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内憂外患「貞観地震」時代と現代  ──「朕の不徳にして、百姓になんの辜あらむ」 [天皇論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年7月30日)からの転載です


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 内憂外患「貞観地震」時代と現代
 ──「朕の不徳にして、百姓になんの辜あらむ」
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 記録的な豪雨によって、新潟・福島両県で、合わせて十二万六千世帯、三十七万五千人に避難勧告や避難指示が出されているとメディアが伝えています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110730/t10014570441000.html

 大型の台風6号が各地に甚大な被害をもたらしたばかりだというのに、まさに一難去ってまた一難です。とくに大地震、大津波、原発事故の三重苦のただなかにある福島県にとって、自然の猛威はかくも無慈悲です。


▽1 政治をもっぱらにする藤原良房

 今回の東日本大震災は、貞観11(869)年の貞観地震の再来ともいわれますが、「歴史は繰り返す」の言葉通り、天変地異の頻発、政治と社会の混乱に共通性がうかがえます。

 当時の天皇は清和天皇(56代。嘉祥3(850)年─元慶4(881)年。在位天安2(858)年─貞観18(876)年)でした。

 清和天皇の父君は文徳天皇(55代)です。文徳天皇には、惟高(これたか)親王という第一皇子がありました。蔵人紀名虎の女静子を母として承和11(844)年にお生まれになりました。

 ちょうど右大臣藤原良房が政治をもっぱらにし、勢力を拡大させていたころです。

 承和9年7月の承和の変をきっかけにして、良房は覇権への道を歩み始めます。仁明(にんみょう)天皇(54代)の崩御に先立って女光明子(あきらけいこ)を入内(じゅだい)させ、文徳天皇即位の直後に惟仁親王(清和天皇)がお生まれになると、惟高、惟条、惟彦の三兄親王をさしおいて、生後9か月で立太子させたのでした。

 良房は太政大臣に任じられ、さらに摂政となり、藤原氏による摂関政治の基礎がつくられました。

 これに対して、惟高親王は皇位継承の機会を失い、貞観14(872)年に出家され、洛北小野に幽居した、と『日本三代実録』に記録されています。


▽2 隕石落下、火山爆発、大地震、大津波

 貞観年間は自然災害が頻発した時代でした。

 貞観3年には福岡・直方の神社の境内に隕石が落下しました。落下が目撃された世界最古の隕石といわれます。6年には富士山が噴火し、10年には播磨で地震が起き、大地震が起こります。

 そして11年には貞観地震と貞観津波が陸奥国を襲いました。自然災害ではありませんが、この年には新羅の海賊が博多に侵入しました。貞観の韓冦と呼ばれます。

 13年には鳥海山が、16年には開聞岳が噴火しています。

 京都の夏をいろどる八坂神社の祇園祭は、まさにこの混乱の時代に成立しています。

 同社の職員たちがまとめた『八坂神社』によると、貞観11年にすさまじい疫病が流行したので、「宝祚隆永、人民安全、疫病消除鎮護」のため、卜部日良麻呂が勅を奉じて、高さ2丈(6メートル)の「矛」66本を建て、御霊会(ごりょうえ)を執行し、あるいは神輿を神泉苑に送り、祭り、以後、これが恒例となったのだそうです。

 そのころ疫病の流行は怨霊(おんりょう)の祟りが原因と考えられ、その消除を祈る鎮魂行事が「祇園御霊会」の始まりとされます。

 貞観地震が発生したのは5月26日癸未の日で、被災は京の都にいち早く伝えられていたはずですが、日本三大祭りの1つ・祇園祭の成立と関係があるのかどうか。


▽3 わが身を責め、徳の政治を訴えた清和天皇

 清和天皇には、天安2年の即位の宣命から貞観18年の譲位の宣命まで、48の公的文書、詔勅と宣命が残されています。

 貞観地震が起きた年、清和天皇は御歳19歳でしたが、「陸奥の国震災賑恤の詔」のほか、「服御常膳を減じ慈雨を祈り給ふの勅」「肥後の国雨害存恤の勅」の自然災害に対応する詔勅を発しておられます。

 詔勅には、「いま旱雲、旬にわたり、農民、望みを失う。……朕の不徳にして、百姓(ひゃくせい)になんの辜(つみ)あらむ。躬(み)を責めてつつしみ畏れ、いまだなすところを知らず」「百姓なんの辜ありてか、この禍毒に罹(かか)れる。憮然としてはじ懼(おそ)る。責め深く予にあり」「疑ふらくは、これ皇猷なお鬱(むすぼ)り、吏化よろしきに乖(そむ)き、まさに?心を失ひて、この変異をいたせるものか」との言葉がつづられています。

 若き清和天皇は、けっしてご自身の責任ではないのに、わが身を責められ、徳の政治を訴えられ、国家の平安を願われたのでした。

 当時は現代と同様、内憂外患のときで、清和天皇は、貞観11年には「坂上瀧守を大宰府に遣はし鎮西を警固せしめ給ふの勅」を、翌12年には「大宰府に命じて縁海を警固せしめ給ふの勅」「新羅の兵冦等を払はむため宗像大社に奉幣祈願し給ふの宣命」、さらに「新羅の罪人二十人を諸国に配置し優恤を加へ給ふの勅」を発せられています。

 国と民のためにひたすら祈る天皇の存在は、千年後のいまも何ら変わっていないことが分かります。為政者に徳が求められ、国防の強化が必要なのも変わりません。

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