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〈短期集中連載〉「女性宮家」創設賛否両論の不明 第2回──月刊「正論」25年1月号掲載拙文の転載 [女性宮家創設論]

以下は「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジン(2012年12月26日)からの転載です


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〈短期集中連載〉「女性宮家」創設賛否両論の不明 第2回
──月刊「正論」25年1月号掲載拙文の転載
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 月刊「正論」平成25年1月号に掲載された拙文を転載します。

 なお、若干の修正があります。


〈短期集中連載〉
「女性宮家」創設賛否両論の不明

第2回 欠落する戦後皇室行政史の重要事実
──反対派・百地章教授の場合


 皇室制度有識者ヒアリングを踏まえ、平成24年秋に発表された「論点整理」は、「この問題に関する論点や考えられる方策については概(おおむ)ね出そろった」とまとめていますが、むしろ混乱が増しているように見えます。

 前回は、「制度改革ありき」の政府の発想と論理がそもそもおかしいこと、いわゆる「女性宮家」創設論のパイオニアである所功京都産業大学名誉教授の歴史論に曖昧さがあること、などを指摘しました。

 今回は、所教授とは対極にある、反対派の百地(ももち)章日大教授(憲法学)です。まず、同年4月に行われた第3回ヒアリングの意見を、あえて批判的に読んでみます。


▽ 歴史的天皇から象徴天皇へ

 議事録などによると、論点は、(1)「女性宮家」創設論への疑問、(2)憲法第2条「皇位の世襲」について、(3)陛下の御公務御負担軽減論について、(4)元皇族の皇籍復帰について、の4点です。

 (1)については、本来、皇位継承者を確保し、皇統の危機に備えるのが「宮家」だから、「女性宮家」は意味を持たない、などと指摘しています。ほとんど同感ですが、気になるのは、戦後皇室行政史の重要事実が脱落していることです。そのため、なぜ「女性宮家」創設論が浮上してきたか、が見えません。

 百地教授は、125代に及ぶ皇室の歴史に、「女性宮家」が概念上も、実態としてもない、意味をなさないと指摘しましたが、現行憲法を起点とする新たな「象徴天皇制度」の下でなら成立します。言い換えると、政府はなぜいま歴史的天皇とは異なる天皇制度を模索しているのか、を深く探究する必要があります。それには隠蔽された史実を見定める視点と追究が求められます。それがなければ、問題の本質が見えてこないはずです。

 たとえば、数年前、政府関係者として初めて「女性宮家」創設を提唱し、以後、たびたび表明してきた渡邉允(まこと)前侍従長(現在は宮内庁参与)は、「今上陛下はご即位のはじめから現憲法下の象徴天皇であられた」(雑誌「諸君!」20年7月号掲載のインタビュー)と述べています。昭和天皇は在位の途中から、ですが、今上天皇は最初から、「象徴天皇制度」の下での「象徴天皇」だという理解です。

 渡邉前侍従長に限りません。23年6月の参院決算委員会で「今上陛下は何代目か?」と質問された枝野幸男官房長官が「存じ上げません」と答えたことが話題になりました。「無知」を冷笑する保守派は少なくありませんが、現行憲法下での行政なら、あえて「知る」必要はないでしょう。「無知」は私にはむしろ確信的に聞こえます。

 もし「125代」の立場なら、歴史的な枠組みで天皇・皇室制度を考えなければなりません。けれども、現行憲法下での「1.5代」の「象徴天皇制度」なら、歴史にない「女性宮家」創設も、悠久なる天皇の歴史とは無関係に進めることができます。「陛下の御公務」=「皇室の御活動」の維持を目的とする今般の皇室制度改革も、現行憲法を出発点として考えればすむことです。

 つまり、「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄(きんぴしょう)」)と歴代天皇が信じ、実践してこられた祭祀王たる歴史的天皇から、「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」と定める現行憲法的な象徴天皇への、いわゆる正統性の中断が、行政の実務において行われています。それはいつ、どのように行われたのか?

