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宮中祭祀を「法匪」から救え──Xデーに向けて何が危惧されるのか。昭和の失敗を繰り返すな [御代替わり]

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宮中祭祀を「法匪」から救え
Xデーに向けて何が危惧されるのか。昭和の失敗を繰り返すな
(「文藝春秋」2012年2月号)
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 昭和から平成への御代替わりは、本誌(「文藝春秋」2012年2月号。http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/255)掲載の永田忠興・元宮内庁掌典補インタビューが浮き彫りにしているように、悠久なる皇室の歴史と伝統にそぐわない、さまざまな不都合がありました。

 それらはつまるところ、3点に集約されます。

(1)皇室の伝統が側近によって断絶された戦後史の事実が見落とされていること、

(2)国家に非宗教性を要求する異様な憲法解釈・運用の実態があること、

(3)古来、祈りによって国と民を統合してきた天皇統治に関する無理解があること、

 の3つです。

 そこで改めて、政府の公式記録などをもとに、

(1)践祚(せんそ)、

(2)御大喪、

(3)即位礼、

(4)大嘗祭、

 の4つの局面について振り返り、政府の中枢で、深層において何が起きたのか、次なる「Xデー」に向けて何が危惧されるのか、課題は何か、を考えてみたいと思います。


▽1 失われた「践祚」という伝統概念

 まず践祚、すなわち皇位の継承です。

 宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)に記述されているように、旧登極令(とうきょくれい)によれば、大行天皇崩御のあと、新帝は皇位継承のため、

(1)賢所の儀、

(2)皇霊殿神殿に奉告の儀、

(3)剣璽渡御(とぎょ)の儀、

(4)践祚後朝見の儀からなる践祚の式

 を、国務として行うこととされていました。

 けれども、日本国憲法下での最初の事例となった平成の御代替わりでは違っていました。

 政府は、相当する儀式を現行憲法下でどう位置づけるかを検討し、その結果、一連の儀式を国の行事と皇室行事との二つに区分し、(1)(2)は政教分離の趣旨に照らして、国の儀式とすることは困難とされ、皇室行事となり、非宗教的と見る(3)(4)だけが国の儀式として行うこととされました。同時に(3)は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称され、(4)は「践祚」という言葉が消えました。

 ここでの問題は、政府が、

(1)「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、

(2)皇室の伝統行事を伝統のままに行うことが現行憲法の趣旨に反すると考え、

(3)実際、国の行事と皇室行事とを二分し、挙行したこと

 です。なぜそのようにしたのか。

 ひとつは、

「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」

 と憲法第20条第3項に定められる政教分離規定を原理的に解釈した結果であることは明白ですが、それだけではありません。看過できない歴史の重大な見落としがあります。政府は、皇室の伝統の位置づけが大きく変わることになった、戦後の、ある重要な事実にフタをし、口をつぐんでいます。

 内閣総理大臣官房が編集・発行した『平成即位の礼記録』(平成3年)は、「即位の礼」が国の儀式として行われた法的根拠が、皇室典範第24条

「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」

 にある、と説明しています。

 けれども「即位の礼」の具体的な中身についての明文的規定はありません。そこで、憲法の趣旨に沿い、皇室の伝統を尊重して、内閣の責任において、決定された、と説明されています。

 そのため、内閣では「即位の礼検討委員会」(平成元年6月設置。委員長=石原信雄内閣官房副長官)など、段階的に委員会が設けられ、「即位の礼」の中身について、検討がなされたのですが、なぜ泥縄式に政府が検討することになったのか。それは、永田元掌典補インタビューが明らかにしているように、連綿たる宮中祭祀の歴史を、官僚たちが密室で断絶させてしまったからです。

 昭和22(1947)年5月、日本国憲法が施行されたのに伴い、戦前の皇室令が「廃止」されましたが、宮内府長官官房文書課長高尾亮一名による依命通牒(いめいつうちょう)、いまでいう審議官通達で、

「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)

