昭和天皇の戦後御巡幸と今上天皇の被災地歴訪は別物か──東京新聞5月14日付特報記事を読む by 佐藤雉鳴 [東日本大震災]
以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年5月15日)からの転載です
昨日の東京新聞「特報面」に、大震災の被災地を訪問し、人々を直接、励まされている両陛下についての記事が載りました。昭和天皇の戦後御巡幸と比較し、識者はどう見ているか、がまとめられています。5人の識者の1人に私も加えていただきました。
短時間のうちに、要領よくまとめられた、さすがプロの記事ですが、面白いのは、作家の半藤一利さんと坂本孝治郎学習院大学教授が両者は「別物」と指摘していることです。
お2人に共通するのは、要するに、天皇を政治的存在と見る政治的理解です。であればこそ、昭和天皇の御巡幸を、半藤さんはソ連の存在を念頭に置いた「一種の闘いだった」と解釈します。坂本先生は「天皇が『人間』に変身し、学習する過程だった」から「お見舞い」と比較することはできない、と考えるわけです。
この記事について、畏友・佐藤雉鳴さんが以下のような感想を書いてくださいました。
忘れないうちに補足します。佐藤さんがこの3月、『日米の錯誤・神道指令──知識人の大罪』という本を出版されました。お買い求めのうえ、どうぞご一読ください。
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昭和天皇の戦後御巡幸と今上天皇の被災地歴訪は別物か
──東京新聞5月14日付特報記事を読む by 佐藤雉鳴
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天皇、皇后両陛下は、大震災と大津波の被災者、そして原発災害によって避難生活を余儀なくされている方々を訪れ、お見舞いのお言葉をかけられています。
震災から5日後の3月16日にはビデオメッセージで「お言葉」を発せられ、被災地の方々のみならず、全国民に大きな勇気を与えて下さいました。また大勢の方々の生命と財産を呑み込んだ、瓦礫の山や海に黙礼される両陛下のお姿にも、人々は胸を熱くしました。
▽1 歴代天皇の多神教的神々への畏怖
東京新聞5月14日の朝刊には、陛下が被災者を前に、お膝をつかれてお言葉を掛けられている写真が掲載されています。実はこの朝刊には、当メール・マガジンの発行者である斎藤吉久さんもインタビューに応えていると知って、駅前のコンビニで入手し、読んでみました。
斎藤さんは「悲しみや憂い、生命を共有し、国民のためにひたすら祈る『まつり』の精神の表れ。伝統的に地面までへりくだって神に祈る精神に通じる」と指摘されています。
我が国の歴史と伝統のなかでも、―─斎藤さんの請け売りですが─―「天皇の祈り」はたいへん重要な意味をもつものだと思います。この度の大災害から、清和天皇の貞観11年(869)あるいは明治29年(1896)に起きた陸奥での地震・津波災害が改めて語られました。
清和天皇は「陸奥の国震災賑恤(しんじゅつ=物品等で難民や貧者を救う)の詔」を発せられています。「既に死せる者は盡く収殯(しゅうひん・殯=ひつぎ)を加へ、其の存する者は、詳に賑恤を崇(おも)くせよ。」そして民には租税を減じ、「責(せめ)深く予に在り」とまで言われました。
清和天皇のみならず、その約170年前の、文武天皇の御代も旱魃や台風などの災害に悩まされました。そしてその都度「田租を免じ給ふの詔」を発せられたのですが、文武天皇はまた自然災害に際し、「災を禳(はら)ひ民を救ひ給ふの詔」を渙発されました。
いわゆる「禳災(じょうさい)」とは神を祭って、災難をはらいのぞく、ということとされています。両陛下の黙礼には、人智のみに依存してはならい、という我が国古来の姿勢を感じます。本居宣長は「事にふれては、福(さち)を求むと、善神(よきかみ)にこひねぎ、禍(まが)をのがれむと、悪神(あしきかみ)をも和(なご)め祭り」と語りました。
斎藤さんの指摘された「『まつり』の精神の表れ」とは、多神教的な、少なくとも善悪二神への畏怖というようなことも含まれるのではないかと思いました。神がいて、なぜこの世に禍いが起きるのか。ロシア革命の人たちは、こういった感情から神を捨て、「道徳的無神論者」になったといわれています。一神教世界の怖いところかもしれません。
我が国は現在、原子力発電技術という人智の極で、先の見えない災難に遭遇しています。今回の大津波は貞観のそれの再来といわれていますし、『明治天皇紀』には50呎(15m)の津波が記されています。福島原発での想定は5.7mの津波だと報道されました。設計主義的合理主義が国典を無視した、その結果が「想定外」ということでしょうか。
