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永田忠興元掌典補ロング・インタビュー──「昭和天皇の忠臣」が語る「皇位継承」の過去と未来 [御代替わり]

以下は「文藝春秋」2012年2月号に掲載された永田忠興元掌典補インタビュー──のロング・バージョンです(2012年2月1日)

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永田忠興元掌典補ロング・インタビュー──「昭和天皇の忠臣」が語る「皇位継承」の過去と未来
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▽1 家族的だったあの頃の宮内庁

──昭和三十八(一九六三)年に國學院大學神道学科を卒業されたあと、宮内庁掌典職に務める国家公務員となられたそうですが、掌典職とはどのようなところですか?

永田 天皇陛下の祭祀を担当する部署で、掌典長以下、掌典次長、掌典五名、内掌典五名、掌典補六名からなります。

 戦前は国家機関でしたが、現行憲法下では公務員とは異なる、陛下のお手元金である内廷費で直接、雇われる陛下の私的使用人という立場になりました。

 例外は私たち掌典補で、公務員として採用され、宮内庁式部職に属し、掌典職の庶務のほか、歌会始に関する事務、儀式に関することを担当しています。

──宮内庁にはいろんな方がおられるますね。

永田 一般事務官のほかに、ありとあらゆる職種の人がいて、宮内庁はさながら一つの町のようです。

 和食・洋食の職人、和菓子・洋菓子職人もいれば、病院の医師や看護婦、御料牧場で働く人、鍛冶屋さん、大工さん、運転手さんもいます。印刷所、製本所、洗濯所で働く人、植木・盆栽の職員もいます。雅楽を演奏する楽部は世襲の音楽家たちで構成されています。みな一様に人格者で、プロの仕事をしています。

 とくに私が入庁したころはまだ、戦前からの古い職員たちがおられ、その人となりや仕事ぶりに触れることができました。

 たとえば被服係は体型を一目見ただけで、たちどころにサイズが分かります。重要な儀式には末端の職員も儀式服が必要です。「はい、あなたはこれね」。目の前に立つだけで、身体にぴったりの服を渡してくれました。仕事ができて、優秀なのに、謙虚で腰が低い。頭が下がりました。


▽2 変わり始めた戦後の宮内庁

──昭和四十年代の宮内庁は、大きな時代の波に洗われていたと聞きます。

永田 戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちが定年退職し始め、代わって戦後教育を受けた人たちが入庁するようになったからです。幹部職員には元華族の方などもおられましたが、外務省、厚生省、自治省、警察庁など、ほかの官庁から横滑りするようになり、皇室に対する考え方が変わり始めました。

──最大の変化が、歴代天皇がもっとも大切にされてきた宮中祭祀ですね?

永田 憲法が定める信教の自由を掲げ、「なぜ祭祀に、公務員が関わらなければならないのか」という意見が口々に出て、祭祀が敬遠されるようになったのです。

 戦後世代の職員たちは「陛下にお仕えする」というよりも、「国家公務員である」 という考え方が先に立ちました。皇室の歴史と伝統についての理解は乏しく、逆に、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」という憲法の政教分離規定を、字義通り厳しく解釈・運用する考え方が、まるで新興宗教と見まごうほどに蔓延し、陛下の側近中の側近である侍従さんまでが祭祀から遠のき始めました。

──それまで家族的だった宮内庁に、ギスギスした空気が漂うようになった。

永田 オモテとオクの区別も厳格になりました。

 意外に思われるかも知れませんが、陛下や皇族方の日常生活のために国庫から支出される内廷費はたいへん厳しいものがあります。このため以前は、掌典職の経費を何とかオモテの予算でできないかという努力がなされたのですが、そうした配慮がだんだん効かなくなりました。

 雑巾一枚でさえ、「どこで、使うんですか?」と逐一、詰問されるという具合です。祭典に御参列の皇族方などのお車が発着するときのドアの開け閉めも、御休憩時のお茶出しも、以前は宮殿の職員が担当していましたが、政教分離・信教の自由を理由に、内廷の職員に限られるようになりました。

──憲法問題が庁内の雰囲気を変え、皇室の伝統たる祭祀を変えていった。

永田 そんななか宮中祭祀に携わる女性職員の内掌典は、ご自分の給料をつぎ込んでも、掃除に使う麻の布巾などを購入していました。正式な予算では安価な木綿の布巾しか購入できないからです。高価な手漉きの和紙なども自己負担でした。明治生まれで、七十年間も祭祀に奉仕された、ある内掌典は、老後の蓄えもきわめて不十分なまま退職されました。

