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混迷する「女性宮家」創設論議の一因  ──古代律令制の規定を読み違えている? [女性宮家]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2012年3月18日)からの転載です


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 混迷する「女性宮家」創設論議の一因
 ──古代律令制の規定を読み違えている?
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 今日も、「女性宮家」創設問題について書きたいと思います。

 今日、メディアなどで一般に語られている「女性宮家」は、歴史上、存在しません。

 前回、書いたように、国会図書館のデータベースで検索すると、10年前の平成14年までしか遡れない、というのが何よりの証拠です。女性天皇・女系継承容認に向けて、天皇・皇族方によってではなくて、官僚たちによって、創作された概念です。

 けれども、たいへん興味深いことに、歴史上、存在したかのように力説する研究者もいます。むろん、どうしても女系継承を容認し、女性宮家を立てる必要があるのなら、そうせざるを得ないのですが、議論は冷静に、謙虚に、客観的事実を踏まえて、行われるべきではないでしょうか?


▽1 宮家を立て、宮家を継承するのは皇族男子のみ

 以前、書きましたように、宮内庁書陵部が編纂した『皇室制度史料 皇族4』(昭和61年)によれば、「宮家」の制度は鎌倉時代以降に生まれます。

 古来、特定の皇族個人に対して「○○宮」と呼ぶことは行われていましたが、「鎌倉時代以降、殿邸・所領の伝領とともに、家号としての宮号が生まれ、やがて代々、親王宣下を蒙って宮家を世襲する、いわゆる世襲親王家が成立した」のだそうです。

 そして、「室町時代に成立を見た伏見宮をはじめ、戦国時代末から江戸時代に創設された桂宮・有栖川宮・閑院宮の4宮家は四親王家と称さ」れ、この「四親王家はいずれも皇統の備えとしての役割を担い」ました。

 したがって、宮家を立て、あるいは宮家を継承するのは、皇族男子に限られます。けれども、そのような歴史の事実が軽視されているように思えてなりません。

 前回、お話ししたように、平成8年、鎌倉節宮内長官時代に皇室典範改正、女系継承容認に向けた作業が開始されたことが知られています。

 翌9~12年には内閣官房の協力により、工藤敦夫・元内閣法制局長官を中心に研究会、懇話会が設けられ、第1期は皇室制度、第2期は皇室法についての研究に取り組み、12~15年には資料の整理が行われ、長官、次長に随時報告されたといわれます。


▽2 議論の出発点は現行憲法

 森暢平元毎日新聞記者の雑誌記事(「女性天皇容認!内閣法制局が極秘に進める。これが「皇室典範」改正草案──女帝を認め、女性宮家をつくるための検討作業」=「文藝春秋」2002年3月号)によると、内閣法制局が進める極秘プロジェクトの基本方針は、(1)女性天皇容認と(2)女性宮家創設容認の2つでした。

 象徴天皇制を安定的に継続させるには、女性天皇・女系継承を認める必要がある。したがって、女性皇族にも皇位継承権が認められ、結婚しても皇室に残る。そのため女性宮家が必然的に認められる、という論理です。

 天皇は、主権の存する国民の総意に基づいて、国と国民統合の象徴という地位にあり、内閣総理大臣や最高裁長官の任命、系法改正や法律、政令などの公布、国会の召集など、国事行為のみを行う国家機関であるとするなら、その機関の安定性が確保されるためには、男子でも、女子でもかまわないということになります。

 現行憲法を議論の出発点とするから、女性天皇のみならず、過去の歴史にない女系継承は容認されるべきであり、したがって、過去の例のない女性宮家も認められるべきであるという論理の展開になります。

 17年1月から有識者会議による公式検討が始まり、そこでは「伝統」の尊重が基本的視点の1つに置かれましたが、それはあくまで戦後60年の象徴天皇制度の伝統というべきでした。

 報告書の「はじめに」に、(1)さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討した。(2)世論の動向に合わせて検討した、という2つのことが説明されていますが、もっとも肝心な、皇室自身の天皇観、皇室にとっての継承制度という視点、もっといえば、天皇は祭り主であるという観点が完全に抜け落ちていました。

 当メルマガが何度も指摘してきたように、天皇は祭祀王であればこそ、男系によって皇位は継承されてきた、その歴史の重大事が注目されることはありませんでした。

 そして実際、有識者会議が皇室の意見に耳を傾けることはなかったのです。


▽3 歴史上、あったかのような議論

 過去の歴史にない女系継承を認め、そのための女性宮家の創設なのですから、女性宮家なるものが歴史上、あるはずもないのですが、研究者のなかには「過去にあった」かのように解説する人もいます。

 女性宮家の創設を、論壇で、いち早く提案したのは、所功京都産業大学教授でした。「Voice」2004年8月号掲載の「“皇室の危機”打開のために──女性宮家の創立と帝王学」は、皇位継承資格者の男子皇族がきわめて少ないという「はなはだ深刻な事態」を解決する打開策について、次のように述べています。

