東・東海地方を襲いました。その直後、百数十カ所から同時に火災が発生し、東京の下町や横浜は火の海となり、壊滅しました。

 関東の1府6県中、被害がもっとも大きかったのは東京府(いまの東京都)と神奈川県で、とくに神奈川の被害がはるかに大きかったといいます。損害を被らなかった家屋はなかったほどでした。

 1府6県の被害世帯数64万4千世帯のうち、57パーセントにあたる39万7千世帯は東京府の被害世帯で、そのほとんどは東京市内に集中していました。神奈川県の被害世帯数は23万7千世帯で、1府6県全体の35パーセントを占めていました。罹災者の総数は340万4900人、うち死者・行方不明者は10万4619人に上ったと記録されています。

 物的損害は国家予算の3倍以上に上る45億円、あるいはそれ以上ともいわれ、経済活動が1カ月間、停止するという未曾有の被害がもたらされました(『大正震災志 上』内務省社会局、大正15年など)。


▽2 大正天皇は日光で御静養中

 震災当時、大正天皇(明治12[1879]~大正15[1926])と貞明皇后(1884~1951)は栃木県日光の田母沢御用邸で御静養中でした。

 当時の模様が「震災記念号」と銘打たれた全国神職会の機関誌『皇国』大正12年10月号や『大正震災志 下』(内務省社会局、大正15年)、および秩父宮、高松宮、三笠宮の三妃殿下の協力で戦後、まとめられた伝記『貞明皇后』(主婦の友社、昭和46年)に記録されています。

 それらを読むと、この年の夏は海辺の暑気と湿気が異常なほどで、病を得られた大正天皇は不快に感じておられました。毎年、夏は葉山の御用邸でお過ごしになるのが恒例でしたが、さわやかな山の冷気がお体にはよろしかろうという皇后のお考えから、この年は日光にお出かけでした。

 このご判断が最大の悲劇を回避させました。

 地震発生時、日光の御用邸も激しい振動に見舞われ、側近の者たちからも大きな悲鳴が上がりました。皇后はひとり落ち着き、うち騒ぐ女官たちを制し、天皇のお体に手を添えられて、庭先の広い芝生に導かれようと努められました。

「ひどい地震ですね。急いで東京に電話して、こちらは無事でいることを知らせ、また東京の様子をうかがうようにしてください」

 皇后は侍従に命じられましたが、すでに電話は不通でした。重ねての命令で、御用邸を警備する近衛部隊の伝書鳩により、天皇の御無事が東京に伝えられました。伝書鳩とはいかにも時代を感じさせます。


▽3 加藤友三郎死去のあと、山本権兵衛が大命拝受

 折しも東京では、加藤友三郎首相(1861~1923)が在任中の8月25日に死去したあと、鹿児島生まれで、加藤同様に海軍軍人出身の山本権兵衛(1852~1933)が、大命を拝して第二次内閣の組閣に取り組んでいましたが、その作業は困難をきわめました。軍備拡張に伴って軍部、ことに陸軍の政治介入が目立つようになり、政党側は強く反発していたからです。

「維新の三傑」の一人、大久保利通の次男で、文部大臣、外相などを歴任し、この年の2月に宮内大臣に任命された牧野伸顕(1862~1949)の日記(『牧野伸顕日記』1990年)や、日露戦争や第一次大戦で輝かしい武勲をあげた名将で、その後、大正天皇の侍従武官となった四竈孝輔の日記(『侍従武官日記』昭和55年)、同じく大正天皇の侍従武官長奈良武次の日記(『侍従武官長奈良武次日記・回顧録』平成12年)などによると、加藤首相が亡くなったあと、外交官出の内田康哉外相(1865~1936)が臨時首相を兼務することになるのですが、あくまで暫定措置でした。

 数日前には神戸で潜水艦が沈没し、八十名が殉職する事故もあり、混乱の極にありました。

 25日に摂政宮(皇太子。のちの昭和天皇)が軽井沢から帰還されると、直ちに内田内相の首相兼任の親任式が行われ、潜水艦事故の報告もなされました。次期首相をめぐって、元老、侍従長などがあわただしい動きをみせ、28日、山本に大命が下ります。