 職員ばかりではありません。驚いたのは、古くから皇室に出入りしている、御用達の業者が赤字覚悟で納品していたことです。

 勤労奉仕の方々には、雨の日などは屋内での繕い物や雑巾縫いに精を出され、とりわけ賢所内での庭上清掃の場合は、聖域に入れた感動で、緊張してのご奉仕でした。

──皇室尊崇の念の深い人たちは、官僚機構の外におられる。

永田 新嘗祭のお供えにする干柿や搗栗を、十一月に間に合うように、立派に作ってくださるのも、地方の勤労奉仕団でした。

 奉仕団員、関係業者たちの皇室に対する畏敬の念の深さに、我々職員たるものはもっともっと身を挺して務めねば、という思いが自然に涌いてきました。

 そして何より、陛下の御日常を拝し、私の甘い考えは変わらざるを得ませんでした。御日程は分刻みです。陛下は各御公務や祭祀、儀式などに合わせてお召し替えをなさいますが、多いときには一日に十回にもなると聞いております。定時に出勤して、定時に退庁するという仕事に甘んじていては、罰が当たると思いました。


▽3 戦後も続いた宮中祭祀の世界

──天皇陛下は一年三百六十五日、国と国民のための祈りの日々を過ごされていますが、この宮中祭祀について、読者の方に少し説明していただけますか?

永田 陛下の一年は四方拝という神事で始まります。まだ明けやらぬ元日の早暁、御装束を召され、神嘉殿前庭で神宮(伊勢)、山陵、および四方の神々を御遥拝になられます。

 宮中の奥深い聖域、宮中三殿などで陛下が行われる祭祀は、毎日行われる毎朝御代拝のほか、大祭・小祭など合わせて年間三十回を数え、戦前は皇室祭祀令という皇室独自の法律、皇室令に明文化されていました。

──けれども敗戦後、現行憲法の施行に伴い、昭和二十二(一九四七)年五月二日をもって皇室令は廃止され、宮中祭祀の法的根拠は失われたわけですね。

永田 それでも、「従前の例に準じて事務を処理すること」という宮内府長官官房文書課長名の依命通牒、いまでいう審議官通達によって、祭祀の伝統は引き継がれてきました。

 当時は占領期です。昭和二十年暮れにGHQが発令した、いわゆる神道指令は「宗教を国家から分離すること」を目的とし、駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷でしたから、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが政府の方針でした。

──GHQは、天皇が「皇室の私事」として祭祀を続けられることについては、干渉しなかった。

永田 であればこそ、申し上げましたように、祭祀に従事する掌典職員は内廷費で雇われ、公務員ではなく、天皇の私的使用人として位置づけられるようになったのです。

 二十六年の貞明皇后の御喪儀は、簡略化はされましたが、喪儀令にほぼ則り、皇室の伝統に基づいて、行われました。GHQの第二代総司令官マシュー・リッジウェイは宮内庁からの問い合わせに対して、「喪儀は個人の宗教で執り行うのは当たり前」と回答しています。

──「神道指令」当時の神道敵視政策が、占領後期になると緩和されたわけですが、それでも「祭祀は天皇の私事」という憲法解釈を超えられなかった?

永田 終戦直後の宮内次官で、戦後初の侍従長ともなった大金益次郎は、「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や、という点については深い疑問があったけれども、何分、神道指令はきわめて苛烈なもので、論争の余地がなかった」と国会で答弁したと承知しています。

──先人たちは過酷な占領政策に精一杯、対処したけれども、逆戻りしてしまった。

永田 戦後二十年も経つと、高級官僚たちはまるで法匪と化し、先人たちの血の滲むような努力を踏みにじっている、と情けなく思ったものです。


▽4 気骨ある人材がいなくなった

──宮中祭祀以外にも影響がありましたか?