 とされました。

 この依命通牒によって、18か条の本則のほか、附式の第1編で「践祚の式」を、第2編で「即位礼および大嘗祭の式」を事細かに定めていた登極令の「中身」はもちろん、宮中行事の全体が、辛うじてではあるにしても、新憲法下でずっと生きていました。

 であればこそ、34年4月の皇太子殿下(今上陛下)の御結婚の儀は、閣議決定により「国事」とされ、旧皇室御婚令に準じ、宮中の聖域、賢所大前で行われました。

 ところが、時まさに宇佐美毅宮内庁長官、富田朝彦次長の時代、50年8月15日の宮内庁長官室会議以後、文書課長の依命通牒は反故(ほご)にされ、宮中行事の明文的根拠は完全に失われました。このため昭和天皇崩御から5か月も経って、「即位の礼」の中身を検討する必要に迫られたのです。依命通牒が廃棄されず、「宮内庁関係法規集」から消えなければ、政府の検討は無用でした。

「践祚後朝見の儀」の名称変更はその結果のひとつです。宮内庁の記録は

「もともと践祚は即位と同義語であり、また、皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた経緯があるので」

 と説明していますが、誤りです。

 践祚とは皇位を継承することを意味します。桓武天皇の時代、践祚から日を隔てて即位式を行うようになり、貞観(じょうがん)儀式の制定で両者は区別されるようになったといわれます。

 けれども戦後の混乱期に行われた皇室典範の改正はこの区別を反映できず、その後、政府は正常化の努力を怠ったのみならず、歴史の断絶を人知れず行い、さらに平成の御代替わりは「践祚」という用語と概念を完全に喪失させてしまいました。

 そして、あろうことか、践祚の式の一部が皇室典範第24条に規定される「即位の礼」の一環として行われました。皇室の伝統の破壊といわずして何でしょう。

 もうひとつ、歴史の見落としがあります。

 朝見の儀で、さらに決定的な変更がありました。皇位の象徴である剣璽の御動座を、かつては伴っていたのですが、平成の「即位後朝見の儀」では行われませんでした。理由は、宮内庁の記録では

「昭和21年6月の(昭和天皇の)千葉県下の御巡幸以降、剣璽は御動座しないことが原則になっている」

 ことなどを勘案したため、と説明されています。

 しかし事実は異なります。21年の占領下の御巡幸以来、久しく行われなかった剣璽御動座は、49年、昭和天皇の伊勢神宮行幸に際して、28年ぶりに復活しています。宮内庁の記録はこの歴史を無視しています。

 剣璽御動座が伴わなかったのは、神代の時代、天孫降臨に際して天照大神から授けられたと信じられ、歴代天皇が継承してきた三種神器の持つ宗教性を、政府が忌避したのが真相ではないでしょうか。

「渡御」

 という宗教用語を避け、

「剣璽渡御の儀」を

「剣璽等承継の儀」

 に改変させたのも同様です。

 政府は、宗教性を排除することが憲法の趣旨だと頑なに考えているようです。けれども、憲法学者の小嶋和司・東北大学教授(故人)の指摘はまったく逆です。憲法は国家に宗教的「無色中立」性を要求してはいません。「政教分離」を「宗教性」排除の意味とする解釈は憲法の個々の規定からは見いだせません。

 憲法第89条は宗教団体、慈善団体、教育機関への公金の支出を禁じていますが、現実には、国立大学で宗教研究・教育が認められ、教育基本法は

「宗教に関する寛容の態度」

 の尊重を謳い、文化財保護法は特定の神社・仏閣を国費で修復することを許しています。憲法第20条第3項は

「特定の宗教のための宗教的活動をしてはならない」

 という意味に解釈すべきだと小嶋教授は指摘していますが、むろん皇室の儀礼が特定の宗教であるはずもありません(『小嶋和司憲法論集三 憲法解釈の諸問題』1989年)。


▽2 立法者の想定と異なる「大喪の礼」

 平成元(1989)年2月24日、昭和天皇の「葬場殿の儀」と「大喪の礼」が新宿御苑で行われました。「大喪の礼」は過去の歴史にない新例でした。皇室行事としての伝統的な「葬場殿の儀」に、国事行為である「大喪の礼」を加え、しかも分離して挙行されました。「大喪の礼」では祭官が退出し、鳥居と大真榊(おおまさかき)が撤去されました。