▽2 古来、一貫する無私の精神
ところで、同じ記事のなかにある、どうにも違和感のあるコメントが気になりました。ひとつは、終戦の翌年2月からはじまった昭和天皇の全国ご巡幸と、この度の今上陛下の被災地ご訪問とは「全くの別物」というところでした。
しかし歴代の天皇は、大きな災難に際しては必ず国民にたいし「みことのり」を発せられ、励まされています。漢文による潤色があるとはいえ、古代から今日に至るまで、天皇の国民を慈しまれる、無私の大御心の一貫していることは、六国史をはじめとする国典に明らかです。
古い書物の伝えるところもそうですが、明治29年6月の災害時に、明治天皇は「深く軫念あらせられ、是の日侍従子爵東園基愛を罹災地に差遣して其の状を視察せしめ、二十二日、天皇・皇后より岩手県に金一万円、宮城県に金三千円、青森県に金千円を下賜して、共に救恤の資に充てしめ」給われています。災害からわずか一週間後のことでした。
また関東大震災では摂政(のちの昭和天皇)御名として「皇都復興に関する詔書」において、「朕、前古無比の天殃(てんおう=天の下した災禍)に際会して、?民(じゅつみん=たみをあわれむ))の心愈ゝ(いよいよ)切に、寝食為に安からず」と宣べられています。また昭和21年元旦の「年頭、国運振興の詔書」では「朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮い、自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾(こひねが)ふ」と語られました。
これらの延長線上にある終戦後の昭和天皇のご巡幸と、この度の天皇、皇后両陛下の被災地ご訪問が「全くの別物」とは、やはり違和感が残ります。
たしかにインタビュー記事は、短かすぎて回答者の意を尽くせないものになっていることは、まちがいなくあるでしょう。しかしそのことを考慮しても、歴史的御位にある天皇の一貫性こそ、まず第一に客観的な事実として語られるべきではなかったかと感じます。
▽3 現人神論は宣命解釈を誤った結果である
もう一つは、戦後の天皇の全国ご巡幸は「現人神で大元帥だった天皇が『人間』に変身し、学習する過程だった。今回のお見舞いと比較するのは適当ではない」とのコメントです。とても政治学の専門家の言説とは思えません。
歴代天皇がそれぞれご自身を現人神(現御神・明神)と称されたことは一度もありません。即位の宣命などにある、「明神(止)御宇日本天皇」は「現御神のお立場で(=無私の精神で、先祖の叡智にしたがって)国をお治めになる、その天皇が……」という意味であり、木下道雄『宮中見聞録』に記されているとおり、「現御神と」は「しろしめす」の副詞です。天皇=現御神(現人神)ではありません。「現御神と」と「しろしめす」は不可分となっています。もちろん「明神天皇」はなく、「明神御宇」と用いられています。
津田左右吉や石井良助らは、天皇=現御神であったが、天皇が宗教的崇拝対象となっていた事実は見あたらない、と書き残しています。公式文書には「現御神と」は「しろしめす」の副詞として用いられていますから、天皇=現御神はひとつもないのが歴史の事実です。天皇現御神論は、即位の宣命などを誤って解釈してきた結果としか思えません。
ただ昭和12年に文部省が発行した『国体の本義』は天皇=現御神でした。したがってこれは大日本帝国憲法に違背したものです。当然のことですが、昭和天皇にご自身が(宗教的崇拝対象としての)現御神である、という意識はありません。木下道雄侍従次長に、後水尾天皇が灸治療の際に側近から現御神の天皇に灸とは、という反対から、やむなくご退位の上、治療をうけさせられたというエピソードを話されています。昭和52年の記者会見において、「神格とかそういうことは二の問題でした」のお言葉に、すべてが表わされていると思います。
国典を誤って(あるいは天皇を利用するために)解釈した結果が、昭和戦前の天皇=現御神(現人神)論です。そして当時、国民が誤った解釈を指導された事実はありました。しかしこのコメントからすると、現在でも誤って解釈している人のあることがわかります。
「現御神と」は英米でいう「コモンローにしたがって」であり、「惟神の道」も「先祖の叡智にしたがって」「恣意性を排除して」というような意味であると思います。とにかく「無私」なのです。したがっていわゆる「人間宣言」とは、国民の誤った詔勅の解釈をたしなめられた詔書である、と言う方が正確です。