永田 たとえば宮中には、吹上御苑に祀られている山の神様の祭りや、鍛冶屋さん特有の守護神をまつる「ふいご祭り」など、民間信仰に基づく神事が伝えられています。こうした伝統的神事に、以前は管理課長以下が参列していました。けれども、やはり昭和四十年代以降、「公務員だから」と理由で、直接の関係者のみで内々に行われるようになりました。

 いま成田空港がある三里塚には、昭和四十四(一九六九)年まで御料牧場があり、屠畜された家畜などの慰霊祭も、掌典職員によって行われていましたが、疑問視する声が出て、廃止されました。けれども現場の職員たちは納得できず、結局、近くのお寺のお坊さんに依頼して、仏式で慰霊法要が定期的に営まれるようになったと聞いています。

──宮中第一の重儀である新嘗祭に欠かせないお酒、白酒黒酒もそうなんでしょ?

永田 五十七年までは皇居内で掌典職が造っていましたが、いまは外注されるようになりました。

 酒税法によれば醸造には関係当局への許可申請が必要ですが、大蔵省(国税庁)も内閣法制局も長年、黙認していました。それをわざわざ宮内庁側から「密造に当たらないか」とお伺いを立て、案の定、不許可となりました。

──新嘗祭の造酒は延喜式に造り方が記載されていますから、少なくとも千年以上の長い歴史があります。造酒司が担当してきた伝統が崩れたということですね。

永田 いまの宮殿は三十九年に着工し、四十三年に落成しましたが、管理部長を務めた高尾亮一氏によると、新宮殿建設のとき、あらゆる配慮がなされました。宮殿の庭が京都の紫宸殿南庭より広く取ってあるのは、即位儀礼が宮殿で行われる場合を想定してのことだったといいます。

 かつてはそういう将来への見通しや見識、そして骨のある人材が庁内にいたのですが、今は昔です。


▽5 入江侍従長の加齢が祭祀改変の理由

──庁内が様変わりし、天皇の祭祀が改変されたのは、入江相政侍従が侍従長へと上り詰めた時期と重なりますね。

 昭和九(一九三四)年に学習院教授から侍従となった入江さんは、四十三年に侍従次長に昇格、翌四十四年九月に侍従長に就任しました。

 入江侍従長の日記には、四十三年秋から新嘗祭の、いわゆる祭祀の「簡略化」のために、宇佐見宮内庁長官や香淳皇后などと根回しをしていたことがうかがえますが、四十四年暮れ、十二月二十六日には昭和天皇に直接、打診が行われたようです。

 この日の日記には、「お上に歳末年始のお行事のことにつき申し上げる。四方拝はテラス、御洋服。歳旦祭、元始祭は御代拝。他は室内につきすべて例年通りということでお許しを得、皇后様にも申し上げる」とあります。

永田 四方拝は先述したように、元日の早朝に国家国民の安寧を祈られる重儀で、陛下は御装束を召して、神嘉殿の前庭に下りられ、庭上に座して祈られるのですが、なぜ入江さんは侍従長就任直後、「四方拝は御洋服、テラスで」などといいだしたのか、入江さんの祭祀嫌いが原因だとする見方もありますが、私はそうではないと思います。

──四十一年大晦日の日記には、「今日も休み。節折(の儀)も出なくていいし、明日(元旦)の四方拝も出なくていい。こんなうれしいことはない」などと書かれています。

永田 入江さんの御代拝のときの態度はきわめて真摯でした。庁舎の廊下ですれ違うと、私たちにまでていねいに挨拶される方で、立派な方だったという印象を私は持っています。

 祭祀の改変を進めるようになったのは、祭祀嫌いというより、還暦を過ぎて、ご自身の加齢から祭典に奉仕することが辛くなり、だからお上もたいへんだろう、と思いやられた結果ではないかと私は推察しています。

▽6 無神論者を自認する富田宮内庁長官

──祭祀簡略化にはもっと大きな原因があるということですね。

永田 問題は、他の省庁のキャリア組が宮内庁に集まるようになり、それまでの宮内庁でなくなったことです。

 たとえば、四十九年十一月に内閣調査室長から宮内庁次長に就任し、五十三年五月に宇佐見毅長官に代わって、第二代宮内庁長官に昇格した富田朝彦氏がそうでした。

 富田長官とは不思議なご縁がありました。一番上の妹は長官時代の富田家のお手伝いをさせていただきました。妹は、長官も奥様もたいへん優しく、立派な人格者であられ、よい体験をさせていただいた、と感謝しています。