 しかしながら百地教授は、現代史には格別の関心がないのかもしれません。

 24年3月2日づけ産経新聞「正論」欄に、「男系重視と矛盾する『女性宮家』」と題する百地教授の一文が載りました。この文章は、渡邉前侍従長の皇統問題「棚上げ」論の危険性を指摘するなど、ヒアリングで述べられたエッセンスが見いだせます。

 注目されるのは、百地教授が「問題の発端は、羽毛田信吾宮内庁長官が野田(佳彦)首相に対して、陛下のご公務の負担軽減のためとして、『女性宮家』の創設を要請したことにある」と断定していることです。

 羽毛田長官が要請したという理解は、23年11月25日の「『女性宮家』の創設検討 宮内庁が首相に要請」という読売新聞の 「スクープ」に基づくものでしょうが、誤報でしょう。

「週刊朝日」同年12月30日号に掲載された岩井克己朝日新聞記者の記事では、「羽毛田信吾長官は…(中略)…女性宮家創設を提案したと報じられた。また一部で『これは天皇陛下の意向』とも取り沙汰されている。いずれも羽毛田長官は強く否定している」からです。「長官が要請」なら、「宮内庁が要請」の見出しは不自然です。

 しかし、誤報なら、宮内庁は抗議すべきです。そうしないのは、せっかく火がついた「女性宮家」創設論議にブレーキをかけたくないからでしょう。宮内庁関係者が提唱者である事実は間違いがないのですから。

 ともかくも、もともとメディアの報道ですから、「……と伝えられる」ぐらいに留めればいいものを、百地教授は言い切ってしまっています。ほかに確証があるのか、それとも事実の追究もしくは追及の甘さなのか?


▽ 宮内府長官官房文書課長の依命通牒

 百地教授は著書の『政教分離とは何か──争点の解明』の「第十章 憲法と大嘗祭(だいじょうさい)」で、天皇の即位儀礼である大嘗祭をめぐる従来の違憲論・合憲論、そして政府解釈を紹介しつつ、大嘗祭国事説の当否を検討し、「憲法問題を中心」に精緻な議論を展開しています。

 とくに政府見解について、(1)昭和21年12月6日および17日の、第91回帝国議会での金森徳次郎国務大臣の答弁、(2)昭和54年4月17日の、衆院内閣委員会での真田秀夫内閣法制局長官の答弁、(3)昭和59年4月5日の、衆院内閣委員会での前田正道内閣法制局第一部長の答弁、などを例示し、大嘗祭を天皇の国事行為として実施することについて、「政府は、確かにこれまで否定的態度をとり続けてきた」と指摘しています。

 たとえば金森国務大臣は、「皇位継承に伴って、種々なる儀式が行わせられる(ことになるが)、改正憲法におきましては、宗教上の意義をもった事柄は、国の儀式とはいたさないことになっております」(百地教授の引用文のまま)と答弁していると解説されています。百地教授の説明通り、「理由は政教分離に違反するという点にある」ことは勿論です。

 けれども、政府が戦後一貫して、宮中祭祀に対して、「否定的態度をとり続けてきた」のではありません。政教分離に関する憲法解釈・運用は占領前期と後期では異なるし、昭和40~50年代に一変しています。ポイントはここです。

 歴史を振り返ると、終戦直後の昭和20年12月、GHQは「国家と宗教を分離すること」を目的に、いわゆる神道指令を発しました。東京駅の門松や注連縄(しめなわ)までも撤去させるほど過酷なもので、宮中祭祀は存続を認められたものの、公的性を否定され、「皇室の私事」に貶(おとし)められました。

 非占領国の宗教に干渉することは戦時国際法に明確に違反していますが、戦時中から「国家神道」こそ「軍国主義・超国家主義」の源泉だという考えに固まっていたアメリカは、あえて無視して干渉しました。

 その約1年半後に日本国憲法が施行され、それに伴って宮中祭祀について定める皇室祭祀令など戦前の皇室令はすべて廃止され、天皇の祭祀は成文法上の根拠を失いました。

 けれども、祭祀の伝統は辛うじてながら守られました。「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」という宮内府長官官房文書課長・高尾亮一名による依命通牒(いめいつうちょう)、いまでいう審議官通達が各部局長官に発せされたからです。

 日本政府は、皇室伝統の祭祀を守るため、当面は「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、という方針でした。GHQは、天皇が「皇室の私事」として祭祀を続けられることについては、干渉しませんでした。祭祀に従事する掌典職員は内廷費で雇われ、天皇の私的使用人と位置づけられました。