 摂政宮は赤坂離宮に山本を召して、「内外多難の際、はなはだ苦労ながら、内閣組織のことを卿にわずらわさんと思う。切にこの大任にあたらんことを望む」という趣旨のお言葉を賜りました。山本は熟考し、時勢の容易でないこととお召しに対する謝意を申し上げたのち退出します。

 山本が大命拝受を決意したのは、2日後の30日でした。

 31日は天長節(大正天皇の御誕生日)。東京では特別の行事はありませんでしたが、日光では天皇が秩父宮、澄宮(三笠宮)両殿下と御対面になり、宮内大臣はじめ側近高等官らに酒肴を賜りました。夜には小学校の子供たちや青年団員らによる提灯行列が行われました。


▽4 摂政宮は大地震に動じず

 9月1日は土曜日で、いつもなら摂政宮は、午前中は赤坂離宮から参内され、政務をこなされたあと、昼過ぎに還啓の予定でしたが、正午前に大地震が起こります。四竈は地震発生時のようすをその日の日記にこう書き記しています。

「このとき自分は倉賀野武官とともに侍従武官府にありしが、地震は最初上下動に始まり、しばらく継続し、次いで水平動となる。30秒もたちたるころならんか、隣接する小使室の、瓦屋根より延長されたる仮造ひさしはメリメリと音して落ち始め、瓦がポツポツ落ち始めたれば、いまは一刻も猶予すべくもあらず」

 四竈は摂政宮の御座所である西一の間に駆けつけようとしましたが、地面が揺れて、途中、満足に走ることができません。

 皇太子は侍従次長らとともに正殿前の御庭に避難されていましたが、さすがというべきでしょうか、大地震にもかかわらず、動じられている御様子はいささかもなかったといいます。

 最初の3分は激震、さらに強震が3分間継続し、その後も余震が続きました。


▽5 ロウソクの光で行われた新内閣親任式

 難航していた組閣交渉は地震発生後、急速にまとまります。

 宮内省御用掛で海軍少将の山本信次郎の談話をまとめた『摂政宮殿下の御日常を拝して』(日本警察新聞社、大正14年)によると、新内閣の親任式は翌2日夜、摂政宮台臨のもと、赤坂離宮の庭の小さな四阿で、ロウソクの光に照らされて行われました。

 不気味に余震が続き、停電で電灯が消えたなかでの親任式を、山本は「日本開闢以来」と表現しています。

 日露戦争後の日比谷焼き討ち事件以来という戒厳令が、すでに関東南部全域に布告されていた。


▽6 皇族のなかにも犠牲者

 当時、テレビはもちろん、ラジオ放送さえありませんでした。東京の新聞は発行不能に陥り、情報は途絶え、代わりに根も葉もない流言飛語が飛び交うという始末で、被害状況を正確に把握できません。

 想像を超える大惨事に至っていることが日光の御静養先で理解されるようになったのは、震災から一週間も過ぎたあとだったといいます。

 被害は皇室とて例外ではありません。皇太子のお住まいであった高輪御所が全焼し、夏の御静養先だった葉山御用邸も大きな被害を蒙っていました。この年、天皇は例年の葉山ではなく日光で御静養されていて、難を逃れることができたのです。震災発生時、政務のため皇居におられた皇太子は、「ああ、よかった。両陛下が日光にいらしって、ここにおいでにならないで」と洩らされたといいます(前記『御日常を拝して』)。

 しかしながら山階宮武彦王妃佐紀子女王は鎌倉・由比ヶ浜の御用邸で、閑院宮姫宮寛子女王は小田原の御別邸で、東久邇宮師正王は藤沢・鵠沼の御別邸で遭難され、犠牲となっていました。


▽7 御内帑金一千万円を下賜

 震災当日、父帝のお見舞いのため日光に滞在されていた秩父宮親王は直ちに帰京され、第一師団の戒厳勤務となり、都内を巡視、皇族の総代として被災者を慰問されました。

 9月4日、被災した街の辻々に、活字のほかにガリ版、手書きを含む新聞の号外が張り出されました。地震発生当日から東京の新聞は発行不能に陥っていましたから、号外とはいえ久しぶりの新聞です。