──富田長官は思想的には無神論者を自認していたそうですね。

永田 まだ次長のころ、宮内庁病院でお会いしたとき、「掌典職の方ですよね。僕は無神論者なんですよ」といきなり話しかけてこられて、驚いたのを覚えています。

 東京帝国大学、海軍経理学校を卒業し、内務官僚、警察官僚を経験した長官は、法律や行政には精通していたでしょうが、天皇陛下本来のお務めである祭祀についての理解はきわめて乏しかったのではないかと思います。

──そして富田長官の時代、憲法の政教分離原則が独り歩きし、無宗教的な政策が進められていった。

永田 富田長官は陛下の側近中の側近でありながら、宮中最大の重儀である新嘗祭をはじめとする大祭に、皇族方や、総理大臣以下、三権の長が参列する場合でも、不参のことが多かったように記憶しています。


▽7 天皇不在で変更された毎朝御代拝

──戦後の宮中祭祀は、昭和二十二(一九四七)年五月の宮内府長官官房文書課長の依命通牒という、いわば官僚の紙切れ一枚によって、伝統が辛うじて守られてきたということですが、いまは違う?

永田 この依命通牒は『宮内庁法規集』から、五十年九月突然、消えました。どのような経緯があったのか、詳細は分かりませんが、このとき天皇陛下の祭祀は明文法的根拠を完全に失ったのです。

 そして現実に、五十年九月一日以降、毎朝御代拝の服装、場所が急に変更されました。庁外からの「外圧」でもあったのでしょうか。

──毎朝御代拝は、天皇が毎朝、御自身の代わりに、側近の侍従を潔斎のうえ、宮中三殿に遣わし、烏帽子・浄衣に身を正し、殿内で拝礼させるものですね。平安時代に始まる、歴代天皇がみずから神宮(伊勢)などを遥拝された石灰壇御拝に連なる歴史ある重儀です。

永田 ところが服装は洋装のモーニング・コートに、拝礼は庭上から、と変更されました。「侍従は国家公務員だから、神道という宗教にタッチすべきではない」として、神道色を薄めるための配慮がなされたと説明されています。

──「公務員だからいけない」というのなら、洋服を着ようが、場所を変えようが同じことで、筋が通りませんね。

永田 皇室伝統の祭祀について、じつに便宜的な変更が、陛下や皇族方の意思によらず、側近の事務方によって一方的に行われました。

 このほか、同様の理由から、五十七年八月に、埼玉県大宮市(現さいたま市)の氷川神社例祭の東游奉納が変更されました。

 同社は武蔵国の一の宮で、明治天皇が明治元(一八六八)年に行幸になり、親祭され、勅祭社と定められた由緒ある神社です。このため毎年八月一日の例祭には勅使が参向し、楽部の楽師も随行して東游を奉納してきた経緯があります。

 けれども公務員が宗教法人としての神社に出向き、東游を奉納するのは好ましくないというので、楽師たちは有給休暇を取り、私人として奉納することになりました。

 こうした改変が次から次に起きたのが昭和五十年代でした。

──永田さんとしては強い危機感を覚えずにはいられなかった?

永田 それで私は五十七年暮れ、母校の國學院大學で開かれた「神道宗教学会」で、これら宮中祭祀改変の是非を問題提起しました。学会のメンバーである神道学者たちに天皇陛下の祭祀の現実を知ってほしい。陛下のなさるべきことは何か、をもっと社会に知らしめてほしい、と心から願ってのことでした。

 私の学会発表はその後、「週刊文春」に大きく取りあげられ、宮内庁に対する社会的批判が高まりました。

──けれども永田さんは逆に、宮内庁内での風当たりが強くなった。


▽8 昭和から平成への御代替わり

永田 即位礼・大嘗祭に関する掌典職作成の計画案が提出されたあと、平成元年十二月十七日に私は配置替えになりました。

 実施に向けての諸準備は、私の後任である三木善明掌典補を中心にして、掌典補一丸となり、職務を果たすべく、年中祭典を奉仕しながら、少し大袈裟に申せば、休日なし、連日徹夜に近い残業の日々で、取り組んでいました。

 儀式、衣紋、作法の指導、布設に関わる監督、実行予算案の作成、神饌の調達から調理まで行い、数千に及ぶ物品調達などなど、一から十まですべてに関与し、御大喪以上に言語に絶するたいへんな苦労があったと思います。

 大礼後には三木掌典補も掌典職を追われています。


▽9 政府には準備態勢がなかった

──昭和天皇の晩年にもっとも心配されたのは何ですか?