▽4 神ではないからこそバチカンに使節を派遣
昭和天皇は、のちに駐バチカン公使となる原田健にたいし、次のように伝えられていたことが原田健から、『PEACE WITHOUT HIROSHIMA』の著者キグリーへの手紙にあるそうです。これを裏付けるバチカンへの使節派遣のことが『木戸幸一日記』にありますし、バチカン発の和平工作に関する(日本政府が黙殺した)電報も二通、国立公文書館に残されています。
「この職に任命されたとき、私は天皇陛下ご自身から、和平の可能性を見逃さないようにとのご指示を賜ったのだ。ヴァニョッツイのこの提案は奇妙で異常な話ではあるが、畏れ多くも天皇陛下が予見あそばされた和平の可能性ととらえて差し支えなかろう」
「ぜひ指摘しておかなければならないことですが、真珠湾攻撃の二か月も前に和平の道を見通しておられたのは天皇陛下ただお一人でした。それだけに、陛下の特使としてバチカンにいながら、陛下の当初の思し召しにかなう働きができなかったことを実に申し訳なく思っております。」
昭和天皇が(宗教的崇拝対象としての)現御神だとしたら、バチカンの法皇庁にそもそもなぜ使節を派遣したいと発意されたのでしょうか。
「開戦后、私は「ローマ」法皇庁と連絡のある事が、戦の終結時期に於て好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あること並に「ローマ」法皇庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考へて」公使派遣を要望されたと語られました。この当時、世界の情勢について、リアリティを失わなかったのも、昭和天皇お一人だったのかもしれません。
▽5 識者に共通する陛下への畏敬の念
これらからも、昭和天皇が「人間」に変身、はありえませんし、コメントにあるような、そのことへの「学習」もありえません。
「戦のわざはひうけし国民(くにたみ)をおもふこころにいでたちてきぬ」
昭和天皇ご巡幸の大御心や、今上陛下のこの度のご訪問に、国民は共通して「かたじけなさに涙こぼるる」思いを感じたのではないでしょうか。
ただ、さまざまな見方や言い方があっても、各識者のコメントには今上陛下の国民を想われる姿勢への畏敬の念がみてとれます。記者の限定された質問に、一言二言で回答せざるをえないコメンテイターに、これ以上はフェアではないと思いますから、批判はこの辺にしておきます。
昨日の東京新聞「特報面」に、大震災の被災地を訪問し、人々を直接、励まされている両陛下についての記事が載りました。昭和天皇の戦後御巡幸と比較し、識者はどう見ているか、がまとめられています。5人の識者の1人に私も加えていただきました。
短時間のうちに、要領よくまとめられた、さすがプロの記事ですが、面白いのは、作家の半藤一利さんと坂本孝治郎学習院大学教授が両者は「別物」と指摘していることです。
お2人に共通するのは、要するに、天皇を政治的存在と見る政治的理解です。であればこそ、昭和天皇の御巡幸を、半藤さんはソ連の存在を念頭に置いた「一種の闘いだった」と解釈します。坂本先生は「天皇が『人間』に変身し、学習する過程だった」から「お見舞い」と比較することはできない、と考えるわけです。
この記事について、畏友・佐藤雉鳴さんが以下のような感想を書いてくださいました。
忘れないうちに補足します。佐藤さんがこの3月、『日米の錯誤・神道指令──知識人の大罪』という本を出版されました。お買い求めのうえ、どうぞご一読ください。
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昭和天皇の戦後御巡幸と今上天皇の被災地歴訪は別物か
──東京新聞5月14日付特報記事を読む by 佐藤雉鳴
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天皇、皇后両陛下は、大震災と大津波の被災者、そして原発災害によって避難生活を余儀なくされている方々を訪れ、お見舞いのお言葉をかけられています。
震災から5日後の3月16日にはビデオメッセージで「お言葉」を発せられ、被災地の方々のみならず、全国民に大きな勇気を与えて下さいました。また大勢の方々の生命と財産を呑み込んだ、瓦礫の山や海に黙礼される両陛下のお姿にも、人々は胸を熱くしました。
▽1 歴代天皇の多神教的神々への畏怖
東京新聞5月14日の朝刊には、陛下が被災者を前に、お膝をつかれてお言葉を掛けられている写真が掲載されています。実はこの朝刊には、当メール・マガジンの発行者である斎藤吉久さんもインタビューに応えていると知って、駅前のコンビニで入手し、読んでみました。
