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検証・平成の御代替わり 第3回 ──石原信雄内閣官房副長官の証言を読む その3 [御代替わり]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2011年10月1日)からの転載です


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検証・平成の御代替わり 第3回
──石原信雄内閣官房副長官の証言を読む その3
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 ひきつづき石原信雄内閣官房副長官の著書『官邸2668日──政策決定の舞台裏』(平成7年)を材料に、平成の御代替わりを検証します。

 前々回は践祚の式、前回は御大喪、今日は大嘗祭について、です。


▽1 よき伝統を残し、滞りなく行い得た!?

 御大喪のころは竹下登総理でしたが、即位・大嘗祭のときの総理は海部俊樹氏でした。多くの議論を呼び、石原氏が悩んだ、大きな問題はやはり大嘗祭について、でした。むろん焦点は政教分離問題です。「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と石原氏は振り返っています。

 政府部内には「宗教行事だから、皇室が内廷費で、皇室の行事としてこぢんまりやったらいいじゃないか」という意見があり、その一方では、「大嘗祭は、世襲制の天皇の皇位継承に伴う、もっとも重要な儀式なんだ。いわば大嘗祭を経て、ほんとうの天皇の地位が得られるのだ。だから、きちんと国事行為でやれ」という意見もあり、国論を二分しかねないような状況でした。

 そこで石原氏は、海部総理や森山眞弓官房長官とも相談し、賛成・反対の、各方面の意見を聞くことにしました。意見は十分に言ってもらい、「最後は政府の責任でやらせてもらう」と姿勢で、議論を収めました。

 その結果、「ほとんど従来と同じ規模で、大嘗祭は行われた」「きわめて公的な色彩の濃い皇室行事という位置づけのもとに、皇居で伝統的な洋式にのっとり、きちんと大嘗殿を作って行われた」と、石原氏は自己評価しています。

 石原氏は「公的な色彩」を強調して、さらに次のように言葉をつないでいます。

「つまり、『公的な色彩が濃いということは、要するに天皇の皇位継承に伴う重要な儀式、昔からの伝統的な重要な儀式である。わが国の天皇制は世襲制だから、世襲制を憲法上認めている、この憲法下で行われる、非常に重要な伝統儀式である。だから、それは皇室の行事ではあるけれども、きわめて公的な色彩の強い行事なので、政府が全面的にお手伝いすることは許される』と理論づけ、経費は内廷費でなく、宮廷費で賄いました。人的にも、政府挙げて円滑に行えるようにサポートしました」

 国民のさまざまな意見を十分に出してもらい、整理して公開し、これらの意見を踏まえて、「政府としては、公的な色彩の強い、公的皇室行事としてやらせてもらう」という結論で乗り切った。その結果、一連の御代替わりの行事が、大きなトラブルもなく、新憲法下で、わが国のよき伝統を残し、滞りなく行い得たと確信する。これが今後の先例となったことは非常に意味がある、と石原氏は結論づけています。


▽2 皇室典範制定当時の法制局次長の批判

 さて、批判です。

 第一点は、公私の逆転です。石原氏の公私概念は、占領前期に先祖返りしています。

 石原氏は公的性という概念を持ちだし、大嘗祭は公的行事なので、政府がお手伝いし、内廷費ではなく、宮廷費を支出し、人的にも公務員が参加したと説明しています。石原氏にとっての「公」とは政府ですが、以前、当メルマガで申し上げたように、歴史的に見れば、古くは「公(おおやけ)」とは皇室を意味したのでした。

「天皇に私なし」であり、天皇は公正かつ無私なるお立場で、国と民のために祈りを捧げ、国および国民の統合を図ってこられました。天皇がなさる宮中祭祀は「皇室の私事」とはいえませんが、敗戦後、占領軍は「陛下の私事」として以外、認めませんでした。公と私を逆転させ、祭祀を内廷に押し込めたのです。国際法に反して、被占領国の宗教に介入したのは、「国家神道」を誤って理解し、必要以上に恐れたからでしょう。

 昭和の祭祀簡略化が明るみに出た昭和57年末に「週刊文春」が伝えているように、終戦直後の宮内次官・大金益次郎(戦後初の侍従長)は国会の答弁で、「天皇のお祭りは天皇個人としての私的信仰や否やという点には、じつは深い疑念が あったけれども、何分にも神道指令はきわめて過酷なもので、論争の余地がなかった」と語ったのでした。