 終戦直後の宮内次官で、戦後初の侍従長ともなった大金益次郎氏は、「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や、という点については深い疑問があったけれども、何分、神道指令はきわめて苛烈なもので、論争の余地がなかった」と国会で答弁したと聞きます。

 けれども数年を経ずして、GHQは政教分離の解釈・運用を、国家と教会を分離する限定分離主義に緩和させます。

 であればこそ、24年11月の松平恒雄参議院議長の参議院葬は議長公邸で、神道形式で行われ、26年10月には吉田茂首相の靖国神社参拝も認められました。つい数年前は靖国神社の焼却があちこちで噂になり、GHQ民間情報教育局(CIE)の大勢は「神道、神社は撲滅せよ」と強硬に主張していたのに、アメリカは神道敵視政策をいとも簡単に捨て去ったのです。

 26年5月に貞明皇后が亡くなり、翌月、御大喪が行われ、斂葬(れんそう)当日に全国の学校で「黙祷」が捧げられたとき、アメリカ人宣教師たちは「戦前の国家宗教への忌まわしい回帰」と猛反発しましたが、GHQは彼らを擁護しませんでした。占領中の宗教政策を担当したCIE職員のW・P・ウッダードは、次のように説明したとのちに回想しています。

「神道指令は(占領中の)いまなお有効だが、『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている」(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」)

 明らかに政策は変わったのです。貞明皇后の御大喪が旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与したことについて、昭和35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一皇室経済主管(当時)は次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。…(中略)…占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました」

 しかし、神道指令が具体的にどのような経緯で発せられ、しかもなぜまたたく間に緩やかな分離主義へと変更されたのか、は歴史の大きなナゾのままです。

 やがて平和条約の発効で日本は独立を回復し、神道指令も失効しました。けれども天皇の祭祀の法的位置づけは確定されませんでした。それでも、34年4月の皇太子(今上天皇)御成婚で、賢所での神式儀礼を含む御結婚の儀が「国事」と閣議決定され、国会議員が参列しました。こうして宮中祭祀はすべて「皇室の私事」とした神道指令下の解釈が打破されたのです。

 百地教授が解説するように、「政府が否定的態度をとり続けてきた」のなら、貞明皇后の御大喪が伝統に準じて挙行されることも、今上陛下の御結婚の儀が「国事」として行われることもなかったでしょう。

 もっとも百地教授は、「政府は大嘗祭と皇室祭祀一般とを区別し、大嘗祭については『皇室の私事』といった云い方を意識的に避けてきたように思われる」と述べています。

 百地教授によると、「政府は皇室祭祀一般については『皇室の私事』であることを明言したことがあるが、大嘗祭についてはあくまで『皇室の行事』というにとどまり、『皇室の私事』といった云い方はしてこなかった」。大嘗祭は、古くは新嘗祭と区別されず、天武天皇以降、皇位継承儀礼のひとつとして確立された。明治憲法下でも新嘗祭が皇室祭祀令にいう祭祀(大祭)に含められたのに対して、大嘗祭は皇位継承に関わる登極令に定められ、「国事」と位置づけられた。「このような事情から、政府は現憲法下でも、大嘗祭については皇位継承に伴う伝統儀礼であって公的性格が強いものと考え、あえて『皇室の私事』とはせず、『皇室の行事』と答弁してきたのではないか」──と解説されています。

 要するに、百地教授は政府の憲法解釈の歴史を静的に見ています。そこに重大な欠陥があるのではないでしょうか?