 当時の報道によれば、当初は、鳥居は建てられない予定でした。しかしその後、「葬場殿の儀」に限って鳥居が建てられ、「大喪の礼」では大真榊とともに取り外されました。なぜ建てられない予定だったのか、なぜ撤去されたのか。なぜ2つの儀礼が分離方式で行われたのか。そもそもなぜ「大喪の礼」が新例として行われたのか。

 宮内庁の『昭和天皇大喪儀記録』(平成5年)によれば、昭和天皇の崩御後、日本国憲法下ではじめて行われる御大喪のあり方について、憲法の趣旨に沿うかどうか、皇室の伝統を尊重したものかどうか、時代に即したものかどうか、など内閣を中心に、検討されました。

 既述したように、昭和22年5月の依命通牒を宮内庁が50年に廃棄していなければ、大袈裟な検討など必要はありません。皇室伝統の御大喪が憲法の趣旨に沿うかどうか、というのも、自明です。貞明皇后の御大喪が26年6月に、旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しているからです。

 このときの事情を、35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一皇室経済主管(当時)が次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。……占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました」

 ところが、平成の御代替わりでは、この先例が廃棄され、宮内庁の説明に従えば、政府の検討が行われ、その結果、皇室伝統の大喪儀は皇室の行事として、伝統に従い、旧制を斟酌して行われることとなり、一方、皇室典範第25条に定める「大喪の礼」は、国の儀式として、憲法の趣旨に沿い、かつ皇室の伝統を尊重して行うこととなりました。

 宮内庁の記録の解説から分かるのは、

(1)占領期の憲法解釈より大きく後退し、皇室伝統の大喪儀を国の行事として行うことは憲法の趣旨に反すると考えられていること、

(2)皇室典範第25条に定められる「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」の「大喪の礼」は皇室伝統の大喪儀とは別だと考えられていること、

 の2点です。なぜそう考えるのか。

 宮内庁の記録によれば、皇室の葬制は旧皇室喪儀令で集大成されました。昭和22年5月2日をもって廃止されましたが、貞明皇后大喪儀、秩父宮雍仁(やすひと)親王喪儀、高松宮宣仁(のぶひと)親王喪儀は旧皇室喪儀令に準じて行われました。そして昭和天皇大喪儀も旧皇室喪儀令に定める皇室の伝統的方式に従って行われるが、依るべき定めがなくなっているので、大喪儀委員会で挙行方針が定められた、と説明されています。

 しかし

「定めがなくなった」

 は誤りです。側近たちが依命通牒を廃棄したのが真相です。ミスを取り繕っているのです。

 ともあれ、政府は、現行法制下では、皇室典範第25条に

「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」

 と定めているだけである。この「大喪の礼」は憲法第7条が天皇の国事行為の1つとして定める「国の儀式」として行われることを予定したものと解釈されるけれども、現行法には明文の規定がない。そこで、内閣に設置された大喪の礼委員会の協議を経て、そのあり方が決定された、と説明しています。

 そして、皇室伝統の「葬場殿の儀」は国事行為として行えない、と解釈されました。その理由は、祭官、鳥居、大真榊が社会通念上、宗教的に重要な意義を有すると考えられ、儀式上、重要な要素を占めているから、

「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」

 と定める憲法に違反する疑いを否定することができない、とされたからです。

 このため、「大喪の礼」においては、宗教性を排除するため、祭官は退席し、鳥居・大真榊は撤去されたのでした。

 しかし皇室典範が定める「大喪の礼」とは新例を意味すると考えるべきなのか。皇室典範の制定過程を振り返れば、少なくとも立法者は逆に、皇室伝統の御大喪を意味すると理解していたのではないか、と推測されます。

 なぜなら、立法過程の資料を集めた『皇室典範』(日本立法資料全集1、平成2年)によれば、政府の皇室典範改正案として枢密院の審査にかけられ、第91回帝国議会に提出された確定案は