永田 やがて来たるべき御代替わりで、大行天皇の御大喪および新帝の御即位の大礼が、国の予算ではなく、内廷費で賄うことになったら大変だということです。

 万一、御代替わりの諸行事が、国事としてではなく、皇室の私事として行うことになれば、国費で支弁することはできませんから、尊皇意識で人後に落ちない神社界をはじめ、国民各層の支援を求めるほかはないとまで思い詰めたものです。

 皇室の伝統に従い、明治時代に成文化された皇室祭祀令にのっとって行うには、それなりに多額の予算が必要だからです。事実、皇室は万が一の場合に備えて、けっして十分とはいえない内廷費をやりくりして、一部を毎年、積み立てていました。

──皇位継承について、原理・原則がないことも大きな懸念だった?

永田 戦前は御大喪から御即位までが、皇室典範、登極令、皇室喪儀令、皇室服喪令、皇室陵墓令などに細かく規定されていました。大正天皇の場合は、崩御当日の大正十五(一九二六)年十二月二十五日から昭和四(一九二九)年一月十五日にかけて、六十一回の儀式が行われました。けれども敗戦と日本国憲法の成立に伴い、皇室典範は改正され、皇室令は廃止されました。

 旧皇室典範は、「第十条 天皇崩ずるときは皇嗣即ち踐祚し祖宗の神器を承く」「第十一条 卽位の禮及大嘗祭は京都に於て之を行ふ」(原文は漢字カタカナ混じり)、などと皇位継承に関して具体的に規定していましたが、現皇室典範には、「第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに卽位する」「第二十四条 皇位の継承があつたときは、 卽位の礼を行う」「第二十五条 天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」という抽象的な規定しかありません。

 国の象徴であり、国民統合の象徴と憲法に定められる天皇に関して、もっとも重要な皇位の継承について、現行法規は具体的規定を持たないのです。崩御ののち、予算設定が取られ、組織が作られ、という手順ではとても間に合わないのに、政府も宮内庁も準備態勢ができていませんでした。

──行政は直近の前例を踏襲する先例主義ですから、ひとたび悪しき先例が作られれば、後々に影響します。

永田 それは許されない、というのが私たち掌典補全員の思いでした。そこで、國學院大學の安蘇谷正彦教授(のちの学長)や神社本庁の職員などにも働きかけて、即位・大喪の勉強会を始めました。

 掌典補六名のほか、神社本庁からは茂木貞純(のちの国大教授)、牟禮仁(のちの皇學館大学教授)など各職員と毎月一回、國學院大學からは安蘇谷教授を中心に、田沼眞弓(のちの國大栃木短大教授)、高森明勅(のちの日本文化総合研究所代表)など、当時の大学院生らと毎週一回、定期的に集まり、勉強会は五十八年春から六十三年秋まで続きました。学問的な裏付けがどうしても必要だったからです。

 掌典補の一人は大正天皇の大喪記録を借りだして、書き写すことに取り組み始めました。

──関係部局で皇位継承について取り組み始めて、とくに困ったことはありましたか?

永田 掌典職員以外の他部局の職員には専門用語が難解で、読解できず、意味が正確に分からないことです。たとえば轜車とは何か、お車なのか、牛車なのか、が分かりません。少し理解が進んだかと思うと、人事異動で担当者の顔ぶれが変わりました。

 そんなことを数年、くり返し、ヒト、カネ、モノがこんなに必要なのか、と私たちは天を仰ぎました。昭和の御代替わりを踏襲しようとすれば、数十億円もかかります。年間数億円しかない皇室の内廷費ではとても賄えません。


▽10 真田秀夫・内閣法制局長官の答弁

──御代替わりに関する最大の問題は、宮中祭祀に対する偏見、それによる厳格な政教分離主義でしょうか?