▽ 昭和50年8月の宮内庁長官室会議

 百地教授の研究に欠落している最たるものは、昭和22年5月3日の宮内府長官官房文書課長名による依命通牒が、50年8月15日の宮内庁長官室会議で廃棄されたことによる宮中祭祀の歴史の一大転換です。

 44年4月3日の参院建設委員会で、瓜生順良宮内庁次長は、「宮中三殿の建物も国有財産にすることは可能である」という内閣法制局の「解釈」を示しました。こうして天皇の祭祀を「私事」に押し込めてきた神道指令以来の法解釈は改善されたのですが、逆にこのころを境に、揺り戻しが始まりました。

 宮内庁職員の世代交代が起こり、職員の意識が様変わりし、そして宮中祭祀の改変がおきたのです。昭和天皇の祭祀に携わった元宮内庁掌典補は次のように証言します。

「戦前の宮内省時代からの生(は)え抜き職員たちが定年退職し始め、代わって戦後教育を受けた人たちが入庁するようになったからです。幹部職員には元華族の方などもおられましたが、外務省、厚生省、自治省、警察庁など、ほかの官庁から横滑りするようになり、皇室に対する考え方が変わり始めました」

「憲法が定める信教の自由を掲げ、『なぜ祭祀に、公務員が関わらなければならないのか』という意見が口々に出て、祭祀が敬遠されるようになったのです。

 戦後世代の職員たちは『陛下にお仕えする』というよりも、『国家公務員である』という考え方が先に立ちました。皇室の歴史と伝統についての理解は乏しく、逆に、『国はいかなる宗教的活動もしてはならない』という憲法の政教分離規定を、字義通り厳しく解釈・運用する考え方が、まるで新興宗教と見まがうほどに蔓延(まんえん)し、陛下の側近中の側近である侍従さんまでが祭祀から遠のき始めました」(「文藝春秋」24年2月号掲載の永田忠興元掌典補インタビュー「左遷された『昭和天皇の忠臣』」。聞き手は私です)

 はじめは入江相政侍従長による祭祀の簡略化でした。入江氏は、昭和天皇のご健康問題を口実に、43年には毎月1日の旬祭(しゅんさい)の親拝を年2回に削減し、45年には新嘗祭の「簡素化」(入江日記)に取りかかりました。皇室第一の重儀といわれる新嘗祭は夕(よい)の儀と暁の儀の2回、繰り返されますが、入江日記によると、同年は夕の儀のみが親祭で、暁の儀は掌典長が祭典を行ったようです。

 膨大な日記に宮中祭祀の神聖さを何ら記録しなかった「俗物」侍従長が執念を燃やした祭祀の形骸化は、富田朝彦内閣調査室長が宮内庁次長に転身し、長官に昇格するころ、舞台を「オモテ」に移し、激化します。「富田メモ」で知られる富田長官は無神論者を自認していた、と元掌典補は述べています。

 大きなうねりのようなものが宮内庁を含む行政全体を襲い、そして昭和50年8月15日、宮内庁長官室の会議で、祭祀の伝統の破壊が決められました。宇佐美毅長官、富田次長の時代、政教分離の厳格主義が主流になった結果でした。

 入江日記には「長官室の会議。神宮御代拝は掌典、毎朝御代拝は侍従、ただし庭上よりモーニングで」とあります。最大の変更は毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)だったようです。

 毎朝御代拝は、平安中期の宇多天皇に始まり、一日も欠かさず受け継がれてきた、天皇が毎朝、石灰壇(いしばいのだん)に登り、伊勢神宮並びに賢所を遥拝された石灰壇(いしばいだんの)御拝(ごはい)に連なる重儀で、明治以後、天皇に代わって側近の侍従に潔斎のうえ、烏帽子(えぼし)・浄衣(じょうえ)に身を正させ、宮中三殿の内陣で拝礼させる毎朝御代拝に代わったのですが、昭和50年9月1日以降は宮中三殿前庭のなるべく遠い位置からモーニングを着て拝礼する形式に変わりました。侍従は公務員だから宗教に関与すべきではない、というのが理由で、拝礼場所と服装の変更は神道色を薄めるための配慮とされます。

 こうして昭和22年の依命通牒は破棄され、『宮内庁関係法規集』から消えました。占領中でさえ、侍従による毎朝御代拝は不問とされたのですから、憲法解釈は占領期より後退したといえます。百地教授が解説するように、一貫して「否定的態度」だった、のではなく、このとき激変したのです。

 祭祀の連続性が途切れただけでなく、同時にオモテとオクが峻別され、オモテの職員がお茶出しやお車のドアの開け閉めに関わることもなくなったようですが、宮内庁は法解釈の変更を公にすることを避けました。表面化したのは7年後です。

