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何のための歴史論なのか──所功教授の「女性宮家」ヒアリング議事録を読む [皇室制度有識者ヒアリング]


以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2012年7月23日)からの転載です


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何のための歴史論なのか──所功教授の「女性宮家」ヒアリング議事録を読む
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 今月5日に行われた第6回皇室制度有識者ヒアリング(いわゆる「女性宮家」有識者ヒアリング)の議事録が、先週末、やっと官邸のサイトに公表されました。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koushitsu/yushikisha.html

 意見を述べたのは、所功京都産業大学名誉教授(モラロジー研究所教授。日本法制史。女性宮家賛成派)と八木秀次高崎経済大学教授(憲法学。女性宮家反対派)のお2人ですが、今日は所先生の意見について考えます。

 とくに、歴史と向き合う姿勢について、考えてみたいと思います。悠久なる皇室の歴史は日本の歴史そのものであり、皇室について語ることは必然的に歴史と向き合うことを迫られます。


▽1 「女性宮家」創設論のパイオニア

 さて、先生は、いち早く「女性宮家」創設を提唱するなど、「女性宮家」創設論に関しては突出したパイオニア的存在です。

 平成16年7月、ちょうど内閣官房と宮内庁が皇室典範改正の公式検討に向けて準備を始めたころ、先生は雑誌「Voice」8月号に、「“皇室の危機”打開のために──女性宮家の創立と帝王学──女帝、是か非かを問う前にすべき工夫や方策がある」を書いています。

「管見を申せば、私もかねてより女帝容認論を唱えてきた。けれども、それは万やむを得ざる事態に備えての一策である。それよりも先に考えるべきことは、過去千数百年以上の伝統を持つ皇位継承の原則を可能なかぎり維持する方策であろう。それには、まず『皇室典範』第12条を改めて、女性宮家の創立を可能にする必要がある」

 歴史上、「女性宮家」は存在しませんから、「女性宮家」の創設は皇位継承の伝統を維持することにはなりません。したがって所先生の論理は矛盾しています。歴史的伝統の堅持を宣言し、そのために歴史の断片を提示し、しかし実際は相反する新例に向かって突き進む、というのが先生の最大の特徴のように見えます。

 翌17年6月8日には、皇室典範有識者会議のヒアリングで、先生は「女性宮家」創設を提案しています。

「現在極端に少ない皇族の総数を増やすためには、女子皇族も結婚により女性宮家を創立できるように改め、その子女を皇族とする必要があろう」

 皇位継承の安定化のためには皇族の数を増やす必要がある。そのため女性皇族が婚姻後も皇室にとどまり、その子女も皇族とする必要性があると訴えています。

 同年11月の有識者会議報告書は、女性天皇・女系継承容認に踏み出しました。「女性宮家」という表現は消えましたが、「女子が皇位継承資格を有することとした場合には、婚姻後も、皇位継承資格者として、皇族の身分にとどまり、その配偶者や子孫も皇族となることとする必要がある」とその中味は盛り込まれています。

 所教授は「女性天皇、女系継承、女性宮家の創立なども可能とした報告書の大筋には賛成したい」と新聞に感想を寄せています。先生は新例創設のパイオニアです。


▽2 古代に女系継承が認められていた?

 女系継承にしても、女性宮家にしても、歴史に前例がありません。歴史家である先生はそれをどうお考えなのか? 「いや、前例はある」と主張されるのか、それとも、「前例はないが新例を開くべきだ」と訴えているのか? そこが必ずしもはっきりしません。

 先生がこれまで女性宮家創設を訴えてきた目的は皇位継承論でしたが、今回は、政府の目的論に沿うように、「皇室のご活動」論に代わっています。

 先生はまず「皇室のご活動」について、こう意見を述べています。

「現在の皇室は、平成に入りましてからも、昭和天皇をお手本とされます今上陛下が中心 となられまして、皇后陛下を始め、内廷と宮家の皇族方に協力を得られながら、多種多様な御活動を誠心誠意お務めになっておられます。その御活動は、日本社会に本当の安心と安定をもたらしており、また国際社会からも信頼と敬愛を寄せられる大きな要因になって いると思われます」