「管見を申せば、私もかねてより女帝容認論を唱えてきた。けれども、それは万やむを得ない事態に備えての一策である。それよりも先に考えるべきことは、過去千数百年以上の伝統を持つ皇位継承の原則を可能なかぎり維持する方策であろう。それには、まず『皇室典範』第12条(斎藤吉久注。皇族女子が一般男子と婚姻した場合、皇族身分を離れるという規定)を改めて、女性宮家の創立を可能にする必要がある」

 女性宮家の創立によって、「皇族の実数を可能なかぎり増やしてゆくこと」ができるというのですが、歴史と伝統を重視する皇室をテーマとする研究者がなぜ歴史にないことを容認しようとするのか、私にはよく分かりません。政府の極秘プロジェクト・チームとは異なり、女帝容認と女性宮家創立とを別のこととして理解されている点も注目されます。


▽4 「女性宮家」が消えた有識者会議報告書

 この年の暮れに、安定的な皇位継承について検討する皇室典範有識者会議が発足しました。森元記者によれば、政府の非公式な検討では女性天皇・女系継承容認と女性宮家創設論は一体であり、有識者会議に招かれた所教授は皇族の減少を食い止めるための女性宮家創立を提案しました。

 しかし同年7月の会合で中間報告としての論点整理をまとめましたが、そこには「女性宮家の創立」は盛り込まれませんでした。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai10/10gijisidai.html

 11月にまとめられた報告書は、「安定的で望ましい皇位継承のための方策」として、「皇位継承資格を女子に拡大した場合、皇族女子は、婚姻後も皇室にとどまり、その配偶者も皇族の身分を有することとする必要がある」と述べていますが、「女性宮家」という表現は用いていません。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.html#1

 その後、悠仁親王殿下の御誕生で皇室典範改正案の国会提出は見送られ、少なくとも表向きは、議論は下火になりましたが、昨年11月になって、皇室のご活動の確保を目的とする女性宮家創設論が浮上してきました。

 渡邉允前侍従長は皇位継承問題とは「別の次元の問題」と釘を刺しましたが、またぞろ男系派と女系派との熱い論戦が再燃しています。


▽5 律令は「女帝」の存在を公式に認めていた?

 そんななかで、所教授の女性宮家創立論が際立っているのは、女性宮家が過去の歴史にあったかのように解説していることです。

 所教授は、有識者会議では、8世紀に完成した「大宝令(たいほうりょう)」や、これに続く「養老令(ようろうりょう)」に、皇族の身分や継承法を定めた「継嗣令(けいしりょう)」という規定があることに注目します。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.html

 冒頭の一条は、「凡そ皇(こう)の兄弟、皇子をば、皆親王(しんのう)と為(せ)よ。〈女帝(にょたい)の子も亦(また)同じ〉。以外は並に諸王と為よ。親王より五世は、王の名得たりと雖(いえど)も、皇親の限に在らず」(『律令』日本思想大系3、井上光貞ら、岩波書店、1976年)とあります。〈〉の部分は原注です。

 この「女帝の子も亦同じ」について、所教授は、「天皇たり得るのは、男性を通常の本則としながらも、非常の補則として『女帝』の存在を容認していたということであります」「これは、母系血縁あるいは母性というものを尊重する日本古来の風土から生まれた、既に6世紀末の推古天皇に始まる『女帝』を、当時の最高法規である律令が公的に正当化したものとして重要な意味を持つものだと思うわけであります」と述べています。

 以上は女帝容認論の歴史的根拠としての指摘ですが、それから7年後の今年、執筆された「宮家世襲の実情と『女性宮家』の要件」(「正論」今年3月号)で、所教授は、「継嗣令」以後の皇室の制度史を概観し、「宮家も男系の男子で世襲されてきたが、正室の嫡子だけでなく側室の庶子が認められていても、それは必ずしも容易ではない。そのため、実子が無ければ、皇族の間から養子を取って継嗣とした」と述べ、「幕末に皇女を迎えて当主とした」という桂宮家の例をあげています。

 古代律令制は女性天皇の存在を制度的に認め、幕末期には宮家の当主となった女性皇族もおられる、という歴史理解は、今日の女性宮家創立論を後押ししています。


▽6 まったく異なる読みと解釈

 ところが、宣命研究を趣味とする畏友・佐藤鶏鳴氏の研究では、この解釈には無理があると指摘されています。

 根拠の第一は、「養老令」それ自体にあります。

「継嗣令」は「令」の巻第五に定めがありますが、巻第七に「公式令(くうじきりょう)」という、公文書の様式などを定めて諸規定があり、「皇祖」「先帝」「天子」「天皇」などの文字が文章中に使用される場合は、行を改め、行頭に書いて、敬意を表すこと(平出[ひょうしゅつ])や、「大社」「陵号」「乗輿」「詔書」「勅旨」などの場合は、一字分を空けて敬意を表すこと(闕字[けつじ])が説明されています。

 けれども、いずれの場合も「女帝」は登場しません。所教授だけでなく、岩波の日本思想大系も同様ですが、「継嗣令」の原注を「女帝の子」と読むことに無理があるのではないか、と佐藤氏は指摘します。