 昭和57年暮れに祭祀簡略化の実態が明るみに出、マスコミが取り上げて大騒動に発展しました。このとき全国約八万社の神社を包括する神社本庁は抗議の質問書を提出し、宮内庁当局者が「祭事は陛下の私事以外には扱えない」と語っているのは見解が変わったのか、と富田長官に詰め寄りました。

 紆余曲折の末、宮内庁は掌典長名による「公式見解」を発表し、祭祀はすべて「陛下の私事」とする一般に流布する解釈ではなくて、「今後も国事たり得る場合もあり、公事として行われることもある」と神社人の主張を全面的に認めました。しかし4か月後の入江日記には、さらなる祭祀の簡略化が進められたことが記録されています。

 今日、平成の祭祀簡略化を進言したとされる渡邉前侍従長は、「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』ということにならざるを得ません」(前掲「諸君!」インタビュー)と語っています。

 皇室制度改革の最大のキーパーソン園部逸夫内閣官房参与(元最高裁判事)も同様です。著書の『皇室制度を考える』は宮中祭祀に何度か言及し、天皇の私事と解説しています。

「宮中祭祀をはじめ宗教的性格があると見られることが否定できない行為は、天皇は象徴としての立場で行うことはできず、私的な立場によってのみ行うことができると解されており(通説。政府見解)、現行制度の解釈としては妥当といえよう」

 天皇の祭祀には宗教性が否定できないから、憲法の政教分離の原則上、国の機関としての立場では行えないというのが政府の見解だ、という解説です。占領前期の憲法解釈に完全に先祖返りしています。


▽ 有識者ヒアリングを実施する理由

 実際のところ、政府は戦後、むしろ緩やかな分離政策を採用してきました。

 関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む東京都慰霊堂では春秋年2回、仏式による慰霊法要が都内の5つの仏教寺院の持ち回りで行われています。カトリックの世界的巡礼地である長崎の26聖人記念碑は市有地に立地し、小泉内閣時代以降、首相官邸などでイスラムの断食明けの行事「イフタール」が行われました。けれども「違憲」という抗議の声は聞かれません。

 しかし、宮中祭祀や神社のこととなると、政教分離の厳格主義が頭をもたげてきます。つまり宗教政策の二重基準(ダブルスタンダード)です。

 そして昭和22年の宮内府長官官房文書課長の依命通牒が50年の長官室会議で反故にされ、宮中行事の明文的根拠が完全に失われた結果、昭和から平成への御代替わりの諸行事はさまざまな影響を受けました。

 最大のテーマは大嘗祭でした。「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と、当時、内閣官房副長官として政府の中枢にいた石原信雄氏は、著書の『官邸二六六八日』で振り返っています。何しろ戦後の皇室典範には、「大嘗祭」の定めが見当たりません。

 しかし、立法者たちが大嘗祭の挙行を不適当だと考えたわけではありません。

 昭和21年12月5日の帝国議会で、皇室典範案に関する第一読会が行われたとき、金森国務大臣は、「即位の礼を行わせられ、大嘗祭を行わせられるというふうの規定は、これはその即位の礼に関しましては、今回制定せられまする典範の中にやはり規定が設けてありまして、実質において異なるところはございませんので、大嘗祭等のことを細かに書くことが一面の理がないわけではありませんが、これはやはり信仰に関する点を多分に含んでおりまするが故に、皇室典範の中に姿を現わすことは、或は不適当であろうと考えておるのであります」と述べています。

 22年5月3日に現行皇室典範が日本国憲法とともに施行され、その前日に皇室令は廃止されましたが、皇室の祭祀の伝統は実質的に維持されました。であればこそ、「従前の例に準じて」とする宮内府長官官房文書課長の依命通牒が発せられています。

 そして50年8月の宮内庁長官室会議で、宮内官僚たちがこの依命通牒を人知れず反故にするまで、この通牒は生きていました。

 依命通牒が廃棄されなければ、昭和天皇崩御から5か月も経って、政府が検討委員会、準備委員会などの会議を何度も重ね、参考人まで呼んで、何か月にもわたり、大がかりに「即位の礼」の「中身」を検討する必要はありませんでした。旧登極令には御代替わりの儀式が事細かに定められていたからです。