 石原氏は、天皇の祭祀が「私事」であるという解釈を出発点とし、つまり、皇室行事と国家行事とは別物であることを前提として、そのうえで宮中祭祀の「公的性」を認め、政府の支援を決めたのですが、現行憲法および現行皇室典範などの制定の直接的責任者だったという井出成三・元法制局次長は、「即位その他の式典は皇室の国家的行事であり、皇室の行事である。表裏一体の事実であって、敢えて分離分析して、切り離された2つが並列するものと考えることは理を失する」と指摘し、さらにこう述べ、批判しています(井出「皇位の世襲と宮中祭祀」昭和42年)。

「宮中祭祀は憲法上、いわゆる宗教であり、国費を支出して行い、国家機関たる地位にあるものが参列することは、憲法上問題があるとして、式典を二分して観念し、皇室の儀式は公の機関でない掌典職が執り行い、費用は内廷費で賄い、別途に国の式典を行い、宮中祭祀の色彩を一切除去することが正しいと考え、あるいはその一方を行うほかはないと考えることは、形式的な解釈に引きずられて、本質を見失っているのではないか」

 井出氏の考えに立てば、「新憲法下で、わが国のよき伝統を残し、滞りなく行い得た。今後の先例となったことは非常に意味がある」(石原氏)とはいえないことになります。


▽3 占領軍は神道儀礼への国費支出を認めた

 第二点。石原氏の憲法解釈・運用は、戦後の宮中祭祀正常化への過程を、まったく知らないか、あるいは完全に無視しているように見えます。

 というのも、過酷な「神道指令」を発した占領軍は、当メルマガで何度も申し上げましたように、占領後期になると、「神道指令」の解釈を「宗教と国家の分離」から「教会と国家の分離」に変更しているからです。その結果、昭和24年11月には松平恒雄参議院議長の参議院葬が参院議長公邸において神式で行われ、26年10月には吉田首相の靖国神社参拝も認められました。

 同じ26年6月の貞明皇后の御大喪は神道形式ですが、かつての皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しました。つまり、宗教行事だというなら、「神道指令」下ではなおのこと、あり得ないのですが、準国葬として行われた事情を、昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三小委員会で、宮内庁の高尾亮一・造営部長が次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。ところが、占領末期のせいもありましたが、占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました。貞明皇后の信仰が神道であったならば、神道でやり、国の行事として、国の経費をもって支弁していっこう差し支えない、という解釈を下したことがございます」

 GHQの第2代司令官リッジウェイは宮内庁の問い合わせに対して、「喪儀は個人の宗教で執り行うのは当たり前」と回答したといわれます。

 その後、日本は独立を回復し、神道指令は失効します。しかし日本の行政はその後、長らく天皇の祭祀に関する法制度の整備を怠ってきました。それでも34年に賢所で行われた皇太子殿下(今上天皇)の御結婚の儀は「国事」(正確には「国の儀式」で、宮内庁は「天皇の国事行為」と認識している。メディアは「国事」と報道した)であるとの閣議決定がなされ、当日は、国会議員が参列しました。39年の常陸宮殿下の御結婚の儀は公事たる宮務とされました。

 44年4月には瓜生宮内庁次長が参議院で、他の公有の宗教施設と同様に、宮中三殿の国有財産化が法的には可能である、という内閣法制局の見解を示しています。つまり、祭祀の公的性を認めたのです。

 こうして皇室の祭儀はすべて「皇室の私事」とした神道指令下の解釈が打破されたのですが、石原氏の著書にはこの経緯がまったく言及されていません。


▽4 50年代に始まる二重基準政策

 第三の問題点は、なぜ政府は祭祀と宗教に関するダブル・スタンダード政策を採り続けるのか、です。

 たしかに憲法は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(20条)、「公金は、宗教上の組織の使用、便益もしくは維持のために支出してはならない」(89条)と定めていますが、実際には緩やかな分離政策が採られています。