 行動し、実践するのが天皇本来のお務めではないはずですが、それはともかく、こうした認識に立って、「しかしなか?ら、戦後、日本国憲法の下で法律として制定されました皇室典範は、明治の典範と同様の、かなり厳しい制約を規定するのみならず、さらに皇庶子の継承権をも否認しております。そのため、男性の宮家が減少し、皇族女子も次々に皇室から離れていかれますと、これまでのような御活動の維持が困難になることは避けられません。したがって、早急に改善をする必要があると思われます」という論理で、「女性宮家」創設に賛意を表しています。

 しかし、「ただし、〈女性宮家創設の〉より重い大きな目的は、皇位の安定的継承を可能にすることであります」と指摘し、持論である皇位継承論を展開しています。(注。〈〉内は筆者の補足)

 指摘したい第1の点は、古代律令制の規定の解釈は正確か、ということです。

 先生はこう語っています。

「〈皇位継承について〉最も重要な点を申せば、…〈中略〉…『皇位の継承者は皇統に属する皇族』でなければならない。つまり、正統な血統と明確な身分を根本要件といたします。この点、現在、『皇統に属する男系の男子』が3代先(次の次の次)までおられますから、典範の第1条は当然現行のままでよいと考えられます。

 ただし、その間にもそれ以降にも、絶対ないとは言えない事態を考えれば、将来は改定する、ということを忘れてはならないと思います。その際に大切なことは、一方で従来の歴代天皇が全て男系であり、ほとんど男子であった、という歴史を重視するとともに、他方で古代にも近世にも8方10代の女帝がおられ、また大宝令制(701年)以来、「女帝の子」も親王・内親王と認められてきた、というユニークな史実も軽視してはならないことであります」

 過去に女性天皇がおられたという歴史の事実、古代律令制に「女帝の子」も親王・内親王とする定めがあったという歴史の事実を重んじて、将来の皇位継承制度を考えるべきだという主張かと思います。


▽3 「女帝の子」ではなく「女も帝の子」

 女性天皇が過去に存在することは知られています。問題は後者です。先生は17年の有識者会議のヒアリングでも、8世紀に完成した「大宝令(たいほうりょう)」や、これに続く「養老令(ようろうりょう)」に、皇族の身分や継承法を定めた「継嗣令(けいしりょう)」という規定があることに注目し、同様の発言をしています。

 継嗣令の冒頭の一条は、「凡そ皇(こう)の兄弟、皇子をば、皆親王(しんのう)と為(せ)よ。〈女帝(にょたい)の子も亦(また)同じ〉。以外は並に諸王と為よ。親王より五世は、王の名得たりと雖(いえど)も、皇親の限に在らず」(『律令』日本思想大系3、井上光貞ら、岩波書店、1976年)とあります。〈〉の部分は原注です。

 この「女帝の子も亦同じ」について、先生は、「天皇たり得るのは、男性を通常の本則としながらも、非常の補則として『女帝』の存在を容認していたということであります」「これは、母系血縁あるいは母性というものを尊重する日本古来の風土から生まれた、既に6世紀末の推古天皇に始まる『女帝』を、当時の最高法規である律令が公的に正当化したものとして重要な意味を持つものだと思うわけであります」と述べています。

 しかし、「女帝の子もまた同じ」と読む解釈には無理がある、という指摘があります。畏友・佐藤雉鳴氏の指摘です。「女(ひめみこ)も帝の子、また同じ」と読むべきであり、天皇の兄弟、皇子と同様に、女子も(内)親王とする、と解釈すべきだというのです。女性天皇の子孫についての規定ではないというわけです。
http://melma.com/backnumber_170937_5518825/

 根拠のひとつは、「養老令」それ自体にあります。

「継嗣令」は「令」の巻第五に定めがありますが、巻第七に「公式令(くうじきりょう)」という、公文書の様式などを定めた諸規定があり、「皇祖」「先帝」「天子」「天皇」などの文字が文章中に使用される場合は、行を改め、行頭に書いて、敬意を表す「平出(ひょうしゅつ)」や、「大社」「陵号」「乗輿」「詔書」「勅旨」などの場合は、一字分を空けて敬意を表す「闕字(けつじ)」について、説明されています。