 依命通牒の破棄こそ、戦後の皇室行政史最大の画期です。ところが、百地教授の研究書にはこの歴史が抜け落ちています。

 著書の第11章に「『依命通牒』をめぐって」という一節があります。大分県知事らが大嘗祭に関連する「主基(すき)斎田抜穂(ぬいぼ)の儀」に参列したことが違憲だと訴えた裁判で、原告が主張したことのひとつが、依命通牒を法的根拠として大嘗祭を挙行することは、現行憲法施行によって「主権等の原理的転換」が行われた歴史を無視している、というものでしたが、百地教授はこう批判しています。

「仮に『依命通牒』が存在しなかったとしても、憲法自身が皇位の『世襲』に伴う不可欠の伝統儀式として大嘗祭を容認している以上、『皇室の公的行事』として大嘗祭を斎行することは可能と思われる」

「仮に存在しなかったとしても」は、「昔はあったが、いまはない」ではなくて、「昔もあり、いまもある」、つまり、昭和50年8月の宮内庁長官室会議での破棄はない、と読めます。官僚の通達を官僚が人知れずに廃棄し、その結果、皇室の伝統の断絶を招き、御代替わりの諸行事について大掛かりな検討を行うことを迫られ、そのことについて政府が口をつぐんでいる、という理解ではないことになります。しかし「なかった」のならまだしも、「破棄された」意味は小さくありません。

 いみじくも百地教授自身が参加したヒアリングがそうであるように、そもそも有識者に参考意見を求め、皇室の諸制度を検討し決定するという手法が採られるようになったのは、依命通牒の破棄によって皇室の伝統の踏襲に関する明文的根拠が失われたことに、根本的原因があるのではないでしょうか?


▽ とうに始まっている天皇の名目化

 依命通牒に記された、基準とすべき「従前の例」が反故にされた以上、125代にわたる皇室の長い歴史と伝統に代わって、新たな基準がなければなりません。

 根本的基準はむろん憲法です。御代替わりの進め方について参考人に意見を求め、小泉内閣時代に皇位継承安定化のために有識者会議を設置し、そして「女性宮家」創設のために有識者ヒアリングを行った根拠が「国民主権」「象徴天皇」にあることは、明らかです。

 日本国憲法下での最初の事例となった平成の御代替わりでは、政府は、「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、皇室の伝統行事のうち、伝統のままに行うことが現行憲法の趣旨に反すると考えるものは、国の行事ではなく皇室行事とされました(『平成大礼記録』宮内庁など)。

 小泉内閣の皇室典範有識者会議では、「伝統」の尊重が「基本的な視点」のひとつに置かれましたが、あくまで戦後六十年の象徴天皇制度の伝統というべきでした。報告書の「はじめに」には、(1)さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討した。(2)世論の動向に合わせて検討した、と説明されていますが、皇室自身の天皇観、皇室にとっての継承制度という視点、天皇は祭り主であるという観点は、見当たりません。

 憲法は「天皇の地位は国民の総意に基づく」と定めているからなのでしょう。実際、有識者会議は皇族方の意見に耳を傾けようとしないどころか、女系継承容認に憂慮の念を示された寛仁(ともひと)親王殿下に対して、吉川弘之座長(元東大総長)は「どうということはない」とうそぶき、皇族方を守るべき立場のはずの羽毛田長官は、「皇室の方々は発言を控えていただくのが妥当」と口封じに及びました。

 羽毛田長官こそは皇室改革の急先鋒で、18年9月、国民が待望した悠仁(ひさひと)親王殿下のご誕生に、「皇位継承の安定は図れない」と水を差しました。16年7月の参院選のマニフェストに女性天皇容認方針を掲載した民主党が21年8月の衆院選で圧勝、政権を取ると、皇室典範改正に取り組むよう鳩山新内閣に要請する意向を表明し、秋波を送りました。

 その鳩山内閣は同年暮れ、習近平中国副主席の「ゴリ押し」天皇会見を強行しました。日本の最高権威であり、それゆえ現実の権力政治から超然たる地位にあるべき天皇が、「ポスト胡錦涛」の権力闘争を展開していた習近平サイドに政治利用されることを、「国際親善」の名目で許したのです。