斎藤さんは「悲しみや憂い、生命を共有し、国民のためにひたすら祈る『まつり』の精神の表れ。伝統的に地面までへりくだって神に祈る精神に通じる」と指摘されています。
我が国の歴史と伝統のなかでも、―─斎藤さんの請け売りですが─―「天皇の祈り」はたいへん重要な意味をもつものだと思います。この度の大災害から、清和天皇の貞観11年(869)あるいは明治29年(1896)に起きた陸奥での地震・津波災害が改めて語られました。
清和天皇は「陸奥の国震災賑恤(しんじゅつ=物品等で難民や貧者を救う)の詔」を発せられています。「既に死せる者は盡く収殯(しゅうひん・殯=ひつぎ)を加へ、其の存する者は、詳に賑恤を崇(おも)くせよ。」そして民には租税を減じ、「責(せめ)深く予に在り」とまで言われました。
清和天皇のみならず、その約170年前の、文武天皇の御代も旱魃や台風などの災害に悩まされました。そしてその都度「田租を免じ給ふの詔」を発せられたのですが、文武天皇はまた自然災害に際し、「災を禳(はら)ひ民を救ひ給ふの詔」を渙発されました。
いわゆる「禳災(じょうさい)」とは神を祭って、災難をはらいのぞく、ということとされています。両陛下の黙礼には、人智のみに依存してはならい、という我が国古来の姿勢を感じます。本居宣長は「事にふれては、福(さち)を求むと、善神(よきかみ)にこひねぎ、禍(まが)をのがれむと、悪神(あしきかみ)をも和(なご)め祭り」と語りました。
斎藤さんの指摘された「『まつり』の精神の表れ」とは、多神教的な、少なくとも善悪二神への畏怖というようなことも含まれるのではないかと思いました。神がいて、なぜこの世に禍いが起きるのか。ロシア革命の人たちは、こういった感情から神を捨て、「道徳的無神論者」になったといわれています。一神教世界の怖いところかもしれません。
我が国は現在、原子力発電技術という人智の極で、先の見えない災難に遭遇しています。今回の大津波は貞観のそれの再来といわれていますし、『明治天皇紀』には50呎(15m)の津波が記されています。福島原発での想定は5.7mの津波だと報道されました。設計主義的合理主義が国典を無視した、その結果が「想定外」ということでしょうか。
▽2 古来、一貫する無私の精神
ところで、同じ記事のなかにある、どうにも違和感のあるコメントが気になりました。ひとつは、終戦の翌年2月からはじまった昭和天皇の全国ご巡幸と、この度の今上陛下の被災地ご訪問とは「全くの別物」というところでした。
しかし歴代の天皇は、大きな災難に際しては必ず国民にたいし「みことのり」を発せられ、励まされています。漢文による潤色があるとはいえ、古代から今日に至るまで、天皇の国民を慈しまれる、無私の大御心の一貫していることは、六国史をはじめとする国典に明らかです。
古い書物の伝えるところもそうですが、明治29年6月の災害時に、明治天皇は「深く軫念あらせられ、是の日侍従子爵東園基愛を罹災地に差遣して其の状を視察せしめ、二十二日、天皇・皇后より岩手県に金一万円、宮城県に金三千円、青森県に金千円を下賜して、共に救恤の資に充てしめ」給われています。災害からわずか一週間後のことでした。
また関東大震災では摂政(のちの昭和天皇)御名として「皇都復興に関する詔書」において、「朕、前古無比の天殃(てんおう=天の下した災禍)に際会して、?民(じゅつみん=たみをあわれむ))の心愈ゝ(いよいよ)切に、寝食為に安からず」と宣べられています。また昭和21年元旦の「年頭、国運振興の詔書」では「朕は朕の信頼する国民が朕と其の心を一にして、自ら奮い、自ら励まし、以て此の大業を成就せんことを庶幾(こひねが)ふ」と語られました。
これらの延長線上にある終戦後の昭和天皇のご巡幸と、この度の天皇、皇后両陛下の被災地ご訪問が「全くの別物」とは、やはり違和感が残ります。
たしかにインタビュー記事は、短かすぎて回答者の意を尽くせないものになっていることは、まちがいなくあるでしょう。しかしそのことを考慮しても、歴史的御位にある天皇の一貫性こそ、まず第一に客観的な事実として語られるべきではなかったかと感じます。
▽3 現人神論は宣命解釈を誤った結果である
もう一つは、戦後の天皇の全国ご巡幸は「現人神で大元帥だった天皇が『人間』に変身し、学習する過程だった。今回のお見舞いと比較するのは適当ではない」とのコメントです。とても政治学の専門家の言説とは思えません。