 けれども、いずれの場合も「女帝」は登場しません。「継嗣令」の原注を「女帝の子」と読むことに無理があるのではないか、というのが佐藤氏の指摘です。たしかに「女帝の子」と読んでは、全体の意味がとれなくなります。

 佐藤氏だけでなく、同様の疑問は古代史の専門家にもあるようです。

「養老令」施行から2年後の天平宝字3(759)年6月に、光明皇太后が淳仁天皇にお言葉を発せられたことが『続日本紀』に既述され、「是(ここ)を以(もち)て先考(ちちみこ)を追ひて皇(すめら)とし、親母(はは)を大夫人(おおみおや)とし、兄弟姉妹(あにおとあねいも)を親王(みこ)とせよ」とあります。この最後のくだりについては、「継嗣令」との関連が想起されますが、『続日本紀 3』(新日本古典文学大系14、青木和夫ら校注、岩波書店、1992年)では、所先生や日本思想大系とは別の解釈がされています。

 すなわち、新日本古典文学大系の校注には、「継嗣令」の「凡皇兄弟皇子、皆為親王〈女帝子亦同〉」が引用され、「舎人親王を天皇とするので、その子女(淳仁の兄弟姉妹)も親王・内親王と称させる」と記されています。「女帝の子」という解釈は採られていません。

 けれども所先生は、あくまで「女帝の子」と読み、解釈しています。


▽4 淑子内親王の事例は歴史の先例か

 それから7年後の今年、執筆された「宮家世襲の実情と『女性宮家』の要件」(「正論」3月号)では、先生は、「継嗣令」以後の皇室の制度史を概観し、「宮家も男系の男子で世襲されてきたが、正室の嫡子だけでなく側室の庶子が認められていても、それは必ずしも容易ではない。そのため、実子が無ければ、皇族の間から養子を取って継嗣とした」と述べて、「幕末に皇女を迎えて当主とした」という桂宮家の例をあげています。

 指摘すべき2点目はこの桂宮家の事例です。

 先生の指摘は、古代に女系継承容認の法制度があったように、女性宮家の先駆的事例が歴史上、存在する、ということのようです。けれども、これも半信半疑です。

 今回のヒアリングでも、先生はいかにも歴史家らしく、「宮家」の歴史を見渡し、桂宮家のケースに言及しています。

「幕末に至って、同家の家臣らから要請され、文久3年、西暦1862年に、孝明天皇や皇女和宮親子内親王の姉に当たられる敏宮淑子内親王が第11代の当主に就任しておられます。たた?、早く婚約していた閑院宮第5代の愛仁親王に先立たれ、一生独身を通されましたから、明治14年(1881)、その薨去により絶家となってしまいました」

 淡々とした説明は、何をおっしゃりたかったのでしょうか?

 レジュメでは「念のため、宮家の歴史を振り返ると、嫡子も庶子も当代天皇の猶子(名目養子)となり 親王宣下を蒙れば、宮家を相続(世襲)することができた。また桂宮家では、幕末に男子の猶子を得られないため、皇女(淑子内親王)を当主に迎えた実例がある」とされていますから、「女性宮家」は歴史に先例があり、新例ではないと主張されたいのでしょうか?

 所先生のレジュメにまとめられた淑子(すみこ)内親王の事例は宮内省の資料からの抜粋でしょうが、学術的な研究もあります。久保貴子昭和女子大学講師の「女性宮家と女性当主」(「歴史読本」2006年11月号)がそれです。