 たとえば、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む東京都慰霊堂は都有地にあり、年2回の慰霊法要が都内の5つのお寺の持ち回りで行われています。列聖100年祭を記念し、昭和37年に建てられた、カトリックの世界的な巡礼地とされている長崎の二十六聖人記念碑は長崎市の市有地に立地しています。小泉内閣時代などには首相官邸で「イフタール」というイスラムの断食明けの行事が行われました。

 しかし、宮中祭祀や神社のこととなると、政教分離の厳格主義が頭をもたげてきます。県知事が靖国神社に玉串料を支出することは憲法違反とされながら、カトリック教会が主催するキリシタン領主の祈願ミサに市長がご祝儀を支出することは認められ、首相がアメリカ大統領と明治神宮に参拝することは批判されながら、金閣寺に参詣することには誰も文句をいいません。

 これはなぜなのか、です。

 行政の判断が急旋回したのは昭和50年代でした。

 宮内庁内では、50年8月15日に宮内庁長官室で会議があり、「神宮御代拝は掌典、毎朝御代拝は侍従、ただし庭上よりモーニングで」(入江日記)と「改正」(卜部日記)されました。新憲法の施行に伴い、廃止された皇室祭祀令に代わって、宮中祭祀の文書的根拠となっていた、「従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)という22年5月の依命通牒は、皇室の意思によらず、側近たちの密室の会議で反故にされ、以後、「宮内庁法規集」から消えました。(当時の職員たちは「反故」と理解しているが、その後の国会答弁から類推すると、依命通牒第3項と第4項「前項の場合において、従前の例によれないものは、当分の内の案を立てて、伺いをした上、事務を処理すること」を「合わせ読んだ」結果であり、憲法の政教分離原則への厳格主義的配慮と推定される)


▽5 大嘗祭は宗教性を否定できないから!?

 石原氏が絶対分離主義のいわば急先鋒と振り返る内閣法制局は、といえば、52年7月に津地鎮祭訴訟の上告審で、最高裁が、一定の条件下で国家は宗教と関わることが許される、という緩やかな分離主義の判断を示しているのに、54年4月に真田内閣法制局長官は「従来のような大嘗祭は神式だから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか……」と国会で答弁しています。(明らかに政策が混乱している)

 つまり、真田長官は、国が神道儀式を行うことは、憲法が禁止する国の宗教的活動に当たる、という絶対分離主義的な見解を示し、神道儀式か否かで、国の儀式と皇室の行事とを区分する構想を明らかにしたのです。

 そして御代替わりを迎えました。

 昭和天皇崩御から1カ月後、平成元(昭和64)年2月10日の衆院内閣委員会で、小渕恵三・内閣官房長官は、大喪の礼は国の儀式として行われ、葬場殿の儀は皇室の行事として行われる。両儀は法的に明確に区別されるだけでなく、実際上、大喪の礼では、開式を告げたあと、祭官は退席し、鳥居、大真榊を撤去して、両儀の区別を明確にする、と答弁しましたが、さらに味村治・内閣法制局長官はこれに補足して、大喪の礼と葬場殿の儀は観念的にはっきり別物で、大喪の礼の式次第も無宗教で、憲法20条3項に規定する宗教的活動には当たらない、と明言しました。(味村長官は商法の専門家でした)

 つまり、政府の答弁は、神道儀式である葬場殿の儀を皇室の私的行事として押し込め、国の儀式である大喪の礼からは宗教性を排除するという、神道指令的な絶対分離主義の発想に立っていたということになります。

 半年後に大嘗祭を控え、その準備が始まっていた平成2年4月、大森正輔・内閣法制局第一部長は、参院内閣委員会で、「大嘗祭の意義、形式等に照らすと、宗教上の儀式としての性格を有することは否定することができないから、大嘗祭を国事行為として行うことは憲法20条3項との関係で問題があるから行うべきではない、という結論に達した」と答弁しています。

 その一方で、「大嘗祭のために必要な経費を宮廷費という公費から支出するのは、大嘗祭の宗教上の儀式としての性格に着目したのではなくて、皇位が世襲であることに伴う伝統的皇位継承儀式という大嘗祭の公的な目的に着目した」からだと説明されました。

 GHQよりも厳格な無宗教・非宗教政策の背景に何があるのか、次回からは政府の公式記録を読んでみようと思います。(つづく)
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