「特例会見」を決定した小沢一郎幹事長は語気を荒げて、こう言い放ちました。

「天皇陛下の行為は、国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるんだ、すべて。それが日本国憲法の理念であり、本旨なんだ」

 政権を取れば、天皇をも自由に動かせる、つまり、天皇は実質的に内閣の下位に位置する名目上の国家機関にすぎない、という居直りと聞こえます。

 天皇を名目上の国家機関と解釈するさきがけは、戦後の憲法学界に巨匠として君臨し、いまなお多大な影響力を持つ宮澤俊義東大教授(故人)です。宮沢教授は『憲法と天皇』に、次のように書いています。

「憲法に書いてある天皇の行為は、すべて儀礼的・めくら判的なもので、なんら決定の自由を含むものでないことは、明らかだ。…(中略)…ずいぶんばかばかしい役目のようだが、日本国憲法の定める天皇の役割は、つまるところ、そういうものなのだ」

 民主党政権下で進められる皇室制度改革こそ、歴史的天皇から逸脱する、現行憲法を起点とする天皇の名目化でしょう。そして、歴史からの逸脱はとうに始まっています。

 宮内庁のサイトを見れば、天皇の祭祀は「両陛下の祭祀」となり、陛下のご公務は「両陛下の御活動」に概念が変えられています。基準は「男女平等」「一夫一婦制」でしょうか? もはや天皇は「上御一人」ではありません。

 それどころか、24年2月、今上陛下が入院されたとき、臣籍出身で、本来は「見なし皇族」で、摂政でも臨時代行でもない皇后陛下がお一人で、外国に赴任する日本大使夫妻との「お茶」に臨まれ、3月には離任する外国大使を「ご引見」になりました。

 憲法は天皇の「国事に関する行為」を定め、「全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること」「外国の大使及び公使を接受すること」をあげています。宮内庁のHPは「ご引見」について「天皇陛下が皇后陛下とご一緒に、外国の首相や大使、その夫人などの賓客とお会いになることをご引見といい」と説明していますが、皇后陛下お一人の「ご引見」の法的根拠はどこにあるのでしょう? もはや憲法からの逸脱ではありませんか?

 進行中の、「陛下の御公務」をご結婚後の女性皇族にも「ご分担」いただく皇室制度改革は、「御活動」なさる近代的天皇・皇室観を背景に、「めくら判」を女性皇族にまで押しつけるものではないでしょうか? しかも、それは一部現実化しているように見えます。

 片や千年以上にわたる天皇の祈りの意義を深く探究しないままに、祭祀の伝統を断絶させ、片や「皇室の御活動」維持の美名のもとに、天皇を非宗教的な名目上の国家機関化しようとしている。それは許されるのか、最大の論点はそこにあるものと思います。男系か女系かの「神学論争」(園部参与)を展開している場合ではないでしょう。

 百地教授は行政機関を被告とする大嘗祭関連訴訟などで、国側に立ち、擁護論を展開しています。法廷の反天皇派には有効な憲法論なのでしょうが、「本能寺の敵」に対してはどうでしょうか? 古来、民が信じるあらゆる神に、公正かつ無私なる祈りを捧げ、国と民をひとつに統合してきた天皇統治の歴史と伝統を守り得るのかどうか?

 百地教授は政府の「論点整理」を、発表の五日後、産経本紙「正論」欄で厳しく批判し、GHQの占領政策に言及しています。

 皇族の規模が減少するのを阻止し、かつ、皇室の御活動を維持し、皇位の安定的継承を確保する唯一の方法は、「連合国軍総司令部の圧力で無理矢理、臣籍降下させられた旧宮家の男系男子孫のうち相応(ふさわ)しい方々を『皇族』として迎えることである」と指摘したのですが、旧敵国を憎むあまり、戦後行政史への追及が甘くなっていませんか? 著書名に示された「政教分離とは何か」を、より深く見据えなければならないと私は思います。

 次回は、やはり「女性宮家」創設反対派の八木秀次高崎経済大学教授(憲法学)を取り上げます。


以上、月刊「正論」25年1月号掲載拙文からの転載でした。


なお、現在発売中の2月号に〈短期集中連載〉第3回「論争より共同研究の進展を──反対派・八木秀次教授の場合」が載っています。
http://seiron-sankei.com/recent

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