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検証・平成の御代替わり──石原信雄内閣官房副長官の証言を読む その1 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年9月25日)からの転載です


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 検証・平成の御代替わり
 ──石原信雄内閣官房副長官の証言を読む その1
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 平成の御代替わりから20数年になります。

 前号では、戦後、とりわけ昭和40年代以降、先鋭化する政教分離の厳格主義が、単線的・直線的発展史観に立ち、歴史の事実を無視して、戦前を悪玉に仕立て上げ、明治憲法を批判し、「国家神道」に責任を押しつけ、天皇もしくは天皇制を指弾していること、そして、その延長線上にあるのが、平成の御代替わりだったこと、について触れました。

 今日はもう少し、詳しく見てみます。

 平成の御代替わりは徹底して政教分離問題がメインテーマだったように思います。政府は憲法の政教分離原則を字義通りに解釈し、徹頭徹尾、国の儀式から宗教性を排除しようとしていました。

▽1 キーマンは石原信雄官房副長官

 キーパーソンのひとりは石原信雄官房副長官でした。

 当時の竹下登内閣の内閣官房副長官(事務方)が前任の藤森昭一氏から、前自治事務次官の石原氏に代わったのは、昭和天皇がガン治療のために開腹手術を受けられた昭和62(1987)年です。

 一方、藤森氏は翌年、宮内庁次長となり、さらに長官に昇格し、宮内庁トップとして御代替わりを指揮しました。

 石原氏の著書『官邸2668日──政策決定の舞台裏』(1995年)によれば、事務引き継ぎの最優先事項は、御代替わりの際の元号問題と諸行事の円滑な執行について、あらかじめ準備しておくことでした。

 藤森氏は石原氏に「もろもろの行事を手順よく滞りなく行うための準備がもっとも重要だ」と語りましたが、このときはまだ過去の先例を元にして、現行憲法下でどの程度のことが可能で適当かという第一次試案程度の準備しかありませんでした。

 63年春から陛下は食欲が落ち、体重の減少が見られるようになりました。8月15日の全国戦没者追悼式で、昭和天皇は式台の前まで手すりを伝って進まれました。その状況を見て、石原氏は御体調のきわめて厳しいことを実感したといいます。

 9月19日、陛下は突然、吐血されました。石原氏はただちに的場内政審議室長、古川貞二郎・首席参事官を呼び、元号問題などの準備に取りかかりました。官邸内では竹下首相、小渕恵三官房長官、的場、古川各氏らが御代替わり関連の諸行事について、夜中に協議していました。

 石原氏は1年間かけて準備してきたさまざまなシミュレーションの総点検を行いました。そのころ石原氏の相談相手は「先輩」の後藤田正晴氏だった、と石原氏は振り返っています。石原氏は後藤田氏を「今の憲法理念を、あまり右にも左にも寄らず、適正に理解し、それを現実に政治・行政のうえで実行している人」と最大級に評価しています。

 64年1月7日朝、111日間の壮絶な闘病の末、昭和天皇は崩御されました。竹下内閣は昭和天皇の崩御と皇太子殿下の皇位継承、元号を「平成」と改めることなどを告示し、また剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀を国の儀式として行うことなどを閣議決定しました。

 石原氏にとって、元号制定に次いで、苦慮したのが、政教分離問題でした。とくに大喪の礼について、宗教儀式と国事行為とをどのように線引きするか、意見調整することが石原氏に課せられたのでした。

▽2 非宗教的に改称された践祚(せんそ)の式

 石原氏が著書のなかで、政教分離問題に関して例示しているのは、(1)皇位継承後の践祚の儀式、とりわけ剣璽渡御の儀(剣璽等承継の儀)について、(2)御大喪における葬場殿の儀の、とりわけ鳥居の設置について、(3)大嘗祭の挙行について、の3点です。

 今日は(1)について、見てみます。

 石原氏の著書には言及されていませんが、皇位継承の諸儀式について規定する旧登極令(明治42年)によると、大行天皇崩御のあと、新帝は皇位の継承のため、(一)賢所の儀、(二)皇霊殿、神殿に奉告の儀、(三)剣璽渡御の儀、(四)践祚後朝見の儀、の四儀式からなる、践祚(せんそ)の式を行うことになっていて、これらは国務とされました。

 しかし、平成の御代替わりでは、一連の儀式が2つに区分され、非宗教的と見る、(三)(四)だけが国の儀式として行うこととされ、とくに「剣璽渡御の儀」は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称されました。

 石原氏によれば、この剣璽等承継の儀は、「実行段階で、ずいぶん意見があった」ことの1つのようです。

 石原氏の著書にはまったく言及がありませんが、そもそも剣璽には、三種神器という呼び名が端的に示しているように、神話的ルーツがあります。

 古来、天皇は天照大神の血統を受け継いだ子孫であり、大神が地上に現れた姿と信じられました。「日本」「天皇」を古代、はじめて制度的に確定した「大宝律令」の「公式令(くじきりょう)」は、「明神(あらみかみ)と御宇(あめのしたし)らす日本(ひのもと)の天皇(すべら)」と規定していますが、こうした日本の律令的君主制の由来を説くのが、神々の系譜を描いた、古事記・日本書紀の神代巻のテーマなのだ、と哲学者の上山春平先生は説明しています。

 記紀神話では、天照大神が天孫降臨に際して、日本は大神の子孫が統治する国であること、三種神器の1つである神鏡を祀るべきこと、などを命じられたと述べています。

 三種神器のうち、宮中三殿の賢所に祀られる神鏡以外の剣と勾玉を剣璽と称し、皇位継承に際して行われる剣璽渡御の儀は、神社の祭礼で御輿が渡御するのと同様、剣璽は天皇とともにみずから動かれる、という伝統的な考え方に基づいています。平安時代以降、皇位継承の儀式とされた、千年の歴史を有する伝統儀礼を、石原氏らはまさに非宗教的に換骨奪胎したのです。