「第25条 天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」

 と明記されていますが、総司令部に最終的に提出したとされる、その英訳は

「Article 25. When the Emperor dies, the Rites of Imperial Funeral shall be held.」

 であり、「大喪の礼」が一つの儀式(the Rite)ではなく、複数形の諸儀礼(the Rites)として表現されているからです。

 皇室典範に規定される「大喪の礼」は、新例としての「大喪の礼」ではなく、皇室伝統の形式による大喪儀の諸儀礼を意味していると考えるのが妥当だと思います。

 けれども御大喪を非宗教化させる急先鋒は、ほかならぬ内閣法制局でした。

 御代替わり当時、政府の中枢にあったキーパーソンの一人、石原信雄内閣官房副長官の著書『官邸2668日』(1995年)には、

「当時の味村治法制局長官以下、法制局が、『どう考えても鳥居は宗教のシンボルだから、鳥居を置いたまま国事行為を行うわけにはいかない、絶対ダメだ』と主張していたことが原因だ」

 と記述されています。

 味村長官はもっぱら法曹畑を歩み、最高裁判事にまで上り詰めた、法律のプロ中のプロですが、そもそもは商法の専門家であり、残された数十冊の著書は商法関連のものばかりです。宮中行事に関する知識はきわめて乏しかったのではないかと想像します。

 宗教色のない葬送儀礼など、この世にあろうはずはないのに、まして神代にまで連なるとされる歴史を持つ皇室と宗教性は不可分です。憲法はむしろ宗教の価値を認めています。なぜあえて宗教性を排除しようとするのか。

 たしかに憲法は国の宗教的活動の禁止などを定めていますが、実際には緩やかな分離政策が採られています。

 たとえば、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む東京都慰霊堂では年2回、慰霊法要が都内の5つの寺院の持ち回りで行われています。カトリックの世界的巡礼地である長崎の26聖人記念碑は市有地に立地し、小泉内閣時代以降、首相官邸などでイスラムの断食明けの行事が行われました。

 しかし、宮中祭祀や神社のこととなると、政教分離の厳格主義が頭をもたげてくるのです。つまり宗教政策の二重基準です。

 その結果、「大喪の礼」という新例が行われ、国の行事と皇室行事との二分方式が採られ、厳粛であるべき御大喪で、鳥居などを撤去するドタバタ劇が演じられました。

 現行憲法および現行皇室典範などの制定の直接的責任者だった井出成三・元法制局次長は、その後を予見するかのように、何十年も前に、分離方式を批判しています。

「宮中祭祀は憲法上、いわゆる宗教であり、国費を支出して行い、国家機関たる地位にあるものが参列することは、憲法上問題があるとして、式典を二分して観念し、皇室の儀式は公の機関でない掌典職が執り行い、費用は内廷費で賄い、別途に国の式典を行い、宮中祭祀の色彩を一切除去することが正しいと考え、あるいはその一方を行うほかはないと考えることは、形式的な解釈に引きずられて、本質を見失っているのではないか」(井出『皇位の世襲と宮中祭祀』昭和42年)


▽3 皇室の伝統儀礼と似て非なる「即位の礼」

 平成2(1990)年、「即位の礼」が行われました。しかしこの「即位の礼」は皇室伝統の即位礼とは似て非なるものでした。

 先述したように、政府は「即位の礼」を行うことの根拠を皇室典範第24条に置いています。そして、その中身については、明文的規定がないということで、内閣に委員会が段階的に設置され、検討されました。

『平成即位の礼記録』に興味深い記述があります。準備委員会(平成元年9月設置。委員長=森山眞弓内閣官房長官)に15人の参考人の1人として呼ばれた反対派と目される識者が、皇室典範改正当時の議論に言及し、次のような意見を述べたというのです。