 そこには、被災者を思いやって御内帑金(天皇のお手元金)が一千万円、下賜されたことが記され、左記の「摂政宮の御沙汰書」が掲載されていました。

「今回、希有の大地震、東京および近県を襲い、これに加うるに大火をもってして、その惨害はなはだ大なるはじつに国家生民の不幸なり。予はその実情を見聞して、日夜憂戚し、ことに罹災者の境遇に対して心深くこれを傷む。ここに内帑をわかちてその苦痛の情を慰めんと欲す。官民それ協力して適宜応急の処置をなし、もって遺憾なきを期せよ」


▽8 復興に向けた御覚悟

 大震災の惨劇に直面して、その復興のため、皇室はよほどの御覚悟をされたものと思われます。牧野宮内大臣の『日記』は「9月11日」にこう記されています。

「皇族職員召集。各殿下この際における御態度如何は皇室の御徳に影響するにつき、細心の注意を要し、進んで救恤、各御殿公用その他に提供等のことを訓辞す。

 総理へ面談。大詔煥発後につき協議あり。内容につき多少意見ありたるも、政府の処置に関するをもって一通り所見開陳、引き取る」

「御態度如何は皇室の御徳に影響する」──大震災をどう乗り切るかは、政府はもちろんのこと、皇室にとっても一大事であっでしょう。それは牧野のような側近の発想というだけにとどまりません。『古事記』に描かれている仁徳天皇の「民の竈」の故事に代表されるように、「国平らかに、民安かれ」とひたすら祈られるのが古から連綿と続く天皇第一のお務めです。

 実際、天皇の御不例という状況下で、とくに摂政と皇后がとられた行動は獅子奮迅ともいうべきものでした。


▽9 「寝食為に安からず」

 首都復興の強い意志を示す詔書が摂政名で発せられたのは、翌9月12日です。

「……そもそも東京は、帝国の首都にして、政治経済の枢軸となり、国民文化の源泉となりて、民衆一般の瞻仰するところなり。一朝不慮の災害に罹りて、今やその旧形を留めずといえども、依然として我が国都たる地位を失わず。これをもって、その善後策は、ひとり旧態を回復するにとどまらず、進んで将来の発展を図り、もって巷衢(こうく)の面目を新たにせるべからず。惟(おも)うに、我が忠良なる国民は義勇奉公、朕(ちん)と共にその慶に頼らんことを切望すべし。これを慮りて、朕は宰臣に命じ、速かに特殊の機関を設定して、帝都復興のことを審議調査せしめ、その成案は、あるいはこれを至高顧問の府に諮(と)い、あるいはこれを立法の府に謀り、籌画(ちゅうが)経営万遺算なきを期せんとす。在朝有司、能く朕が心を心とし、迅に災民の救護に従事し、厳に流言を禁遏(きんあつ)し、民心を安定し、一般国民、また能く政府の施設を翼けて、奉公の誠悃(せいこん)を致し、もって興国の基を固むべし。朕、前古無比の天殃(てんおう)に際会して、〓(じゅつ)(「血」に「卩」)民の心愈々(いよいよ)切に、寝食為(ため)に安からず、爾(なんじ)臣民それ克(よ)く朕が意を体せよ」(原文は漢字カタカナ混じり)

 きわめて深刻な被害に直面して、人心は動揺し、遷都論さえ浮上していましたが、摂政たる若き皇太子は、あくまで東京が首都であることを確認し、東京の復興・再建を国民に強く呼びかけました。「寝食為に安からず」という表現からは悲壮感さえただよってきます。


▽10 皇太子、被服廠跡を御視察

 天皇の御不例(御病気)により、2年前の御外遊帰国から2カ月あまり後の大正10年11月25日に御年21の若さで摂政となられた皇太子にとって、震災はことのほか大きな試練でした。

 内務省社会局がまとめた『大正震災志 下』や全国神職会の機関誌『皇国』によると、皇太子は側近たちを被災地につかわして被害状況を調査させたのみならず、9月15日にはみずから災害状況を確認されるため、馬で被災地を視察されました。