歴代天皇がそれぞれご自身を現人神(現御神・明神)と称されたことは一度もありません。即位の宣命などにある、「明神(止)御宇日本天皇」は「現御神のお立場で(=無私の精神で、先祖の叡智にしたがって)国をお治めになる、その天皇が……」という意味であり、木下道雄『宮中見聞録』に記されているとおり、「現御神と」は「しろしめす」の副詞です。天皇=現御神(現人神)ではありません。「現御神と」と「しろしめす」は不可分となっています。もちろん「明神天皇」はなく、「明神御宇」と用いられています。
津田左右吉や石井良助らは、天皇=現御神であったが、天皇が宗教的崇拝対象となっていた事実は見あたらない、と書き残しています。公式文書には「現御神と」は「しろしめす」の副詞として用いられていますから、天皇=現御神はひとつもないのが歴史の事実です。天皇現御神論は、即位の宣命などを誤って解釈してきた結果としか思えません。
ただ昭和12年に文部省が発行した『国体の本義』は天皇=現御神でした。したがってこれは大日本帝国憲法に違背したものです。当然のことですが、昭和天皇にご自身が(宗教的崇拝対象としての)現御神である、という意識はありません。木下道雄侍従次長に、後水尾天皇が灸治療の際に側近から現御神の天皇に灸とは、という反対から、やむなくご退位の上、治療をうけさせられたというエピソードを話されています。昭和52年の記者会見において、「神格とかそういうことは二の問題でした」のお言葉に、すべてが表わされていると思います。
国典を誤って(あるいは天皇を利用するために)解釈した結果が、昭和戦前の天皇=現御神(現人神)論です。そして当時、国民が誤った解釈を指導された事実はありました。しかしこのコメントからすると、現在でも誤って解釈している人のあることがわかります。
「現御神と」は英米でいう「コモンローにしたがって」であり、「惟神の道」も「先祖の叡智にしたがって」「恣意性を排除して」というような意味であると思います。とにかく「無私」なのです。したがっていわゆる「人間宣言」とは、国民の誤った詔勅の解釈をたしなめられた詔書である、と言う方が正確です。
▽4 神ではないからこそバチカンに使節を派遣
昭和天皇は、のちに駐バチカン公使となる原田健にたいし、次のように伝えられていたことが原田健から、『PEACE WITHOUT HIROSHIMA』の著者キグリーへの手紙にあるそうです。これを裏付けるバチカンへの使節派遣のことが『木戸幸一日記』にありますし、バチカン発の和平工作に関する(日本政府が黙殺した)電報も二通、国立公文書館に残されています。
「この職に任命されたとき、私は天皇陛下ご自身から、和平の可能性を見逃さないようにとのご指示を賜ったのだ。ヴァニョッツイのこの提案は奇妙で異常な話ではあるが、畏れ多くも天皇陛下が予見あそばされた和平の可能性ととらえて差し支えなかろう」
「ぜひ指摘しておかなければならないことですが、真珠湾攻撃の二か月も前に和平の道を見通しておられたのは天皇陛下ただお一人でした。それだけに、陛下の特使としてバチカンにいながら、陛下の当初の思し召しにかなう働きができなかったことを実に申し訳なく思っております。」
昭和天皇が(宗教的崇拝対象としての)現御神だとしたら、バチカンの法皇庁にそもそもなぜ使節を派遣したいと発意されたのでしょうか。
「開戦后、私は「ローマ」法皇庁と連絡のある事が、戦の終結時期に於て好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あること並に「ローマ」法皇庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考へて」公使派遣を要望されたと語られました。この当時、世界の情勢について、リアリティを失わなかったのも、昭和天皇お一人だったのかもしれません。
▽5 識者に共通する陛下への畏敬の念
これらからも、昭和天皇が「人間」に変身、はありえませんし、コメントにあるような、そのことへの「学習」もありえません。
「戦のわざはひうけし国民(くにたみ)をおもふこころにいでたちてきぬ」
昭和天皇ご巡幸の大御心や、今上陛下のこの度のご訪問に、国民は共通して「かたじけなさに涙こぼるる」思いを感じたのではないでしょうか。
ただ、さまざまな見方や言い方があっても、各識者のコメントには今上陛下の国民を想われる姿勢への畏敬の念がみてとれます。記者の限定された質問に、一言二言で回答せざるをえないコメンテイターに、これ以上はフェアではないと思いますから、批判はこの辺にしておきます。
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