永田 昭和五十四(一九七九)年四月に衆議院内閣委員会で、元号法に関する質疑が行われたとき、上田卓三・社会党議員は「元号の法制化は践祚・大嘗祭その他の皇位継承儀礼の法制化へと道を開く危険性を十二分に持っているのではないか」と迫りました。

 これに対して真田秀夫・内閣法制局長官は、「従来のような大嘗祭は神式だから、憲法二十条三項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか……」と答弁しました。

──大嘗祭は、皇位を継承された天皇が最初に行われる新嘗祭で、神道儀式あるいは宗教的儀式というより、皇室の伝統儀式でしょう。むろん国と国民のためになさる天皇の即位儀礼が私的行為であるはずはありません。国民の信教の自由を侵すはずもありません。

 戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜的に取らざるを得なかったにしても、その後、正常化が図られ、三十四年に賢所で行われた皇太子殿下御結婚の儀は政府決定に寬より「国事」とされ、三十九年の常陸宮殿下、五十五年の寬仁親王殿下の御結婚の儀は「公事」とされたという経緯がありますね。

 ところが真田長官は、大嘗祭は神道儀式だと断定した。

永田 天皇否定論者の政治的批判や国家神道批判の高まりを恐れたのでしょう、国が神道儀式を行うことは、憲法が禁止する国の宗教活動に当たる、という絶対分離主義的な見解を示し、神道儀式か否かで、国の儀式と皇室行事とを区分する構想を明らかにしたのです。

 そしてこの真田答弁のあと、五十五年ごろ内閣法制局と宮内庁の間で御代替わりに関する準備書類が作られたようですが、まさにこの政教分離問題が御代替わりに大きな影を落とすことになりました。


▽11 ひたすら宗教色を避ける

──たとえば、大行天皇崩御の直後に行われる、皇位の象徴である剣と璽が新帝に引き継がれる「剣璽渡御の儀」は「剣璽等承継の儀」と改称されていますね。

永田 剣璽等の「等」は御璽と国璽のことで、これらを加えて国家儀式としたのですが、昭和天皇の最晩年になって明らかになってきたのは、この儀式が国事行為として行われる理由付けの卑屈さです。

 皇室経済法第七条「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに、皇嗣がこれを受ける」を法的根拠とする、つまり、天皇の由緒ある文化的財産を新帝が相続する儀式だから国事行為とする、という解釈です。

──国家神道批判を恐れるあまり、ひたすら宗教色を避けたということですね。

永田 じつに萎縮した考え、といわなければなりません。

 皇位の継承を践祚といいますが、平成の御代替わりでは宗教色を極力避けるという発想から、この践祚という言葉は使われませんでした。このため「践祚」と「即位」の区別が付かなくなり、平安時代以来の伝統の破壊が行われました。

 もっとも注目されたのは、大行天皇崩御の四十九日目に行われた斂葬の儀(葬場殿の儀および陵所の儀)の式次第です。

 本葬に当たる宗教的な葬場殿の儀は、大正様の場合は夕刻から行われましたが、昭和天皇の場合は昼間行われることになり、しかも国が多くの国賓などを招いて国葬として行う無宗教的な、まったくの新例である大喪の礼と、奇妙にドッキングして行われることになりました。

 同じ場所、同日、同時に、皇室の行事としての葬場殿の儀と国の行事としての大喪の礼を二部立てで挙行するなど、とんでもないことです。

──「国はいかなる宗教的行為もしてはならない」という憲法の条文に忠実なあまり、取り返しのつかない前例を作ったことになる。

永田 国が御大喪を営むこと自体、宗教的行為なのですから、まったく矛盾していますが、この悪しき先例は、正常化への強い意思を持たないかぎり、今後も引き継がれることになるでしょう。

 同様にして、大喪の礼は国家予算で行い、それ以外は宮内庁予算とするのも姑息でした。

「宗教色を除く」ために、大正天皇の御大喪では行われた葬列もなくなりました。そのため一般国民が霊柩をお見送りする機会はほとんど失われました。

 葬列のない初例は昭和六十二年二月の高松宮殿下の御喪儀で、牛車でも馬車でもなく、自動車が用いられました。この前例が踏襲されたのです。

──宗教色を薄めるため、という官僚的な発想から、当初は大喪の礼が行われる新宿御苑の総門から葬場殿までの間に設置されるふたつの鳥居は、作らないこととされました。

永田 結局、簡易式の鳥居が設置されることになったのですが、葬場殿の儀のあと、大喪の礼では大真榊とともにはずされました。

 鳥居、大真榊を神道のシンボルと見るからでしょうが、浅薄です。大阪・四天王寺には日本最古の石の鳥居がありますし、仏教ではシキミと呼ばれる常緑樹を仏前に供えます。

 憲法の政教分離原則は国民の信教の自由を確保するためにあるはずです。天皇がなさる宮中祭祀は信教の自由を脅かすものなのでしょうか。天皇の祭祀は宗教法人法上の宗教なのでしょうか。


▽12 大嘗祭を無宗教化したかった

──天皇が即位後、最初になさる新嘗祭が大嘗祭で、皇祖神はじめ天神地祇の神々に米と粟の新穀を供え、みずから召し上がるという皇室伝統の儀式ですが、やはり混乱が起きた?