 外濠に沿って市ヶ谷見附を入り、三番町通りを経て、九段の靖国神社の社頭に出られるころ、緑豊かだった勝景は一朝にして焦土と化していました。ビザンチン様式のニコライ堂の残骸を背景に、神田、日本橋、京橋にかけて焼け野原が続いています。皇太子は、その惨状をしばらく黙然として見つめられました。

 18日には下町を視察されました。上野駅はほとんど鉄骨だけを残すのみで、上野の森には天幕やバラックで被災者が雨露をしのいでいました。数万の命が失われた本所被服廠跡も視察されました。

 いま東京都慰霊堂のある墨田区横網の横網町公園は陸軍被服廠の跡地で、震災当時は公園として整備するため工事中でした。地震に引き続いて火災が発生し、万余の被災民が空き地を求めてこの跡地に逃げ延びたのですが、不幸にも追いかけるように襲ってきた猛烈な業火の犠牲となったのです。大震災の最大の悲劇と伝えられています。

 前記・山本信次郎の『摂政宮殿下の御日常を拝して』によると、ちりやほこりをいとわない、二度にわたる被災地の御巡視は「まったく思い切った御処置」でした。みずから惨劇の現場にお立ち寄りになった皇太子は、何を思われたのでしょうか。


▽11 震災並びに帝都復興の事を御親告の儀

 これより前、16日、皇太子は牧野宮内大臣を召され、民の惨状を見るに忍びないと、この年の11月に予定されていた久邇宮良子女王、のちの香淳皇后との御結婚を延期されました。

 28日午前には宮中賢所で、「震災並びに帝都復興の事を御親告の儀」が斎行されました。

 宮中祭祀について規定する「皇室祭祀令」(明治41年)は第19条で、「皇室または国家の大事を、神宮、賢所、皇霊殿、神殿、神武天皇山陵、先帝山陵に親告するとき」などは、天皇は拝礼するのみで掌典長が祭典を行う小祭ではなく、天皇御自身が皇祖神以下、天神地祇と相対されて祭典を奉仕する「大祭に準じ祭典を行う」と定めています。

 これにしたがって、震災復興を「皇室または国家の大事」と認識されて、最大級の重儀として祭典が行われたのです。

 四竈侍従武官の『日記』などによると、9月24日、台風接近による風雨の中で行われた恒例の秋季皇霊祭は掌典長の御代拝のみで、摂政の御親祭も、皇后の御代拝もありませんでしたが、震災ならびに帝都復興についての神事は、荘重に斎行されました。

 もっとも、皇太子は「非常特別の場合であるから」とおっしゃって、神事を行われる摂政宮や御参列の皇族は陸軍の通常礼装で、その他参列諸員も通常礼装というきわめて簡素な服装での祭典でした。震災で罹災した関係者の多くが大礼服を失っているということへの配慮からです。

 皇太子はまた伊勢の神宮ならびに神武天皇山陵、先帝山陵(明治天皇山陵)に天皇の使いである勅使を差遣され、同様に敬虔な祈りを捧げられました。本来は天皇みずから捧げられる重い祈りを、若き皇太子が代わって行われたのです。


▽12 御結婚予算を罹災社会事業奨励下賜金に流用

 また先述したように、御内帑金1千万円が下賜されたほか、皇太子の御成婚予算の大部分が罹災社会事業の奨励下賜金に流用されました。

 救恤金は閣議を経て、内外人を問わず、死亡者・行方不明者は1人16円、全焼住宅は1世帯12円というように、各被災者・罹災世帯に配分されました。

 さらに、社会事業、司法保護事業、盲唖教育事業に関わる諸団体に対して、応急資金3万9千余円が前後2回にわたって下賜されました。紀元節(いまの建国記念の日)に奨励金を下賜されるのが毎年の恒例でしたが、震災で被災した団体も少なくなかったことから、事業が滞ることがあってはならないというお考えからでした。