▽5 次代への継承を予定しない幕引き役

 以下、久保講師の文章を引用することにします。〈〉内は私の補足です。

「〈文久元[1861]年〉12月に入って、淑子内親王は〈妹君の〉和宮が出立して空いた桂御所に入った。〈降嫁目前の和宮が要請し、天皇が命じ、幕府が承諾した〉新殿ができるまでの仮住居である。しかし、淑子内親王にとっては思いも掛けない展開が待っていた。翌文久2年10月、26年間空主の続く桂宮家に仕える諸大夫たちが、淑子内親王の桂宮家相続を願い出たのである。諸大夫たちは、〈天保6[1835]年に、26年ぶりに、2歳で桂宮家を相続し、翌年、没した〉節仁(みさひと)親王〈仁孝天皇皇子〉没後も皇子誕生をひたすら待ち望んでいたが、孝明天皇にも睦仁親王(明治天皇)以外皇子がおらず、皇子による相続は全くめどが立っていなかった。〈9代〉公仁親王没後から数えれば90年余り、ほとんど空主の桂宮家では存続の危機感がピークに達していた。そんな時期に仮住居として淑子内親王に接し、意を決したということかもしれない。

 この願いを受けた天皇は淑子内親王の気持ちをたしかめた上で意向を固め、幕府の了承を得た。文久3年2月、それまで淑子内親王に与えられていた化粧料300石はそのままとし、相続にともなって道具料500石が新たに進献されることに決まる。4月、いったん参内した淑子内親王は行列を整えて桂御所に入った。内親王35歳の時で、もちろん未婚である」

 結局、なぜ内親王が親王家を相続することになったのか? はっきりした理由は分かりません。

「当主の妻が家主、あるいは家主同格として家を守ることはあっても、女性である皇女が親王家を相続したのはこの淑子内親王のみで、幕末という時代を背景に、さまざまな要因が重なり合って生じた極めて希有な出来事であった」

 久保講師は以上のように説明するだけです。

 所先生が説明するように、文政12(1829)年にお生まれになった淑子内親王は、天保11(1840)年に閑院宮5代愛仁(なるひと)親王(文化15[1818]年生)と婚約されましたが、2年後、愛仁親王は薨去され、婚約は自然解消されます。

 天保13年に内親王宣下されますが、淑子内親王はその後、独身を貫かれ、35歳で桂宮家を相続され、慶応2(1866)年4月に一品に叙せられ、准三宮の宣旨を受けられ、以後、桂准后宮と称せられましたが、明治14(1881)年10月、53歳で薨去され、300年続いた桂宮家は絶えることとなりました。

 当時としては適齢期を過ぎているであろう30代半ばまで独身を貫き、親王家を相続してからも結婚することがない。つまり、次代への継承を予定しない、いわば幕引き役としてのお立場といえます。皇統の備えとしての宮家の役割を果たすことはない、内親王による唯一の親王家相続のケースは、「女性宮家」創設の歴史的先例とはいえないでしょう。


▽6 新例を開くための大義名分は十分か

 もちろん、先生はそんなことは百も承知であるかのように、こう述べています。

「この〈まず秋篠宮家の御長女が同家を継がれ、御次女が新しい宮家を立てられ、次いで皇太子家の御長女が新しい宮家を立てられるという〉ような女性宮家の設立は、確かに前例がありませんから、いろいろ慎重に配慮しながら実現する必要があります。ただ、皇室の歴史を広く見渡せば、古代にアジアで初めて皇太后を女帝とし、初めて藤原氏を皇后に立て、中世まで前例のなかった男性宮家を設け、そのうち数家を世襲親王家とし、やがて桂宮家では皇女を養子に迎えて当主としましたが、 これらはいずれも新例を開いたことになります」

 新例だという認識であるのならば、過去の歴史にあったかのような、まどろっこしい説明や議論は不要ではありませんか? 先生は「あらためて歴史に学び、現実を正視しながら、将来への展望を開く」と表明していますが、正確さに疑念のある断片的な歴史論を、何のために展開するのでしょうか? 歴史に学ぶのなら事実に対する謙虚さが求められます。一般人ならもかく、およそ歴史家にとって、歴史はご都合主義の道具ではないはずです。

 逆に、それでも新例を開く必要がある、というのなら、そのための大義名分が求められます。けれども、秋篠宮家、東宮の各内親王に婚姻後も、皇室にとどまり、果たしていただくべき「皇室のご活動」とはいかなるものなのか、具体性が見えません。生身の人間の将来に関わる重大事です。「皇室のご活動」維持という目的は新例の根拠となり得るのでしょうか? 歴史に学ぶなら、行動主義が悠久なる皇室の本質でないことは明らかなはずです。
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