永田 御大喪が無原則なら、大嘗祭も無原則になりました。宗教を忌避する姿勢が最大の原因です。

 当時、大嘗祭について、宮内庁内で懸念されていたのは、折口信夫流の真床覆衾論の広がりでした。

──大嘗宮の内陣に設けられた神座が、八重畳のうえに坂枕をおき、覆衾をかけた寝座であることから、折口は、天孫降臨に際して瓊瓊杵尊が真床覆衾にくるまって降りてこられたとする神話と連関させ、新帝が覆衾にくるまって天皇としての新たな生命を得る儀式がかつてあったのではないか、と文学者ならではの想像を働かせた。それ以降、新帝が先帝の遺骸に添い寝するという、オカルト的なことがいまも行われているかのような主張がしばしばなされてきたわけですね。

永田 新帝陛下がひとりでなさるという意味の「秘儀」という言葉が独り歩きし、おどろおどろしげな空想が拡大していくのを、宮内庁は非常に心配していました。

 おりしもこのとき國學院大學の岡田荘司教授(神道学)が否定論を書き、宮内庁がこれに飛びつきました。一研究者の学説に行政が関係するというのもそもそもあり得ないことで、岡田教授自身、びっくりされたようですが、それだけ当時の宮内庁はオカルトチックな神秘的イメージを払拭したかった。言い換えると、逆に大嘗祭を無宗教的なものとしてイメージさせたかったのです。


▽13 装束を着るのは時代錯誤?

──昭和天皇は昭和六十二(一九八七)年四月、八十六歳のお誕生日の宴会の儀で御体調を崩され、その後、御不調を訴えられるようになり、九月にはガン治療のため開腹手術を受けられました。政府および宮内庁が御代替わりの準備を公式に始めたのは、そのあとですね?

永田 六十三年六月、宮内庁次長、管理部長、書陵部長、皇室経済主管、式部副長、審議官をメンバーとする幹部会が設けられ、毎週定期的な協議が行われ、七月には次長から昇格したばかりの藤森昭一長官が準備指令を出しました。

──六十四年一月七日に昭和天皇が崩御になり、翌日、大喪の礼に関して協議する大喪の礼委員会が内閣に設置されることが閣議決定されました。委員長は竹下登首相、副委員長は小渕恵三官房長官、委員は味村治内閣法制局長官、小沢一郎内閣官房副長官、石原信雄内閣官房副長官、藤森宮内庁長官の四人でした。

永田 同じ日に宮内庁では、宮内庁長官を委員長とする大喪儀委員会が設置され、休日を除き毎日夕刻から会議が開かれました。

 庁内では葬場殿の儀をどう行うかについて議論が、準備指令のあと、始まりました。

──最初に問題となったのは、装束を着ることだったそうですね?

永田 計画書を提出したら、ある幹部職員は大声を張り上げ、「時代錯誤も甚だしい。こんな古臭い装束では、世界中の笑いものになる。日本の恥だ」とえらい剣幕です。困りました。

 装束ですら、これほどの拒否反応ですから、伝統形式の御大喪など不可能です。そこで各方面に慎重に根回しが行われました。その結果、ようやくほぼ喪儀令に則った御大喪が可能になったのです。ただ、実際に伝統の装束を揃えることはたいへんでした。

──しかし、海外からは「さすが日本は歴史が深い国だ」という好印象を得ることができた。

永田 君子は豹変す、といいますが、海外の高い評価が高級官僚たちの態度を一変させ、平成二(一九九〇)年十一月の大嘗祭を古式に合わせて挙行することができたのです。

 装束といえば、同年十一月十二日の即位の礼で、天皇陛下はもちろん皇族方は皆さま装束を身につけておられました。最初は洋装でという案もあったのですが、寬仁親王殿下が「本来はそう(洋装)でないだろう」というお言葉が牽引力となり、海部俊樹首相ひとりだけ燕尾服でした。