 救世軍社会事業部、二葉保育園、浄土宗労働共済会、聖路加病院など、キリスト教や仏教関係の社会事業団体も含まれています。

 キリスト教が解禁されてからわずか数十年ですが、皇室はキリスト教社会事業のパトロンの役目を負っていました。皇室が犠牲と奉仕のキリスト教精神のもっとも良き理解者だったのは、その歴史が始まって以来、国と民のためにひたすら祈られる犠牲と奉仕の御存在であり続けたからにほかならないと思います。


▽13 皇室は無収入に近い状態に

 宮城前広場や上野公園、新宿御苑など宮内省所管の地域にはのべ十数万人に上る罹災民が避難していましたが、そうした被災者に対する炊き出し、医療班、社会事業団体への御下賜金、損壊した宮殿などの応急修理費など直接の支出に加え、宮城、離宮、御用邸、学習院、博物館その他の被害は2千数百万円に達したといわれます。

 これらの莫大な出費を、宮内省はどのように捻出したのでしょうか。

 国庫から支出される皇室費は年450万円にすぎません。15宮家の生活費などは所有される林野からの収入約1千万円と日本銀行その他の株券・公債からの収益でまかなわれ、その収益は例年下賜される社会事業奨励金や自然災害の救恤費にも当てられていました。

 皇室財政は裕福といえるものではなく、被災者救済のための御内帑金1千万円は株式の一部を売却して捻出されました。また帝室林野の用材は被災者たちの建築用材に下賜されたため、皇室は無収入に近い状態に立ち至ったといわれます。

 このほか、一部宮邸が焼失した外国公館に貸与され、高輪の竹田宮邸はアメリカ大使館に、北白川宮邸はフランス大使館に当てられたばかりでなく、各宮家は賑恤金50万円を交付され、各妃殿下は職員やその家族にも督励して被災者に下賜される被服の裁縫に努められました。

 公正無私のお立場で、つねに国と民のため、さらに世界の平和のために祈られる皇室本来の姿がここにうかがえます。

 であればこそ、政府当局が恐懼するのはひとかどではなかったでしょう。『皇国』はある閣僚の言葉を次のように伝えています。

「皇室の財産はあるいは数億に上るかも知れませんが、大部分は山林原野で、いま直ちにこれを現金に換えることもできず、かつ皇室費は450万円だけで、近年の諸種のことがらにより支出も激増しておりますから、世間で想像のごとく裕福なものではありません。今回の震災でも皇室経済の許すかぎり、思召しを体して救済事業に没頭している次第です」


▽14 「自分らは一汁一菜でも凌ぐから」

 一方、日光で天皇のおそばにある皇后は、罹災地の食糧が欠乏していることを知ると、毎日の供御の数を減らすよう、担当の大膳職に指示されました。

 また、「両親と死別した孤児、扶養者を失った老人はどれほどの数になるか」と侍臣たちに問われ、その身の上を気遣われました。

 9月25日に後藤新平内相が伺候して、被災状況をお話申し上げたとき、皇后は、「自分らはたとい一汁一菜でも凌ぐから、役人たちは徹底的に罹災民を救い、帝都復興に尽くしてもらいたい」と述べられました。

 日光の御用邸は避暑のための施設で、耐寒の設備はなく、朝夕は冷え込んで御不自由もありましたが、ひたすら被災民のことを思われたのです。

 さらに、国民の不安を取り除くため、天皇が一日も早く帝都に還御されるべきだ、とお考えになり、29日に皇后は混乱の続く焼け野原の東京にもどられます。

 お召し列車が上野駅に到着されるや、皇后は直ちに上野公園自治会館や都内の病院に被災者や入院患者を見舞われ、翌日も、その翌日も、そのまた翌日も、都内数カ所の病院を慰問され、負傷者たちをいたわられました。

 また、東京市長・永田秀次郎の案内で、本所被服廠跡も訪れられ、長く敬虔な祈りを捧げられたという。

 非業の死を遂げた犠牲者や家族を失った遺族、住む家をなくした被災民を思いやる皇室の慈しみの心にはひとかどならぬものがありました。つねに国と民のために祈られる皇室なればこそです。

 東京を世界都市に蘇らせた天皇の祈りは、今日にも引き継がれています。

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