 同様の疑問は古代史の専門家にもあるようです。

「養老令」施行から2年後の天平宝字3(759)年6月に、光明皇太后が淳仁天皇にお言葉を発せられたことが『続日本紀』に既述され、「是(ここ)を以(もち)て先考(ちちみこ)を追ひて皇(すめら)とし、親母(はは)を大夫人(おおみおや)とし、兄弟姉妹(あにおとあねいも)を親王(みこ)とせよ」とあり、この最後のくだりについては、「継嗣令」との関連が想起されるのですが、『続日本紀3』(新日本古典文学大系14、青木和夫ら校注、岩波書店、1992年)では、所教授や日本思想大系とは別の理解がされているのです。

 すなわち、新日本古典文学大系の校注には、「継嗣令」の「凡皇兄弟皇子、皆為親王〈女帝子亦同〉」が引用され、「舎人親王を天皇とするので、その子女(淳仁の兄弟姉妹)も親王・内親王と称させる」と記されています。

 つまり、〈女帝子亦同〉は「女帝の子も亦同じ」と読み、解釈するのではなくて、「女(ひめみこ)も帝の子、また同じ」と読み、天皇の子女は親王・内親王とすると解釈しているのです。


▽7 笹山名誉教授は沈黙し、園部元判事は女系継承を容認す

 たいへん興味深いことに、新日本古典文学大系の校注者の1人が、女性天皇・女系継承を容認する皇室典範有識者会議で、ほとんど唯一の皇室史の専門家として、委員を務めた、笹山晴生東大名誉教授(日本古代史)でしたが、笹山先生が女系継承容認論者の論拠を批判したとは聞きません。

 一方、有識者会議で座長代理を務め、今年1月来、女性宮家検討担当内閣官房参与の立場にある園部逸夫元最高裁判事は、著書の『皇室制度を考える』(中央公論新社、2007年)で女性天皇・女系継承容認論を展開し、次のように「継嗣令」に言及しています。

「養老令の継嗣令第一条は、女性天皇の子についても男性天皇と同様、親王とする旨の定めがされていた。この時代、一定の身分以上の皇親女子の配偶者は皇親男子に限られていたので、女性天皇に子があるような場合でも、その子は皇統に属する男系の子でもあることになるが、当該子の身分については、天皇が女性の場合は女性天皇を基準に定められ、その意味では女系の考えにより定められる制度となっていた」

 引用の前半は「継嗣令」の読み違いが明らかで、それゆえ、後半はまったく意味不明の文章が続いています。

 これでは女性宮家創設の議論が迷走するのは目に見えています。

 それどころではありません。まったく驚いたことに、女系継承容認に抵抗する男系派も同様に、「継嗣令」を解釈しているのです。


▽8 女系継承否認派もなんら変わらない

 皇室典範問題研究会による「皇位の安定的継承をはかるための立法案」(「正論」今年3月号)は、「なぜ皇位継承は男系男子に限らなければならないか」「憲法第2条の『世襲』とは男系・女系いずれをも含むのではないか」など、皇室典範改正に関する想定問題集を計21問、掲載していますが、「問8」は次のようになっています。

「問8〈養老継嗣令においても「女帝の子は親王となす」とあり、女系天皇をみとめていたのではないか〉

答 養老継嗣令第1条は親王宣下の資格(皇族の範囲)を規定したもので、皇位継承とは直接関係がない。「女帝子亦同」の一句はその注意書と考えられる(本則に対する例外)。

 女帝の配偶者はおられないから、女帝が皇后または皇太子妃になられる以前の皇子のことを指すものと考えられる(皇后、皇太子妃時代の皇子は本則により親王となられる)」

「女帝子亦同」を「女帝の子、また同じ」と読み、解釈することにおいては、女系継承容認派となんら変わらないのです。


▽9 宮家の当主となった唯一の内親王

 最後に、蛇足ながら、所教授が言及する桂宮家の歴史について、考えてみたいと思います。所教授は、「皇女を迎えて当主とした例」として、あたかも女性宮家の前例であるかのように紹介していますが、そのような理解は可能なのでしょうか?

 所教授によれば、桂宮家は波乱の歴史をたどっています。しばしば後嗣に恵まれなかったからです。3、4、5、6代と皇子を養子に迎えて、宮家を継いでいます。

 そして8代目が薨去したあと、20年以上、空主の時代を迎えます。先例にならって、生まれて間もない、光格天皇の皇子を迎え、第9代となりますが、ほどなくして亡くなり、ふたたび空主となります。

 24年後、今度は仁孝天皇の皇子が迎えられ、第10代となりますが、やはり2歳半弱で夭折し、三度、空主となります。

 26年後、文久2(1862)年、迎えられたのが仁孝天皇の皇女淑子(すみこ)内親王でした。御歳34歳。所教授は「史上初めての皇女を当主とする宮家」がここに成立したと説明しますが、未婚を貫かれ、20年後、この世を去り、同宮家は幕を閉じます。

 女性宮家創設の前例となりうるかどうかは、精査の必要があります。

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