「現行の皇室典範制定に際して、当時の金森徳次郎国務大臣が『即位の礼』の予定しているところは信仰に関係のない部分であり、大嘗祭は含まれない旨、答弁している」

 皇室典範改正当時の議論を一次資料で振り返ると、さらに興味深い事実が分かります。金森大臣は大嘗祭の挙行を否定するような発言などしてはいません。むしろ逆です。

 前掲の『皇室典範』によると、21年12月5日、帝国議会で皇室典範案について、第一読会が行われました。議事速記録に即位践祚に関する議論が載っています。

 吉田茂首相の提案理由説明のあと、発言したのは吉田安議員でした。皇位継承資格、女帝問題などに続いて、「現行典範には践祚即位の章が設けられているのに、改正典範案はあっけない規定しかない、これで完全といえるか」と質問し、これに対して金森徳次郎大臣が答弁しているのですが、答弁から浮かび上がるのは、次の3点です。

(1)典範改正案には「践祚」という文字は消えたが、中身に変更はない、と少なくとも金森大臣は考えていたこと

(2)少なくとも即位礼について、中身について変更はない、と考えられていたこと

(3)改正案に大嘗祭についての記述がないのは、信仰面を含むことから明文化は不適当と考えられたこと。つまり、大嘗祭の挙行が不適当だと考えられたわけではないこと

 金森大臣は

「即位の礼に関しましては、今回制定せられまする典範のなかに、やはり規定が設けてありまして、実質において異なるところがございません」

 と明言しています。皇室の法律である皇室令から国会が定める法律に皇室典範の位置づけが変わり、条文の表現が変わっても、皇室行事の体系はいささかも変わらないという認識です。

 したがって数カ月後、22年5月3日に現行皇室典範が日本国憲法とともに施行され、その前日に皇室令は廃止されましたが、皇室の伝統はそのまま維持されたのです。

 であればこそ、何度も言及したように、このとき

「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」

 とする宮内府長官官房文書課長名の依命通牒が出されたのでした。

 そして50年8月の宮内庁長官室会議で、宮内官僚たちがこの依命通牒を人知れず反故にするまで、この通牒は生きていました。

 依命通牒が廃棄されることがなければ、政府や宮内庁が検討委員会、準備委員会などを立ち上げ、参考人まで呼んで、何か月にもわたり、大がかりに「即位の礼」の「中身」を検討する必要はありませんでした。

 ともあれ、平成2年1月19日の閣議は、皇室典範を法的根拠として、同年11月に「即位の礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」の3つの儀式を「即位の礼」として挙行することを決定しました。けれども、皇室典範の立法者たちはそのような「即位の礼」を「予定」していたわけではないでしょう。まして平成の御代替わりに行われたような、「即位の礼」に践祚の式の一部を含めることは予想だにしなかったでしょう。


▽4 大嘗祭は「稲作中心社会の収穫儀礼」か

 さて、大嘗祭です。大嘗祭こそ、最大のテーマでした。

「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」

 と当時の石原内閣官房副長官はその著書で振り返っています。

 内閣に設置された即位の礼準備委員会は、3か月間の作業をもとに、平成元年12月21日、即位の礼、大嘗祭の挙行などについて、検討結果をまとめました。

 大嘗祭については、国事行為として行うことが困難とされ、皇室の行事として行われる。その場合、大嘗祭は公的性格があり、費用は宮廷費から支出することが相当と考える、というのがその内容で、同日の臨時閣議で内閣官房長官から報告され、口頭了解されました。

 けれども、この結論は、大嘗祭とはいかなるものと考えたうえでのことだったのか。大嘗祭の本質に関する理解を十分に深めることなく、平成の即位礼、大嘗祭を挙行したのではないかと疑われます。

 というのも、内閣の『平成即位の礼記録』は、

「大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」

 と説明しているからです。肝心な粟の存在が抜け落ちています。

 天皇の祭祀に粟は重要です。大嘗祭は天皇が即位後に行われる一世一度の大がかりな新嘗祭ですが、昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元宮内省掌典は、

「このお祭り(新嘗祭)にもっとも大切なのは神饌である。なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊いた米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥……」

 と説明しています(八束「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史第一巻』所収、昭和41年)。

 大嘗祭が「稲作中心社会の収穫儀礼」なら稲の儀礼で十分です。天照大神が邇邇藝命(ににぎのみこと)に斎庭(ゆにわ)の稲穂を授けたという天孫降臨神話だけを考えるなら、天照大神に稲の新穀を供し、祈りを捧げれば十分なはずです。