 その理由として、石原氏は、この儀礼を「剣と勾玉と御璽を引き継ぐ儀式」と非宗教的に解説し、「御璽(斎藤吉久註記。国璽も?)についてはあまり異論がなかった」が、「剣と勾玉を承継する儀式を国事行為で行うのは、政教分離の原則からおかしいじゃないか」と意見があった、として、そのうえで、「新天皇の即位のもっとも大事な行事だから、名称を今風に改め、きちんと行った」と自賛しています。

 けれども、「大事な行事」だというのなら、一連の儀式をバラバラに解体し、「名称を今風に改める」べきでしょうか? 宗教性を抜いた代わりに、御璽、国璽の承継を加えたことが、「きちんと行った」ことになるのでしょうか?

▽3 失われた「践祚」と「即位」の区別

 石原氏によると、朝見の儀についても、反対意見が出たといいます。

 朝見の儀というのは、石原氏の説明では、「新天皇の即位後すぐに総理大臣がご挨拶する儀式」と、総理大臣が行う儀式のようになっていますが、不正確です。宮内庁がまとめた公式記録『平成大礼記録』(平成6年)では、「即位された天皇陛下が、皇后陛下とともに御即位後初めて公式に三権の長をはじめ国民を代表する人々と会われる儀式」と説明されています。

 ここにも名称の問題、というより概念上の問題が発生しています。つまり「践祚」と「朝見」です。

 まず、「践祚」について、です。旧登極令では「践祚後朝見の儀」でしたが、「即位後朝見の儀」と改められました。石原氏によれば、「昔通り践祚の儀式でやれ」という「強い意見もあった」ようです。

 改称の理由について、石原氏の著書には言及がありませんが、前記した宮内庁の『大礼記録』は「もともと践祚は即位と同義語であり、また、皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた経緯がある」ので、と説明しています。

 しかし、この説明は正確とはいえないと思います。

 旧皇室典範は第2章に「即位践祚」の章がありましたが、敗戦直後の改正ではこれが無くなりました。帝国議会での審議過程では、これに関する議論が行われています(『皇室典範』日本立法資料全集1、平成2年)。

 法制局次長などとして憲法制定、皇室典範改正などに関わった井出成三は、皇室典範の改正過程で、GHQは日本側の原案をほとんど無修正で「アプルーブ」した、「原案そのものがかなり、GHQの態度を予測して、強い摩擦をよけて作成されていた」からだと証言しています(井出『皇位の世襲と宮中祭祀──皇室典範立案者の手記』)。

 践祚とは皇位を継承することを意味します。桓武天皇の時代、践祚から日を隔てて即位式を行うようになり、貞観儀式の制定で両者は区別されるようになったといわれます。しかし戦後の混乱期に行われた皇室典範の改正はこの区別を反映できず、その後、日本政府は正常化を怠り、そして平成の御代替わりは践祚という用語と概念を完全に喪失させてしまったのです。

▽4 剣璽御動座が行われなかった

 次に「朝見」です。石原氏によれば、「天皇と臣下という感じで、主権在民の新憲法のもとでおかしいのではないか」という意見がずいぶんあったそうですが、「朝見の『朝』という字は、会う、顔を合わせるという意味なのだから、問題はないのではないか」ということで「予定通り行われた」とされています。

 君主主権か国民主権か、明治憲法か新憲法か、戦前か戦後か、とことさら議論を煽り立てるところに、むしろ混乱の原因がありそうです。

 朝見の儀ではより重大な変更がありました。かつては剣璽の御動座を伴っていたのですが、平成の即位後朝見の儀では行われなかったのです。石原氏の著書にはこれまた言及がありません。

 前掲の『平成大礼記録』は、剣璽御動座がなかったことの理由を、「昭和21年6月の(昭和天皇の)千葉県下の御巡幸以降、剣璽は御動座しないことが原則になっている」ことなどを勘案したためと説明しています。

 しかし、これはまったく理由になっていません。昭和21年以来、久しく行われていなかった剣璽御動座が、49年の伊勢神宮行幸に際して、28年ぶりに復活した歴史が無視されているからです。

 剣璽等承継の儀に剣璽御動座が伴わなかったのは、神代の時代、天孫降臨のときに皇祖天照大神から授けられたと信じられ、歴代天皇が継承してきた三種神器の持つ宗教性を、政府が忌避したのが真相ではないかと疑われます。

 石原氏は、次のように振り返ります。

「私がいちばん苦慮したことは、『新憲法の趣旨に反しない形で、いかにして伝統的な儀式というものを残すか』でした。政府部内でも『そんな伝統行事というものにこだわらずに、新憲法下の行事なのだから、憲法論争が起こるような儀式はぜんぶ省略してやったらいいのではないか』という意見もありました。しかし、竹下総理、小渕官房長官、そして私自身も、わが国の伝統を、憲法の許容する範囲でなるべく残したいと取り組んだ。当時、私は右からも左からもずいぶん批判を受けましたが、いま振り返ってみますと、新憲法のもとでそれなりにわが国の伝統儀式を残せたという意味で、『それなりにバランスのとれた葬場殿の儀であり、大喪の礼であった』と思っています」

 践祚の一連の儀式を解体し、概念も名称も中身も変えながら、「伝統を残した」といえるのか、「それなりにバランスがとれた」といえるのかどうか、私には残念ながら、強弁にしか聞こえないのですが、読者の皆さんはどう思われますか?(次号につづく)

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