──皇室の伝統、とくに祭祀の伝統を守るというのは、ほんとうに難しいですね。

永田 即位の礼に先だって、本来なら、陛下は威儀物を引き連れ、賢所大前の儀が行われるべきですが、両陛下の御拝だけになりました。その理由は驚くなかれ、「時間がない」でした。


▽14 「大嘗宮は不要」高松宮殿下の卓見

──昭和から平成への御代替わりは、一見、伝統に則って行われたようにも見えますが、じつにさまざまな課題を残していますね。

永田 総体的に見ると、国および国民統合の象徴である天皇の御位が継承されるという歴史の節目にあって、諸行事が無原則に、場当たり的に、ご都合主義で行われたことです。

 戦前は皇室喪儀令という成文法がありました。大正天皇が崩御になる二カ月前の大正十五年十月に公布された、大正天皇の御大喪に合わせたようなものでしたが、当時の頭脳を結集して制度が作られました。けれども平成の御代替わりにはそれがありませんでした。

 特別の組織も設けられず、宮内庁の職員は日常の業務をこなしながら、併行して御代替わりに関する仕事に従事することになりました。詳細な記録が作られなかったのはそのためです。職員は正直、ひたすら眠りたいという思いをこらえつつ、毎日午前様の状態が続きました。

──大嘗祭についてはどうですか?

永田 大嘗祭が行われる大嘗宮について、高松宮殿下は「大嘗宮は要らない。神嘉殿でいい」と仰っていました。

 殿下は祭祀にたいへん造詣が深い方で、殿下が祭典に参列されると周囲がピリピリしていたほどです。その殿下が「神嘉殿でいい」と仰ったのには、深い考えがあったものと思われます。

 今上陛下の大嘗祭には各方面から多くの方々が参列されましたが、参列者からは「祭儀が見えない。聞こえない。寒い。暗い」という不満ばかりが聞かれ、参列を喜びとする声は少なかったと承知しています。

──もともと宮中祭祀は秘儀であり、見られることを想定していません。けれども、天皇様の祭りの何たるかを知らずにやってくる参列者は、見えるものだと思い込んでいる。

永田 大嘗宮を建てるにしても、参列者をしぼるべきです。そうでないと、皇室最大の重儀の神聖さを穢してしまいかねません。

 即位礼の十日後に大嘗祭が行われるという日程も、再考する必要がありそうです。

 昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです。

 即位礼と大嘗祭とを、もっと期間を空けるべきだ、と民俗学者の柳田国男が書いているのを読んだことがあります。

 平成の大嘗祭では新帝陛下が神前に奏上する、本来、非公開であるべき御告文などがマスコミに事前に漏れたのも、あってはならないことでした。


▽15 求められる祭祀の正常化

──伝統の祭祀に必要な材料や加工技術が得にくくなっているのも気がかりですね。

永田 大嘗祭に先だって、春に亀卜が行われます。神前に新穀を奉る悠紀・主基の国郡を占いによって決定するのですが、体長一メートル三十センチ以上のアオウミガメが必要です。しかし入手は簡単ではありません。

 カリフォルニアで肉食用に養殖していることが分かりましたが、ワシントン条約による規制で甲羅を輸入することができません。平成の御代替わりでは私たちの人脈で手に入れることができましたが、伝統を実際的に継承することの難しさを痛感したものです。

──大嘗祭には各都道府県から特産品が庭積机代物として献納されましたね。

永田 悠紀田・主基田でとれた精米などと同様に、じつはすべて買い上げでした。せっかくの篤農家たちの気持ちを逆なですることはなかったかと気になります。

──最大の問題点は、政治の世界との関係ですか? 福沢諭吉が「帝室は政治社外のものなり」(「帝室論」)と訴えたように、日本の皇室は権力政治を超越した存在でなければなりません。

永田 平成の御代替わりのときは、考えのしっかりした政治家が少なからずおられましたが、将来はどうでしょうか。

 戦前は、皇位継承について定める皇室典範は憲法と同格でした。けれども現行の皇室典範は憲法の下位に置かれ、一般の法律と同様、国会の議決で簡単に変えられるようになっています。ここにも問題があります。

 天皇は国の最高権威です。皇位の継承は最高の国家的行事として、少なくとも千年の伝統があります。平成の御代替わりを丹念に検証し、謙虚に反省し、祭祀を正常化していく努力が求められると考えます。

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