 しかし新帝は天照大神ほか天神地祇に、米のみならず粟の新穀を捧げ、祈られます。なぜなのか。

 現代を代表する民俗学者で、稲作民俗、焼畑民俗の両方を研究する野本寛一・近畿大学名誉教授は、私の取材に対して、

「米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」

 と指摘しています。

 日本には古くから粟の民俗があったようで、野本名誉教授は『焼畑民俗文化論』(昭和59年)のなかで、水田稲作以前の民が粟や芋を栽培していたこと、粟や麦を主食とする焼畑の村ではかつて旧暦10月10日にアワオコワやオカラク(粢[しとぎ])を畑神様に捧げていたこと、などを紹介しています。

 新嘗祭、大嘗祭は、稲の収穫儀礼ではなく、稲作儀礼と畑作儀礼という淵源の異なるふたつの儀礼の複合と理解されますが、それならば、なぜ天皇は複合儀礼を行われるのか。

 日本列島には古来、稲作民もいれば、畑作民もいます。山の民も海の民もいます。それぞれの土地にそれぞれの暮らしと文化、そして信仰があります。そのような多様な国民を、多様なるままに統合し、社会の平和を保ち、暮らしを安定させるのが統治者の役割であり、歴代天皇は政治権力や軍事力によらず、公正かつ無私なる祈りによって実現しようとしてきた。そのための米と粟の複合儀礼ではないでしょうか。

 宗教という観点からいえば、天皇の祭祀は国民の信教の自由を侵すのではなく、逆に保障するものとして機能してきたと理解されます。天皇は民が信じるあらゆる神々に祈りを捧げます。古代において仏教など海外文化受容の中心は皇室であり、近代においてキリスト教の社会事業を深く理解され、経済的、精神的に支援されたのも皇室でした。であればこそ、天皇は歴史的に、憲法に謳われるように、国の象徴であり、国民統合の象徴と仰がれてきたのではないのでしょうか。

 もしそのように理解されるのなら、皇室の伝統と現行憲法の趣旨を対立的にとらえ、御代替わりの儀礼に「宗教色がある」として、国の行事から排除したことは、あまりにも愚かしい最大の失態といえます。

 前出の小嶋教授が批判しているように、憲法の「政教分離」は国家に宗教的「無色中立」性を求めることだと解釈する憲法論にこそ間違いがあるように思います。

 小嶋教授によれば、厳格な政教分離を要求する憲法解釈は、

(1)占領初期に神社神道からの国家の「分離」を要求した、いわゆる神道指令の影響、

(2)「国家が特定の宗教を優遇することは他の宗教を抑える結果になり、すべての宗教を等しく優遇することは無宗教の自由を抑制する結果になる点で、同様に信教の自由に反する」と解釈する、宮沢俊義東京大学教授(故人)の憲法論の影響

 などが考えられるといいます。

 けれども、憲法解釈を占領政策と同一視しなければならない理由はないし、占領後期になれば占領軍の政策自体が緩和され、貞明皇后の御大喪も伝統に従って行われている。信仰者より無神論者を優遇するような憲法解釈は信教の自由を認める憲法に反する、と小嶋教授は批判しています。

 戦後、憲法学の巨匠として君臨したのが宮澤教授ですが、天皇主権か国民主権か、を強く意識し、8月革命説を唱えた宮沢流の憲法論こそが、平成の御代替わりに大きく影響を与え、無宗教・非宗教主義を援助、助長、促進し、皇室の宗教的伝統を圧迫し、干渉したのではないかと推測されます。天皇の本質を十分に見極めないままに、です。

 永田元掌典補がインタビューで明らかにしているように、無神論者を自認する富田長官の時代、天皇より憲法に忠誠を誓う「国家公務員」たちによって、皇室の伝統が断絶させられ、天皇の祭祀が激変したことが、あらためて想起されます。

 次の御代替わりに向けた、正常化への取り組みが直ちに開始されなければ、悪しき先例が繰り返されると心から危惧されます。(筆者注。引用文は適宜編集してあります)

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